第二幕 死処の姫

一一 暗殺



 こけむした石段を、ささやうる、そしてあらたが登っていた。ふたり並べばそれでいっぱいになる狭い石段が、山の上まで続く。周りは鬱蒼とした森で、傾きつつある日がなお遮られているとなれば、初夏の空気はどこかひんやりしたものとなる。

 八天饅頭はってんまんじゅうは、この石段を登った先でないと買えない。不老長寿のご利益があるというが、饅頭どうこうより、これだけの石段を登れば鍛えられもするだろうと、囁は指摘し、潤は否定しなかった。潤の運動に付き合わされた格好だが、戦場に生きる者として足腰は強いにこしたことはなく、囁は嫌に思わなかった。

 おどを巻きつけたままの山登りはさすがに無理があるので、潤は戯を地に下ろしていた。その戯は、主人と並行して、石段の脇、生い茂る草を分けながら這って進んでいる。白い肌が、土や草の汁で汚れていく。

死処しどころひめ? わざわざそんな名前を背負ってるって?」

 囁が尋ねる。並んで歩き、話を続ける囁と潤から後ろに二歩のところ、話が聞こえる範囲で改が離れて続く。改にとっては、もう近づけない距離だった。潤が苦手なのもさることながら、蛇も苦手なのだ。足がついていない生き物は、生理的に受けつけない。

「誰が言い出したかは知らないけどねぇ、だいたい、そう呼ばれてるかなぁ。禍祓まがばらえはや、通称、夜のはや。でもやっぱり、お姫様のほうが通りがいいよぉ」

 潤が山の上に向けて運ぶ足は、どことなくぎこちなかった。潤は歩くことが得意ではないが、だからといって鍛えないわけにもいかない。

「潤の縄張りって、だいたい千束ちづかでしょ? その北の、天聳あまそそりの国あたりで最近売り出し中だったんだけど、わざわざ潤のいる千束に南下してきたみたいでねぇ。だからこそ、死処の姫、ってことなんだけどねぇ」

 千束ちづかの国は列椿つらつばきの国の北東に位置する。競合を避ける意味もあって、咎持ちは棲み分けを意識していることが多い。そこに潤がいるとなればなおのこと、並の傭兵も含め、千束での依頼は受けたがらない。潤が味方につくのでなければ。

天聳あまそそりには一度だけ遠征したけどさ、もう行きたくない。山ばっかだろ、あの国」

 囁は思い出して渋い顔をする。国の海抜は平均で半里ほどだと行に聞かされて、仰天ぎょうてんした覚えがある。

「北だから暖かいかと思えば、標高が高いからむしろ寒かったわね。それで、どういう由来でそう呼ばれているというの?」

 改は話を受けながらも、すぐに本題に戻した。潤に傷をつけた者に、強く興味があった。

「仕事にこだわりがあるみたい。負けそうなほうの、しかも、一番形勢の悪い場所に決まって顔を出すの。わざと死地に赴いて、それでいて死なないの。むくろが山と積み上がる中でひとりだけ生きてたら、そう呼びたくもなるのかなぁ」

 囁も改もそれで驚くことはなかったし、亡骸なきがらの海に自分だけ立つことは、ふたりとも身に覚えがあった。とはいえ、好んで成したいものではない。

「天聳りだと、圧勝してるほうが死処の姫を怖がって手を抜くとか、分が悪くなればなるほど期待するとか、そういう、ちょっと変なことになってるんだよねぇ」

 潤の話を聞きながら改に湧いたのは、ゆくにしてみれば頭の痛い状況だろうと、そんな所感だった。勝たせることと兵の士気を保つこと、どちらも行の領分だ。

「で、潤が暗殺のお仕事をしようとしたら、それ、潤のお仕事を邪魔に思った人の用意した偽の依頼だったの。潤の標的として待ち受けていたのが、死処の姫」



 ―――――――――――



 ふたつきほど前、神幡姫かむはたひめうるは山中、崖の上に立っていた。岬のように突き出していて、見晴らしが良く、ここに至る道は一方に限られる。逃走経路など、最初から考慮していない。地形を味方にすれば、たとえ相手が戦勝請負でも、潤は自分が傷つけられるとは思わない。ゆえに潤は、仕事の際でも防具のたぐいを身につけない。普段通りに黒地に梅の振袖ふりそでを着ている。

 潤が加勢した軍に勝つことはできる。事実、戦勝請負は戦のうえでは勝利した。

 何がもっとも困難であるか、それは、潤に近づくことなのだ。

 潤の愛蛇であるおどは、隣でおとなしくとぐろを巻いていた。戯が潤の体に巻きつくのはであり、その点はしっかりしつけてある。細身とはいえ、戯には相当な重量がある。ずっと肩に乗せているわけにはいかない。

 肉眼で見てずいぶん遠くに、西国さいごく、海の向こうの建築様式で建てられた立派な館がある。俗に西国と言うのは西の海から出航するからで、航路はすぐに北に向く。北方のさらに北に位置する国々の建築様式と、そう表すほうが正しくはある。

 潤が得た情報によれば、館に標的がいるはずだった。

「ねぇ、戯、八天饅頭はってんまんじゅう、食べたいかなぁ?」

 潤は戯に問いかけた。蛇は耳がないから何も聞こえていないと誤解されがちだが、体のどこかしらでちゃんと音を聞いていると、潤は知っている。

 不意に主人に問われ、戯はぴっと舌を出す。一回だけ出せば肯定で、二回繰り返して出せば否定と、潤はそう取り決めているが、戯にしてみれば、何かを問われた際、気まぐれで一回か二回舌を出すと主人が満足すると知っているだけだ。

 戯は二回繰り返すことをしなかった。それによって、次の休暇の行き先が決まる。列椿の国の首府で饅頭を食べる。もしかすれば、列椿の国府との関係が濃い戦勝請負の四人に会う機会もあるかもしれない。そう思うと、潤の胸は躍った。

「じゃあ、お仕事、しっかりこなさないとねぇ」

 潤の請け負う仕事は、暗殺が多くを占めている。それは、潤の持つ咎言とがごとが、何よりそれに向いているからだ。以前、ゆくに羨ましがられたことがある。何千人も殺さないとかたがつけられないほうと、ともすればひとりを殺すだけでかたがついてしまうほうの差によって。

 どっちもどっちだと、潤は思う。

 誰かがお金を払う。その誰かの代行をする。ただの仕事だ。

 それに、戦争は国がやっていることで、戦勝請負の仕事の多くは、言わば国府のお墨つきがある。国が敗れない限り、罪には問われない。人を殺めたことで咎められるとしたら、それはむしろ潤のほうだった。

魘魅えんみ

 潤はそっと、自身の罪の証、咎言をつぶやく。

 どうあれ、だ。

 善人ではなく、罪人として饅頭を食べる。生きていく限りはそうなる。善人として食べられる饅頭は、この世のどこにも、もはやない。それは、咎言を持たない行だって大差ないものがあるはずなのだ。

 およそ二年半前、諸国連合の東南にあった小国、砂映すなうつりの国は一夜で滅んだ。ただ滅んだだけ、その場で占領されることはなかった。何者であったのかは謎のままだが、攻手せめてはたった二十余名だったという。

 ――ゆっちじゃなかったら、誰にそれができるかなあ。

 行の手際は鮮やかすぎるのか、天が好むものではないらしい。ゆえに咎言を持たない。この世に生きれば理不尽ばかりが目につく。人の尺度で世界を計れば当然だ。

「どこにいるのかなぁ、っと」

 潤はまぶたを閉じ、そして、標的の姿を探した。咎言を発した今、肉眼に頼る必要はなかった。館の一室、おそらくは応接間であるだろうその部屋の景色が、鮮明に脳裏に浮かんでいた。暖炉、天板が硝子の机、安楽椅子が三脚、西洋将棋チェスの盤と駒。ここに標的はいないらしい。

 潤の咎言――魘魅えんみ

 その力は、半里まで先の景色を見通すことを可能にする。その間にある障害物は、何もかも無視することができる。海の向こうの単位で言えば、二キロメートル近い距離、それを半径として、潤を中心に広がる半球が、潤が支配する領域であるのだ。

 なぜ支配に及ぶか、それは魘魅えんみの持つ力が、ただの遠見とおみにとどまらないからだ。

「あっ、見つけたぁ」

 潤は、戯の他にもう一匹の蛇を飼っている。戯よりもひと回り大きい、黒の大蛇だ。

あそ、出番だよぉ」

 その蛇は、潤の咎言のうちにのみ、存在する。




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