一四 贖罪
裏がある。
表の反対側を探せば、すぐに見つかる。それは世にあふれている。
表の咎言と同様に、与えられている。全ての咎持ちは等しく、それを持っている。言うことができる。
けれどしかし、咎持ちはそれを裏とは呼ばない。奥の手と呼ぶ。なにゆえか。
覚悟が求められるからだ。
咎言の裏は、必ず、いずれも、咎持ち自身に何かを失うことを求めるからだ。
それは
咎持ちがかつて犯した過ちに対するものではない。
人の身に余る強大な力を使うことへの償いだ。
まぶたは最初から閉じていた。どうせ何も見えない。
駆ける音が近づいてきた。軽い音だ。子供の駆ける音だ。
音に向き合う形で、潤は立ち尽くしている。すぐ左側は崖だ。潤は全身の感覚を澄ませる。駆けてくる。鋭い身のこなしで岩を踏み越える。刃物の閃く音。短刀ではない。どこかに隠しておいた立派な刀に持ち替えたのだろう。駆けてくる。間もなく至近に迫る。けれど正面からは斬りつけない。そんな愚かなことはしない。刀を振るい、斬るように見せかけてから背後に回る。本当に斬りかかるのは、その後だ。
迫る足音が、殺気を伴って激しさを増す。
潤の予想はことごとく当たった。
潤の眼前で刃物が空を斬り、潤の右を人が駆け抜け、勢いを落とし、背後で反転しようとする。
待っていたのは、この瞬間だ。
潤は言った。
奥の手を。
誰にも聞かれることのない、もうひとつのことばを。
「
それを言い終わった時、
早の眼前、その時、そこには誰もいなかったからだ。
潤は、この世から消えていた。
重大な失敗とともに。
早の持つ刀に、わずかに血が残っていること、それが問題だった。
潤の着ていた振袖が、早をからかうように、はらりと地に落ちた。
潤はいまだに同じ場所に立っている。しかし、早のいる
それでも潤には、いちいちここに来たいとは到底思えない。いや、潤でなければ何度も来たりはしない。
ここはただ、ひたすらに寒い。
人は寒ければ寒いと感じる。さらに寒ければ痛いと感じる。
そのさらにひとつ上の寒さならどう感じる?
それは知らない。潤にはわからない。
なぜなら、この場所の寒さはひとつ上では済まないからだ。
ふたつ上か、あるいはもっと上なのか。この世の裏側に来ておいて、瞬時に死なないだけありがたいと、潤はそう思うことにしている。
潤はまぶたも口も固く閉じている。開けられない。目を開けば眼球が凍りつき、口を開けば中が壊される。呼吸の必要など絶無のうえに絶無だ。わずかでも動いたぶんだけ死に近づく。ここはそういう場所だ。寒すぎる。人間に許された場所ではない。祈るように歯を食いしばっている。
何もここへは持ってこれない。着ていた服は表側に取り残される。その身ひとつで訪れて、素肌を全て晒すことになる。それだけで十二分に過ぎる。この場所で微動だにしないでいる。それが、どれだけ生類の本能に逆らうものか。
諸国連合に暮らす者たちには、およそ縁のない感覚だ。ともに戦うことになった際、戦勝請負にこの場所の話をしたことがある。すぐに理解したのは
『熱湯の中で目を開けたいって、思う?』
そして今、また別の例え話を持ち出さなければならなくなった。
すなわち――
――首を熱湯に浸す時、そこに傷があったらどうなるか。
ここはそういう場所なのだ。
取るに足らない切り傷、子供だったら泣くかもしれない、その程度。それでさえ、この裏側の世界――
本当に斬られてやるつもりはなかった。単純にしくじった。
潤の予想は当たりはした。早はその通りに動いた。しかし、早が刀を振るう動作が、潤の目算よりはるかに速かった。
死にかねない。
足の指とは違う。首だ。凍傷になったからといって切り落とすわけにはいかない。首が凍れば頭へ向かう血が止まる。刹那の猶予すら与えられてはいない。
まぶたは閉じている。表の世界への遠見は最初からしている。当然ながら、視界は黒一色だ。
だから、もはや、勘にしか頼れない。
斬られるのを待っていたのは、早の位置をできる限り絞り込むためだ。とどめの一刀を振るって、しかも標的を見失うとなれば、わずかであっても動きは止まる。それは避けられない。おおよそそこにいるとわかる。
傷さえなければ、少しは時間が得られる。やりようがある。
早の正確な位置はわからない。わかりようがない。
それでも、早が刀を持っているであろう左腕に、即座に、そして的確に遊を巻きつけなくてはならない。
それは勘というよりは、本能に近しいものがあった。その必要性を感じるより早く、潤は
どうあれ、それは結果として――
――
潤が葦原にいるうちにできたのは、早の左腕に
光が注いでいた。早は咎言による闇を
直感が働く気配は全くない。こんなざまでは当然だと、潤は思う。
自らが先ほどまでまとっていた振袖の上に、首をかばいながらどうにか仰向けに倒れた潤は、ただ恐怖に震えていた。布きれ一枚まとわぬ体が、脅えのまま、好き放題に細かく揺れる。死ぬことへの恐怖ではない。葦原への恐怖だった。涙が頬を滑り、振袖の布地に達する。その量は増すばかりで、止まる気配を見せない。
葦原では、恐怖によって取り乱すことは許されない。それは敗北を、そして死を、限りなく決定的なものにする。しかし、怖い。怖い。葦原はあっていい場所ではない。潤は、表側に戻ってきてから、まとめて震えることにしている。
今回、手足は、動かせなくなるほどまでには凍らなかった。立ち上がろうと思えばできる。できるが、無理だ。直立して頭部を支えた時、首が無事でいられるのか、確信が持てなかった。
動かず、身を震えるままにしてしばらく、岩陰にいて様子をうかがっていた
主人である潤が倒れて動かなくなったら、戯は一匹で戻る。そのようにしつけてある。戻った先で、人から何か餌をもらったなら、それを合図として引き返してくる。犬猫ではない。大蛇に餌をやろうとする者は限られる。無類の蛇好きでなければ、それはおおよそ、戯を保護しようとした誰かだ。
潤が戯を体に巻きつけているのは、そしてそれが人前に限られたことであるのは、この時のためだ。慢性的な右肩の痛みを抱えても、印象づけておきたいのだ。
その白い大蛇は神幡姫潤のものだ、と。
葦原から戻れば、自分の足で行ける帰路はなくなっていると、そう思っていたほうがいい。助けを呼ぶ者が必要だ。しかし、
そして、共にいたのが人間だったなら、先に殺されていたかもしれない。
崖から落ちた早がどうなったか、気がかりではあった。眺めがいいのは山の上だからで、崖そのものはそこまで高くない。あれほどの
潤はまぶたを閉じた。
遠見によって、早の動向を探ることはできる。だが、見つけてみたところで為すすべがない。向こうにまだ戦意があれば逃げ切れはしない。抗うために遊を放ち、そして斬られたならば、またとない好機がそこに転がっていると知れる。それなら、いっそ見ないほうがいい。
するべきなのは、遊を動かして応急の手当てをすることと、そして、戯が首尾良く人を連れてくることを願い、それまでの間をしのげるだけの水と食料を集めることだった。
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