第三幕 暗号解読
一六 言質
「……あの、どうして、わたくしだけなのでしょうか」
列椿の国の首府、王城の中にある
どうしてこんなことになったのかと、沈は思い悩む。
先に湯船に入って、後から仲間たちが来るのを待っていたはずだった。加え、行とは、互いに背中を流そうと約束をしていた。沈は長風呂で、
沈としては、仲間を疑いたくはないが、どう考えても騙された。
沈の隣には行がいる。頭に手ぬぐいを乗せて、のんきにしていた。
「どうしたもこうしたも、誘ったんだけどね、さっちゃんは部屋でのびてるし、あっちゃんは
囁はずいぶんといいようにされたようである。部屋で伏せた
「ま、こっちの仕事にさしつかえないようにしてくれてるとこは、さすがだね」
潤は囁に恐怖を与えはしたが、実害がないよう気を配ったようだった。長年、
「潤ちゃんが首府に?」
沈は、潤を
「そ。休暇で来てて、たまたま会ったんだってさ。君王苑を半周する間限定で潤にも位階あげてきたよ。視察って名目で。しかしまあ、あっちゃんも、鳥肌立ててまでやることかなぁ」
何か起きたようではある。沈としては、気にもなるし、一緒に夜涼みの散歩に行きたい。あるいは囁の介抱をしてあげたい。だが、沈は恥じらいにまみれていて、事情を尋ねる余裕が持てなかった。
「というかそもそも、しずっちだけじゃなくて、ここにもうひとりいるし」
行はあっさりと言いながら、もうひとりに目をやる。
「それが一番の大問題なんですっ!」
沈が声を荒げることはめったにないが、今はそのめったのひとつだった。
「ども。沈さんですよね。お噂はかねがね。言い遅れましたが、俺、
沈の目の前で湯につかる若い男は、何も問題は起きていないとばかりに、にこやかに名乗る。世の感覚で言えば、爽やかな好青年の範疇に入るだろう。美しい淡さを持つ桜色の髪がその印象を強める。
普段なら沈からも笑顔を返せる。しかしここは風呂だ。沈と行が裸なら、
「軍議に出たらそこで
羽撃ちの国は列椿の国の北に位置する。諸国連合のうちの一国であり、すなわち列椿の国と同盟関係にある。今回の
「あの、わたくし、そろそろお琴の稽古の時間ですから、もうここで――」
沈は自分の腕で体を隠し、湯船から上がろうとした。琴の稽古はもう二年もやっていないが。大急ぎで立ちたかったが、湯には酒の載った盆が浮かべられていて、波を立てられず、そろりとした動きになった。
「何言ってんの。ここに来たいって言い出したの、しずっちじゃんか」
行は沈の細い二の腕を掴んで引きとめる。そのことで、腕で隠していた体が危うくあらわになってしまうところで、沈はすぐに諦めて、体を湯の中に戻した。
「その、混浴だとは聞いていませんでしたから……」
「何言ってんの。ここ、女風呂だよ」
「なおさら問題ではないですかっ!」
沈はまたも声を荒げる。ふたりの様子を見て、
「いやあ、さすが先生、職権の
「さすがに渋られたけどね。でも、同盟国の軍師を風呂場で接待するんだって言ったら、そりゃ察しちゃうよねぇ。貸し切りにするしかないよねぇ」
沈は他の利用客の姿がないことに疑問を感じていた。普段からこうなのかと思っていたが、どうやら違う。行が貸し切りにするよう言い含めていたのだろう。
「俺、ものすごい軽蔑の
隠はにこやかに言う。行とともに浴場に入っていく隠には、冷たすぎる視線が浴びせられた。接待の意味を取り違えたのに違いなかった。そうやって軽蔑されて得はしない、けれど、悪ふざけを成功させたのは楽しくて仕方なかった。
隠の前に浮かべられた盆、そこにある
「本当はただ、こうしてお酌をしてあげようってだけなのにさ」
「ええと……」
なぜ、男女で風呂に入るだけで、ものすごいほどの軽蔑が発生するのか、沈にはわからなかった。混浴の浴場は、探せばたくさんある。疑問には思ったが、詳しく聞かないほうがこの場合は身のためと直感して、沈は言葉を呑み込んだ。
「まあまあ、心配いらないって。隠坊は昔から年上好みでさ、せめて十以上年上じゃないと、って感じだから。あたしたちなんて女じゃないよ。ついてないってだけで」
隠は容貌が整っているうえ、人当たりもいい。行は、隠が色恋に不自由しているのを見たことがない。そして決まって、相手は隠よりひと回り年上だった。経験があればこそ、女と風呂に入る程度で動揺することもない。
「あの、それはそれで、乙女として複雑なところがあるのですが……」
「さて、湯につかるのも飽きたから、接待はここまで!」
波を立てて
「ゆっちはもう少し恥じらいを持ってください!」
沈は真剣に、かつ心配も含めて声を荒げたが、行は何ら省みることなく、酒の載った盆を湯に浮かべ直した。
「恥じらいで
ためらいなく湯船から出た行は、頭に乗せている手ぬぐいに触れようともせず、そのまま洗い場のほうへ向かった。
「先生はほんと相変わらずだなあ。何か、安心しますけどね」
隠は、そんな行の様子を微笑ましく見ている。行の言うことは確かなようで、その視線は、女を見るそれではないと、沈には思えた。やはりそれはそれで胸中に複雑なものが湧くのだが、ともかくも、今は観念してしまったほうが賢明であるらしい。
沈は、ちゃんと相手の目を見て話せと教えられてきたが、それを実践するとそこから下も視界に入ってしまう。それだけは勘弁してもらおう、察してもらえるだろう、沈はそう結論づけて、頭上の星に目をやりながら、隠に話しかけた。
「ゆっちは昔、戦術を教える私塾をやっていたと聞きましたけど、先生というのは、その時の呼び名ですか?」
戦勝請負の始まりは、囁と改だった。そこに行が加わって三人になり、後に沈が誘われ、今の形になった。ゆえに、塾長であった行のことを、沈は知らない。
「ええ。最初の生徒が俺なんです。でも、ほとんどは助手でしたけどね。特に最初の頃は、先生、ろくに喋れなかったから」
「えっ、ゆっちが? 喋れないとは、どういう……」
さっぱり呑み込めなかった。沈の見る行はいつも饒舌で、話し上手で、無用なものと有用なものをすぐに理解する。先のように、たったひと言で無理を通してしまうこともある。
「そのままの意味です。あの人、読み書きは自分で覚えちゃったんですけど、発音だけは、自分ひとりではどうしてもわからなかったみたいで。びっくりしましたよ。筆談では完璧に会話ができるのに、どう声に出したらいいかわからないって言うんですもん」
隠は苦笑を浮かべた。行と出会った時のことが頭に浮かんだからだ。あれだけの印象的な出会い、忘れようにも忘れられない。
「読み書きを、自分で? ひとりで?」
説明を加えられたが、沈はよりいっそうわからなくなった。特に気になったところを抜き出して、そのまま問いにしてしまった。
「ええ。ひとりだけで。聞いてないですか?」
「その、わたくしたちは、お互いの過去の話をあまりしないんです。隠したいわけではないのですが、その話題になった時、さっちゃんが困ること、わかってますから」
暗黙のうちに、それは戦勝請負の中での決まりごとになっていた。隠すつもりもないし、また、誰のどんな過去を知っても、今さら嫌ったりしない。それは全員が知っている。ただただ、囁を困らせたくないがゆえの配慮だった。
「先生ーっ」
沈の言うことを聞いてすぐ、隠は洗い場にいた行を呼んだ。行はそれに応じて、湯船のほうに歩いてくる。
「先生の昔の話、しちゃってもいいですか?」
隠としては、万一にも行の面子を潰すわけにはいかず、了承を必要とした。
髪を泡立てながら、行は湯船のすぐそばに立った。両の手は頭の上にあり、やはり何ひとつ隠そうとしない。
「いいけど、かわいさ八割増しにしといてくれる? 憎たらしい
恥じらいは全く気にせず、かわいさは求める、どういう基準でそうなるのか、沈にはさっぱりわからない。価値観は人それぞれなのだろう。沈はひとり納得する。沈はきれいと言われたいが、行はかわいいと言われたいのかもしれない。努めずにかわいく思われたい
行の答えを聞いて、隠は口元だけで笑みを深くした。
「
どうにも話がつながっていなかった。かわいさを増す、という条件付きの許可のはずだった。
「隠坊、そのこころは?」
「もとから全くないんです。憎たらしい
零かける五も、零かける百も、答えは同じ。零のままだ。八割増し、つまり一・八倍にしても、やはり零にしかならない。
「ああ、かけ算じゃなくて、足し算にしとけばよかったわけか」
行は得心がいく。零足す一なら、答えは一になっていたと。弟子にしてやられた格好だったが、それとは別に、行は残念そうな顔をする。
「感心しないなぁ。そういう、言葉尻のずるい利用のしかた。すっかり先生に似ちゃったねえ」
「そりゃあ、一番弟子兼元助手ですから」
反して、隠は豊かな微笑みを浮かべていた。
「――だって、他の誰に似ればいいんですか?」
納得して、行は洗い場に戻っていく。沈と同様に夜空を見上げた隠は、憎たらしい
「さて、話の続きですけど」
話しながら、隠は星の並びを見ていく。
「先生は生まれてから九年とちょっと、誰にも話しかけてもらえなかったんです。自分じゃない誰かの声を一度も聞いたことがなかったそうです」
隠はすぐに、いくつもの星座を夜空に見つけ出し、さらには天の南極の位置も掴む。行と出会っていなければ、星座はともかく、天の南極を覚えることは決してなかっただろう。もっとずっと北であれば、北極星を探せばいい。この地ではそうはいかない。南極星にあたる星はどこにもないからだ。
「ですが、その時、先生の目の前には数え切れないほどの書物がありました。暗号を解読するように、山ほどの書物を照らし合わせて、自分ひとりで解き明かしちゃったんですよ。言葉ってやつを」
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