一五 藪蛇



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 あらたは、饅頭まんじゅうの最後のひとかけらを口に入れた。二歩ほど先で石段に座り込むうるの饅頭を見やれば、残りふた口というところだった。ささやはとっくに食べ終えている。

 山の上、高みから夕景としての町並みを見下ろすのも悪くはない、この際、潤がいることも良しとしよう、それでも改には、足のついていない生き物は受け入れがたい。

 しかし見事に何もない。場所が開けてさえいない。石段を登りきってもすぐ先に森が広がる。確かに饅頭を売る屋台はあったが、それにしたってお粗末なもの。隣に並べたなら、馬小屋でも豪邸に見えるかもしれない。

 石段の先にあった山道を探っていた囁は、すぐに引き返してきた。

「この先、女人禁制の札が下がってたけど、何があるのさ」

「修験道の修行場しゅぎょうばだよぉ」

 潤とて入ったことはないが、観光の手引き書にはそう書いてあった。

「なんで修行場の入り口で饅頭を売ってるんだよ」

「わかんない。経営が苦しいのかなぁ?」

 潤の語尾が疑問の形をとったので、おどは律儀に舌を出した。珍しく二回続けて出したが、潤の目は食べかけの饅頭に向いていた。

 戯は潤の隣でとぐろを巻いている。改が憎々しげに目をやると、どこか満足そうに見える。戯は戯で、ついさっき、たまたま見つけた蛙を丸呑みしていた。改は心のうちで蛙の応援をしたが、あえなく呑まれた。判官ほうがんびいきのつもりはなく、改にしてみれば、足のほうとほうの違いだった。

 囁は行き場なく、潤の隣に腰を下ろした。普段なら、服を汚すと行が嫌な顔をするが、幸い今は位階がある。城中の誰かがうまく洗ってくれるだろう。

「結局、さっきの話をするためだけに、命かけたって?」

 囁は問う。助け出された後、潤はひとつき余りの療養を余儀なくされた。商売の点から言えば、割に合わない。

「それはねぇ、潤も年頃の女だもん。好きな子のために何かしたいって思うよぉ。特にあっちゃん。というより全面的にあっちゃん」

 改は苦労して、体中を巡った恐怖を押し殺した。言いたいことは山とある。全面的に好きな子と言われても持て余す。どころか、一片も持てる気がしない。しかし、命がけで情報を運んできてくれた同業者を冷たくあしらえるほど、人でなしのつもりはない。足のない戯も、潤を助けたと思うと、どうにも憎みきれなくなる。結局はそっぽを向きながらではあったが、改はどうにか謝辞を述べた。

「その、余計なお世話だとは言いたいのだけれど、情報は、つまり、役に立つのよ。だから、ありがとうと、言っておくわ」

「あ、」

 言われて、潤はすっかり呆けてしまった。饅頭の最後のひとかけらが指から落ち、石段を転がる。潤をまない人間は極々ごくごくわずかだ。商売上の関係を除けば、潤はほとんど誰からも嫌われている。金銭の絡まない感謝の言葉は、久しく耳にしていない。

「潤、今ここで死んでもいい」

 特別にこだわっている相手からじかに伝えられたとなれば、今までの不足分を補って余りある。

 そんな潤の様子を隣で見て、囁は思わず顔が綻ぶ。こんな商売を続けていれば、金より何より、ささいな喜びが身にしみる。戦場に立てば、いくらでも心は揺れ動く。心を揺らし過ぎない小さな好事こそが、大きな幸せを誘う。ありがとう、そのひと言で十全で、また最善であるのだ。

「潤ってさ、最初からあっちゃんだったね。ひと目惚れ?」

 嬉しくなった勢いで、囁は聞かなくてもいいことを聞いた。確かに潤は出会った当初の頃から改への好意をあらわにしていたし、その契機について尋ねたことはなかった。迂闊うかつだった。

「んー、ひと目じゃなくって、惚れかなぁ。六匹目から、殺す気になんてなれなかったもん」

 潤が答えるのを聞いてすぐ、囁は、藪をつついて蛇を出してしまったことを悟った。

「ゆっちはさすがだよねぇ。貴重品の望遠鏡を無理に借りてきてて、遠くから眺めるだけで気づいて、七匹目の時には書き置き残して撤収だったからねえ」

 潤が嬉々として言う隣で、囁は冷や汗が滲むのを感じていた。怖くて、改のほうを向けなかった。

 潤と相対した時、沈を他の場所に配していたので、潤の居場所を掴むために、改は呪いの蛇の相手をさせられた。蛇を一匹突くたびに行のもとに伝令を走らせること、三十八回に及んだ。その七匹目以降、伝令の走った先に行がいなかったことを、改は知らない。伝令の兵たちは、戻るごとに行の代理から金一封をもらっていただけだ。

「さっちゃん?」

 改から声がかかったが、言い訳をすればさらなる藪蛇やぶへびを招きそうな気がして、囁はだんまりを決め込むことにした。

「潤、詳しく説明して」

 改は訊ねる相手を転ずる。囁が黙っても、今ここにはもうひとつの口がある。囁の意志では戸が立たない。

「うん。けなげにあそと戦うあっちゃんがかわいいから、潤はすっかり好きになっちゃって、六匹目からは殺す気のない戦いだったの。本気のじゃれ合いって感じかなぁ?」

 改は寒気を覚える。じゃれ合い? 確かに殺される気はしなかったが、生きた心地もしなかった。それをじゃれ合いと言っていいものなのか。戯は二回続けて舌を出し、主人の言葉を否定したが、潤は目をやらずに話を続けた。

「ゆっちはそれに気づいたから、狼煙のろしを焚いて潤への書き置きを残して撤収。潤は移動して咎言で書き置きを見て、ええと、内容は、どうぞふたりでごゆっくり、だったねぇ」

 他ならぬ改に頼まれたとなれば、潤はありのままを説明し、そして誇らしげでいた。改に応えられることが嬉しく、ほんのりと頬を赤めてもいる。囁は戦々恐々だ。

 単に呪いの蛇と戦うだけなら、そこまでの苦にはならない。あの時の改は、伝令の兵を守る必要があった。神出鬼没の大蛇から並の兵を守るなど困難の極みで、改は途中からまで使っていた。

「お仕事だし、あからさまな手抜きはできなかったけどねえ、でも、同業者だもん、どうしても馴れ合いはあるよねぇ。律儀にやってたら命が足らなくなるよぉ」

 潤ひとり楽しげにしている。潤は全くと言っていいほど友人がいない。結果として、人情を察することに慣れていない。改を残して撤収したことが怒りを招くとは、頭の端にも浮かばない。自分だけ、女三人で仲良く話をしていると思っている。

 潤の後ろ、有り余る怒りを感じさせる声音で、改は訊ねた。

「ねえ、神幡姫潤は、ゆっちを恐怖のどん底に突き落とせるかしら?」

「さすがに無理かなぁ」

 一応はそこから確認しようと思った。案の定の否定が返ってきた。

「さっちゃんだったら?」

「楽勝だねぇ」

 改は質問を変えた。予想通りの肯定だった。

 潤の正面に回り、改は石段に落ちたままだった饅頭のひとかけらを拾った。食べようという気にはならないが、このまま転がしておくのも心持ちが悪い。

「じゃあ、それを潤に依頼したいわ」

 改の心中で逆巻さかまく怒りは許容量を遥かに超えている。せめて囁にの報復だけでもしなければ、自分を保てそうにない。それも生半可な方法では足りない。

「いいけど、潤の相場、すっごく高いよぉ。愛情価格にも限度があるしねぇ」

「あのさ、標的の目の前で商談をまとめようとするの、ないだろ」

 囁が気安く文句を言ったのは、どうせ払えやしないとたかをくくっていたからだ。経歴があるぶん、潤の仕事は高い。戦勝請負を四人まとめて雇うよりも高くつく。それだけの大金を払っている先方への手前、そうそう割り引きもできない。

「取り引きをしましょう。手をつないだまま、君王苑くんのうえんをひと巡りしてあげるわ。それでいいでしょう?」

 改が潤に話をもちかけて、囁は完全に硬直した。咎言とがごとは行の許可がなければ言えない。それでも並の人間よりは強かろうが、潤にとってはねぎを山と抱えた鴨でしかない。すでにして囁は大いに恐怖を味わっている。

 囁には、潤がその取り引きを断るとは思えなかった。それは正しかったが、まさか潤が自分の利益をあえて減らすとは、思いもよらなかった。

「たぶんそれ、一周もする頃には潤の心臓が死ぬよぉ。だから半周で!」




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