第三幕 暗号解読

一六 言質



「……あの、どうして、わたくしだけなのでしょうか」

 列椿の国の首府、王城の中にある貴人あてびと用につくられた浴場、その露天風呂にしずはいた。もうすっかり夜、頭上では星が群れをなしてきらめいているが、それを見上げて楽しもうという気にはなれない。岩に囲まれた湯船に満ちる湯が心持ち濁っていることが救いだが、本当に気休め程度だ。せめて手ぬぐいで体を隠したかったが、布を湯につけるなと父に教えられていて、それを破る勇気がなかった。

 どうしてこんなことになったのかと、沈は思い悩む。

 先に湯船に入って、後から仲間たちが来るのを待っていたはずだった。加え、行とは、互いに背中を流そうと約束をしていた。沈は長風呂で、ゆくからすの行水であるから、沈が先に入浴することで時間を合わせ、ふたり並んで体を洗おうと。

 沈としては、仲間を疑いたくはないが、どう考えても

 沈の隣には行がいる。頭に手ぬぐいを乗せて、のんきにしていた。

「どうしたもこうしたも、誘ったんだけどね、さっちゃんは部屋でし、あっちゃんはうると一緒に君王苑くんのうえんに行っちゃったし。どんな取り引きがあったか、だいたい想像つくけど」

 囁はずいぶんといいようにされたようである。部屋で伏せたささやから、呪いの蛇に舌で瞳を舐められる気持ちがわかるかと問われたので、行は、本物の蛇と違って感染症等の恐れがないよと返した。

「ま、こっちの仕事にさしつかえないようにしてくれてるとこは、さすがだね」

 潤は囁に恐怖を与えはしたが、実害がないよう気を配ったようだった。長年、つわものの頂点をやっているだけあって、商売の損得は心得ている。であるから馴れ合いも成立する。

「潤ちゃんが首府に?」

 沈は、潤を厭悪えんおしないでいる数少ない者のひとりだが、仲良くする機会には恵まれないでいた。ともに戦うとなっても、沈の咎言とがごとも潤の咎言も索敵さくてきに優れるとなれば、離して配置したほうが効率がいい。

「そ。休暇で来てて、たまたま会ったんだってさ。君王苑を半周する間限定で潤にも位階あげてきたよ。視察って名目で。しかしまあ、あっちゃんも、鳥肌立ててまでやることかなぁ」

 何か起きたようではある。沈としては、気にもなるし、一緒に夜涼みの散歩に行きたい。あるいは囁の介抱をしてあげたい。だが、沈は恥じらいにまみれていて、事情を尋ねる余裕が持てなかった。

「というかそもそも、しずっちだけじゃなくて、ここにもうひとりいるし」

 行はあっさりと言いながら、に目をやる。

「それが一番の大問題なんですっ!」

 沈が声を荒げることはめったにないが、今はそののひとつだった。

「ども。沈さんですよね。お噂はかねがね。言い遅れましたが、俺、秋大忌あきおおいみかくっていって、の一番弟子兼元助手です。先月、二十一になりました」

 沈の目の前で湯につかる若い男は、何も問題は起きていないとばかりに、にこやかに名乗る。世の感覚で言えば、爽やかな好青年の範疇に入るだろう。美しい淡さを持つ桜色の髪がその印象を強める。碧色へきしよくの瞳は穏やかで、年若としわかのそれとは言え、女の裸を目の前にして心を乱す様子は何ひとつ見せない。

 普段なら沈からも笑顔を返せる。しかしここは風呂だ。沈と行が裸なら、かくも裸なのだ。沈は隠の顔がぎりぎり視界の端に入るようにはしていたが、そこから下はどうあっても目を向けられない。

「軍議に出たらそこで隠坊かくぼうと再会してね。今はお隣の羽撃はうちの国に雇われてるって」

 羽撃ちの国は列椿の国の北に位置する。諸国連合のうちの一国であり、すなわち列椿の国と同盟関係にある。今回のいくさは羽撃ちの国が加勢してくれると、沈はそう聞いている。友軍が増えるのは頼もしい。行と隠の再会も喜ばしい。何よりもまず一刻も早くここから逃げたい。

「あの、わたくし、そろそろお琴の稽古の時間ですから、もうここで――」

 沈は自分の腕で体を隠し、湯船から上がろうとした。琴の稽古はもう二年もやっていないが。大急ぎで立ちたかったが、湯には酒の載った盆が浮かべられていて、波を立てられず、そろりとした動きになった。

「何言ってんの。ここに来たいって言い出したの、しずっちじゃんか」

 行は沈の細い二の腕を掴んで引きとめる。そのことで、腕で隠していた体が危うくあらわになってしまうところで、沈はすぐに諦めて、体を湯の中に戻した。

「その、混浴だとは聞いていませんでしたから……」

 下唇したくちびるが湯に接するほどに深く浸かっている沈は、おのれの無識むしきを恥じるように言ったが、すぐさま行から否定が返ってきた。

「何言ってんの。ここ、女風呂だよ」

「なおさら問題ではないですかっ!」

 沈はまたも声を荒げる。ふたりの様子を見て、羽撃はうちの国の雇われ軍師――かくは、微笑みをさらに深く柔らかいものにした。

「いやあ、さすが先生、職権の濫用らんようのしかたもひと味違う」

「さすがに渋られたけどね。でも、同盟国の軍師を風呂場で接待するんだって言ったら、そりゃよねぇ。貸し切りにするしかないよねぇ」

 沈は他の利用客の姿がないことに疑問を感じていた。普段からこうなのかと思っていたが、どうやら違う。行が貸し切りにするよう言い含めていたのだろう。

 従二位じゅにいであっても、決まりは決まりとしてある。ましてや城内の施設は全て王のもの。そう曲げられるものではないし、軍人いくさびと貴人あてびとのための浴場に口出しできるものでもない。ではあるが、行はたったひと言だけで無理を通した。同盟国の軍師の機嫌を損ねて、それでいくさに負けでもしたら――軍の作戦を妨害したとなれば――浴場の管理者には責任の取りようがないのである。

「俺、ものすごい軽蔑の眼差まなざしを向けられてましたね」

 隠はにこやかに言う。行とともに浴場に入っていく隠には、冷たすぎる視線が浴びせられた。接待の意味を取り違えたのに違いなかった。そうやって軽蔑されて得はしない、けれど、悪ふざけを成功させたのは楽しくて仕方なかった。

 隠の前に浮かべられた盆、そこにある猪口ちょこに、行は酒をいだ。

「本当はただ、こうしてお酌をしてあげようってだけなのにさ」

「ええと……」

 なぜ、男女で風呂に入るだけで、ほどの軽蔑が発生するのか、沈にはわからなかった。混浴の浴場は、探せばたくさんある。疑問には思ったが、詳しく聞かないほうがこの場合は身のためと直感して、沈は言葉を呑み込んだ。

「まあまあ、心配いらないって。隠坊は昔から年上好みでさ、せめて十以上年上じゃないと、って感じだから。あたしたちなんて女じゃないよ。ってだけで」

 隠は容貌が整っているうえ、人当たりもいい。行は、隠が色恋に不自由しているのを見たことがない。そして決まって、相手は隠よりひと回り年上だった。経験があればこそ、女と風呂に入る程度で動揺することもない。

「あの、それはそれで、乙女として複雑なところがあるのですが……」

「さて、湯につかるのも飽きたから、接待はここまで!」

 波を立てて徳利とっくりを倒さぬよう、行は盆を両手で持ち、そして堂々と立ち上がった。そうなると、満ちる湯は行のももまでしか届かない。何も隠せていないのとほぼ同義だった。

「ゆっちはもう少し恥じらいを持ってください!」

 沈は真剣に、かつ心配も含めて声を荒げたが、行は何ら省みることなく、酒の載った盆を湯に浮かべ直した。

「恥じらいでいくさに勝てるなら、そうするけどね。じゃ、体洗ってくるから」

 ためらいなく湯船から出た行は、頭に乗せている手ぬぐいに触れようともせず、そのまま洗い場のほうへ向かった。

「先生はほんと相変わらずだなあ。何か、安心しますけどね」

 隠は、そんな行の様子を微笑ましく見ている。行の言うことは確かなようで、その視線は、女を見るそれではないと、沈には思えた。やはりそれはそれで胸中に複雑なものが湧くのだが、ともかくも、今は観念してしまったほうが賢明であるらしい。

 沈は、ちゃんと相手の目を見て話せと教えられてきたが、それを実践するとそこから下も視界に入ってしまう。それだけは勘弁してもらおう、察してもらえるだろう、沈はそう結論づけて、頭上の星に目をやりながら、隠に話しかけた。

「ゆっちは昔、戦術を教える私塾をやっていたと聞きましたけど、先生というのは、その時の呼び名ですか?」

 戦勝請負の始まりは、囁と改だった。そこに行が加わって三人になり、後に沈が誘われ、今の形になった。ゆえに、塾長であった行のことを、沈は知らない。

「ええ。最初の生徒が俺なんです。でも、ほとんどは助手でしたけどね。特に最初の頃は、先生、ろくに喋れなかったから」

「えっ、ゆっちが? 喋れないとは、どういう……」

 さっぱり呑み込めなかった。沈の見る行はいつも饒舌で、話し上手で、無用なものと有用なものをすぐに理解する。先のように、たったひと言で無理を通してしまうこともある。

「そのままの意味です。あの人、読み書きは自分で覚えちゃったんですけど、発音だけは、自分ひとりではどうしてもわからなかったみたいで。びっくりしましたよ。筆談では完璧に会話ができるのに、どう声に出したらいいかわからないって言うんですもん」

 隠は苦笑を浮かべた。行と出会った時のことが頭に浮かんだからだ。あれだけの印象的な出会い、忘れようにも忘れられない。

「読み書きを、自分で? ひとりで?」

 説明を加えられたが、沈はよりいっそうわからなくなった。特に気になったところを抜き出して、そのまま問いにしてしまった。

「ええ。ひとりだけで。聞いてないですか?」

「その、わたくしたちは、お互いの過去の話をあまりしないんです。隠したいわけではないのですが、その話題になった時、さっちゃんが困ること、わかってますから」

 暗黙のうちに、それは戦勝請負の中での決まりごとになっていた。隠すつもりもないし、また、誰のどんな過去を知っても、今さら嫌ったりしない。それは全員が知っている。ただただ、囁を困らせたくないがゆえの配慮だった。

「先生ーっ」

 沈の言うことを聞いてすぐ、隠は洗い場にいた行を呼んだ。行はそれに応じて、湯船のほうに歩いてくる。

「先生の昔の話、しちゃってもいいですか?」

 隠としては、万一にも行の面子を潰すわけにはいかず、了承を必要とした。

 髪を泡立てながら、行は湯船のすぐそばに立った。両の手は頭の上にあり、やはり何ひとつ隠そうとしない。

「いいけど、かわいさ八割増しにしといてくれる? 憎たらしい小童こわっぱだからさ」

 恥じらいは全く気にせず、かわいさは求める、どういう基準でそうなるのか、沈にはさっぱりわからない。価値観は人それぞれなのだろう。沈はひとり納得する。沈はきれいと言われたいが、行はかわいいと言われたいのかもしれない。努めずにかわいく思われたい横着おうちゃくものなのだろうか。

 行の答えを聞いて、隠は口元だけで笑みを深くした。悪戯いたずらの笑みだった。

言質げんちは取りましたからね。ありのまま、憎たらしい小童こわっぱの話をします」

 どうにも話がつながっていなかった。かわいさを増す、という条件付きの許可のはずだった。

「隠坊、そのこころは?」

 別千千ことちぢ行の一番弟子は、会話の流れを取り違えまい。行は立ったまま髪を洗いつつ、種明かしを求めた。

「もとから全くないんです。憎たらしい小童こわっぱに一でもかわいさがありますか? れいは何割増しにしても何倍にしても零のままです」

 零かける五も、零かける百も、答えは同じ。零のままだ。八割増し、つまり一・八倍にしても、やはり零にしかならない。

「ああ、かけ算じゃなくて、足し算にしとけばよかったわけか」

 行は得心がいく。零足す一なら、答えは一になっていたと。弟子にしてやられた格好だったが、それとは別に、行は残念そうな顔をする。

「感心しないなぁ。そういう、言葉尻のずるい利用のしかた。すっかり先生に似ちゃったねえ」

「そりゃあ、一番弟子兼元助手ですから」

 反して、隠は豊かな微笑みを浮かべていた。

「――だって、他の誰に似ればいいんですか?」

 納得して、行は洗い場に戻っていく。沈と同様に夜空を見上げた隠は、憎たらしい小童こわっぱのことを思い出していた。今もたいして変わらないなと、そう思いながら。

「さて、話の続きですけど」

 話しながら、隠は星の並びを見ていく。

「先生は生まれてから九年とちょっと、誰にも話しかけてもらえなかったんです。自分じゃない誰かの声を聞いたことがなかったそうです」

 隠はすぐに、いくつもの星座を夜空に見つけ出し、さらには天の南極の位置も掴む。行と出会っていなければ、星座はともかく、天の南極を覚えることは決してなかっただろう。もっとずっと北であれば、北極星を探せばいい。この地ではそうはいかない。南極星にあたる星はどこにもないからだ。

「ですが、その時、先生の目の前には数え切れないほどの書物がありました。、山ほどの書物を照らし合わせて、自分ひとりで解き明かしちゃったんですよ。ってやつを」




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