一三 直感



「これ、騙されちゃったやつだなぁ」

 まぶたを開け、うるは淡泊に言った。

 戦勝請負のあらたと同等、あるいはそれをしのぐ手並みで遊を斬る者が、令嬢であるはずがない。相当どころか、群を抜く猛者もさだ。

 偽の依頼で標的をおびき寄せることは、そう珍しいものではない。ではあるが、潤が一杯食わされるのはずいぶん久しぶりだった。神幡姫かむはたひめうるに、に、罠のひとつで勝てると思う者には、そうお目にかかれない。

「十中八九、死処しどころひめだよねぇ。通称、夜のはや。戦場を夜に変えて、そこで自分だけ好き勝手動き回れるって、そういう話だけど、でもおかしいなぁ」

 潤には、本当に見当がつかなかった。

 あそが斬られた後、標的が何かを喋った。おそらくは咎言とがごとだったのだろう。

 そしてすぐに、潤が咎言で見ていたはずの景色が、一切の闇にまみれた。それが不自然だった。

 咎言による遠見だ。今まで、どんなに暗い夜でも、見ることに不自由したことはなかった。いくらでも標的を狙えた。それが今はどうかといえば、狙うどころか、本当にそこにいるかどうかもはっきりしない。

 その夜は、動いていた。崖の上から望む景色に、ぽつんと、異質に黒い領域があり、それは潤に向かって真っ直ぐに近づいてくる。

 潤は再びまぶたを閉じ、遠見によって敵の動きを確認する。館の手前、上空から、その近辺を見下ろした。単に前を見通すだけが能ではない。潤の支配領域である半球、そのうちのどこであっても、咎言のを置ける。

 標的が待ち受けていた館の一室には、もう光があたっている。二十畳の大部屋が入るかどうか、その広さの夜が、野道を行き、見る間に迫ってくる。山に入るのはまだ先、ほぼ平坦な道ではあるが、あの闇の中に標的がいるのだとしたら、駆けることにひどく手慣れている。

 その夜はきちんとした丸でも角形でもない。意図的に歪ませているのかどうか。中心にいると当たりをつけることもできそうにない。

「斬られちゃったからには、見られちゃったんだなぁ」

 結論から言えば、潤はすみやかに退くべきだった。

 潤の居所をつきとめることを狙っていたのは明らか。それはかつて、行が改に負わせた役目でもある。あの標的は、を試みている。戦勝請負さえ早々に諦めたことを、たったひとりでやろうとしている。

「これ、粘ったら死んじゃうかもなやつだなぁ」

 根拠はない。ただの直感に過ぎない。潤は行のように理詰めでものごとを判断することは少ない。賢くないのではなく、

 咎言そのものが、潤の強さを意味するのではない。それならば、四つの咎言を持つ戦勝請負と、五分に渡り合うことなどできるはずがない。

 潤のしたたかさの真髄は、経験にこそある。

 六葉帝ろくようていを暗殺した時、潤は。何も知らぬ幼子だからこそ死罪をまぬがれ、潤をけしかけた父親が主犯として扱われた経緯がある。それ以来、六葉帝は途絶えたままだ。

 この諸国連合で暗殺をするにあたって、六葉帝を標的とすることよりも大きな仕事は存在しない。を得てからすぐ、潤は有力者に庇護され、そのもと。すなわち、よわい三つになる前から今に至るまで、潤はつわものの頂点に君臨し続けている。それだけの経験を誰が持てるのか。幼少期の全てを、誰が頂点として過ごせるのか。

 そも、経験と言うことさえはばかるべきなのだ。潤の中で閃いた直感は決して外れない。どれほどの経験を積んだとて、その裏には未知がある。経験は全知を意味しない。そこから導くものが必中になることはありえない。

 経験と呼ぶべきではない。

 ――潤の感性は、

「ねえ、おど

 今すぐに退けば命の危険まではない。ここに少しでもとどまれば命を失うかもしれない。それを確信として持ちながら、潤は戯に問いかけた。

「死処の姫の咎言がどんなものかわかったら、あっちゃんたちへのみやげ話になるかなあ?」

 相対あいたいするのが死処の姫だということもまた、もはや確信としてあった。戯は問いかけを聞き、ぴっと一回だけ舌を出す。肯定だ。

「お仕事のために命をかけるより、好きな子のために命をかけるほうが、ずっといいよねぇ?」問われ、戯はまた舌を出す。二回続けなかった。「だよねぇ」五代目戯は無精者で、めったに舌を続けて出さない。二十回に一回、続けて出せばそれでも多いほうだと、もちろん潤は承知でいる。

「結局あれ、なんな――」

 なぜ咎言でさえ狙えないのか、それもまた問いかけようと戯に目をやったところで、潤の感性が潤に問いを発した。

 ――戯は何色に見えているか?

 ――咎言を通して戯を見たなら、何色に見えるか?

 確かめるまでもない。だ。

「赤を青とは見てない、黄を緑とは見てない……」

 肉眼でものを見る際、色を識別するのに必要なのは光だ。真っ暗な部屋で色はわからない。咎言を用いてものを見ても、全く同じ色を見ている。ならば、

 感性が再び問いかける。

 ――なるほど確かに、真夜中でも標的を狙っていたかもしれない。しかし、そこに本当に光はだったか? 星明かりのひとつもなかったか? 一里先で松明たいまつが灯っていなかったか?

 もう答えは出ている。思い至る。潤がたった一か所だけ、咎言で遠見をしても何も見えない場所がある。だ。地表からまっすぐ下、半里先。光がそこを照らそうとしても、不可能に近しい場所。

 咎言の遠見とて、光でものを見ているということに違いはなかったのだ。光の量がごく少なくても問題ないと、星明かりのひとつで十分だと、その差があるだけだ。

「それなら、あれが夜だなんて、ちゃんちゃら滑稽の笑止千万だねぇ」

 なお迫る黒一色の空間を見やり、潤は言う。死処の姫――早は、こちらの咎言の機能を奪っているのではない。彼女が咎言で生み出しているもの、それは、だ。光から、色の一切を奪っているのだ。おそらくは、早以外の全ての者にとって。何もかもが黒く染めあげられる空間。狙えるわけがない。識別できない。

 狙えない以上、合理的な判断のうえでは、少なくとも並の軍師であれば、退くべきだと考える。潤は動かなかった。また感性が、直感がささやくのを聞いた。

 ――もう遅い。動くな。だ。

 涼やかな風が吹き、潤の純白の髪を揺らした。その風が落ち着いた時、ふっと、潤の見る世界が闇にまみれた。黒一色に包まれた。見晴らしがいいゆえに陣取った場所のはずだった。

「やっぱり、ってとこかなぁ」

 潤の支配領域は半里、それに及ばずとも、それに準ずるような領域を持つ咎持ちがいたとして、何も不思議なことはない。沈の咎言など、潤より広い。

「だいたい、四半里ちょっとってところ?」

 最後に見た地点から領域を見積もる。一キロメートルほどの距離。早は、自身の持つ最大領域の全てを黒に染めたのだ。もうこの場所は、死処しどころひめの闇の圏内なのだ。

 主人の問いかけを聞いて、戯は一度だけ舌を出した。もともと蛇は視覚に頼るところが少なく、加え、五代目戯は気性が穏やかだ。じっと動かず、忠実に反応したが、主人にそれが見えていないとはわからない。

 潤にここを動くつもりはないが、もはや動こうにも動けない。これでうかつに動けば崖下に落ちかねない。地を這って慎重に進んでも逃げきれまい。闇の中でなくとも、追いかけっこでは分が悪い。潤の足の指は、そのうちの

「戯、隠れん坊」

 潤は戯に指示を与えた。それを受けて、戯は近くにあった岩陰に身を潜ませる。

 逃げ切れない、それゆえ潤は、待つことにした。

 自分が斬られるその時を。

 覚悟が必要だった。




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