一二 陰手
早は濃紺の
いくらか色素の薄い肌に、
「偽装も兼ぬて、暇つぶしに読むだけのつもりが」
早は『かねて』ではなく、『かぬて』と言う。
「こうも
『なける』ではなく、『ねける』と言う。
早は訛りを抜いては話さない。国言葉でしか話したがらず、標準を避ける。
男女問わず、老若に関わりなく、早たち
他方、陰手が個人という概念を価値のあるものとせず、里という単位、それをもってひとつの共同体、ひとつの生命と捉えることもまた真実。特に天聳りの里はその傾向が顕著だった。聞き込みや交渉、
国言葉でしか話さないのは、心情の問題が強かった。国言葉を話していると、あっちの一員ではなく、こっちの一員なのだ、早にはそう思える。
「まさか、靴屋の息子を選ぶとは思わねかった」
読んでいる小説の中で、三角関係はついに決着がつき、主人公である娘は靴屋の息子と恋仲になったのだが、状況はむしろ悪化する一方で、残りの
思いのほか、読書に熱がこもってしまった。いったん本から目を離した早は、ちっちっという音につられて、壁にかかっている柱時計に目をやった。この館にある他の多くのものと同様、海を渡ってきたものだ。
「十四時十四分、そろそろか」
円を巡る短い針は〈2〉を過ぎたところを指し、長い針は〈3〉のすぐ上を指している。
そも、諸国連合には秒という単位が存在しない。小刻みに進む秒針がどんな役割を負っているか、おおよその者には見当がつかない。早は考えている。秒という単位があり、あと四十秒弱で十四時十五分になることを。
「読みきれねは、口惜しい」
思わず口に出る。小説はまさに佳境だが、結末を知る前に仕事が始まってしまうだろう。
「報酬代わりにもらえねか、どうか」
扉が開き、執事らしき人物が顔を出した。もっとも、それは装いだけのことで、これもやはり先方が雇った傭兵に過ぎない。令嬢がたったひとりで館にいるとなれば、怪しまれる。執事が部屋に来る時刻は、前もって、早が細かく決めておいた。
「お嬢様、紅茶のおかわりは?」問われて、一瞬だけ間が空く。「いいえ」早は結局、短く返すにとどめた。どれが国言葉でどれが標準なのか、早にはもうわからない。一応は令嬢としてふるまってみようかと思ったのだったが、無駄な努力とすぐに諦めた。
昔は知っていた標準の発音が、すっかり上塗りされてしまっている。あっちの里は生きた心地がしなかった。こっちの里は温かかった。どっちに馴染みたくなるか、あるいは忘れてしまいたいか、自問する余地がない。
執事は早の返事を確認すると扉を閉め、廊下を歩いて部屋から離れた。聞こえる足音が次第に遠ざかっていく。わざと音を立てて歩けと命じたのは早だ。用件を言い漏らしたのでなければ、執事はしばらく部屋に来ない。狙うなら今だった。
足音が聞こえなくなってから、早は全神経を研ぎ澄ませる。武芸の嗜みがないであろう令嬢、まず間違いなく、すぐに首を折ろうとしてくる。それならば、服の裏、腿に潜ませた短刀で、十二分にことが済む。
奥の手こそわからないが、傭兵としての経歴が長い
空気の振動が肌に伝わった。床の
潤は、遠見で目にした場所に、呪いの蛇を出すことができる。その大蛇は、他の者の目には見えず、潤が随意に動かせる。ふざけたことに、
見えないが、
大蛇が早の細い首に触れるか触れないかというところで、早は短刀を振り、造作なくそれを斬った。
斬り捨てると同時、早の脳裏に、ひとつの景色が浮かぶ。話に聞いた通りだった。一匹目の蛇は、これで死んだのだ。
早の中で浮かんだ像は、山中、崖の上にいる黒の振袖を着た白い髪の女。隣には白の大蛇がいる。ずいぶんと眺めが良さそうな場所だ。周辺、この館から半里までの地形で、潤が好んで陣取りそうな場所は下調べをしてある。浮かんだ景色が地図上のどこにあたるか、すぐに見当がついた。
そして、その場所から半里の圏内に潤の側の陣地がないこともまた、すぐに判断できた。呪いの蛇を用いて救援を呼ぶことはできない。もともと、この館を選んだのはそのためだった。
潤の出す呪いの蛇は、幾度殺しても、二匹目三匹目と繰り返し出される。潤が蛇と一緒に傷つくこともない。しかし、呪いの蛇を殺せば、とどめを刺した者にひとつの情報が渡る。
潤が今どこにいるか、その景色が脳裏に閃く。呪いを破った者は、逆に見通してやることができるのだ。
潤にとっての代償、早にとっての恩恵、それを得るために、着慣れぬ服を着ていた。これ以上、蛇に狙われてやる義理はない。早は
「
早以外、そこには誰もいなかった。しかし、誰が何人いたところで、発された言葉を解することはできなかった。
それは、早にのみ許された咎言。罪の証であるから。ある一夜に罪を犯したことの、揺るぎない証左なのであるから。
早は、あらかじめ右手首に巻いておいた紐を手早くほどき、頭の後ろ、頂点に近しいところで黒髪をひとつに結った。仕事をするにあたって、こうでなければ気合が入らない。
俊敏でこそあったが、何ら隠そうとしない、堂々とした仕草だった。
それでも、潤にその光景は見えなかった。
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