〇三 塵埃



 戦闘に関することの全て、そして各自の小遣いを除く出費については、特別に裁量を与えられない限り、ゆくの許可が必要だった。何も破壊せず、穏便にことを収めるなど、もはやあらたの頭にはない。そうなれば、弁償の必要が出てくる。

「ほんと、壊さないにこしたことはないんだけどなぁ。次の作戦でおとなしくしててくれるなら、机三つまで。迷惑料も考えたら、そんなとこ」

 店内の騒動をよそに行は食事を終え、手を合わせた。

「ごちそうさま」

 行の様子をちらと見つつ、改はためらう。業腹ごうはらには違いない、とは言え、次の仕事で暴れられるなら、その方がすっきりするかもしれない。

「私に活躍の場が与えられる場合は?」

洋盃コップのひとつも壊しちゃだめ。つまり、もう手遅れ」

 行にとってみれば、次の仕事では改に出番を与えたくはなかった。それまでに何かしらの出番を与えておきたかった。その出番として、次を我慢させる口実として、たまたま隣にいたは都合よく利用できた。

 命をやり合う戦場ならどうとでも言えるし、いかなる指示でも改は遂行する。しかしこんな平和な農村では、事実、いくらでもやりようがあるのだ。行が億劫おっくうに感じない道筋を優先したいがゆえの工夫だった。

 と頼めば、最初、改は断ってくれる。改がいざとする段に、何かが壊れていることを期待した。改の洋盃コップが落ちるのを目にしていなければ、行は自分の食器を放ったかもしれない。椅子ひとつ倒れるだけでも、迷惑料を上積みできる。

 改から反論の意志を削ぐための段取りだった。改に少しのためらいが生まれれば、即時の反発さえ防げば、きっとすぐに熱は冷めて、状況を呑むだろう。目の前の出番で我慢するだろう。

「……早く言いなさいよ。味方まで術中で踊らせるの、どうかと思うわ」

 。戦いたがる改の気性を収めるためのもの。のどかな村で、規律を思い出させたいという。気づくほどに、改は観念するよりなかった。

 ゆくと言われればと言われれば。それが戦勝請負せんしょううけおいなのであるから。

 改が次の出番を諦めたのを見て取ると、行は立ち上がった。隣の卓、困惑を通り越し、涙さえ浮かべそうになっている少女の前へ歩み出て、誠実なこわぶりで何がどうあるのかを伝えた。

「さて、お嬢さん……ううん、淡火明あわのほあかりぬいちゃん、初めまして」

 行は幼さの残る自分の顔立ちを、なるべく真剣に見えるように工夫した。顔と口が一致しなければ説得力は得られない。

「あたしたちが、ぬいちゃんの探している戦勝請負の四人組だよ。その証明は、今これからあっちゃんが見せてくれる」

 ただ、言うだけでいい。

「あたしたち四人組が持つ、四つの咎言とがごと、そのうちのひとつを」

 ふさわしき咎を持つ者だけが口にできる、そのことばを。

 ――言えばいい。

 ことばを発すれば、力が生まれる。

瓊矛ぬほこ

 改は淡泊に言った。無論ながら、の咎言でいい。を使う理由は何もない。

 改の唇が動くのが、少女――縫には見えていた。けれど、耳に届くはずの言葉は、縫の中で形を成さなかった。何ら、音として聞こえなかった。そしてそれは、ささやにもしずにも行にも、同様のことだった。

 発されたのは、改が犯した罪の証、改にのみ許された咎言。余人には、背負うことはおろか、言語として解することも望めない。聞こえず、書かれたとて認識できない。

 改が掲げた右手に、鮮烈な彩光が収束していく。縫は、自分が夢物語の登場人物となった心持ちでいた。

 光は滑らかに尺を増していき、輝きはそのままに、二叉ふたまたの矛を形作る。いくつもの戦場で、戦局を勝利へ突き動かしてきた比類なき武威の象徴として、それはある。

 改は冷淡な面持ちで矛を振り、近くの卓の、木製の机を軽く突いた。

 あっ、と、縫が声を上げる間もなかった。奇術さながらに、ただ矛が触れたというだけのことで、机は弾け、まばたきのひとつも許さぬうちに、ただの塵埃ちりほこりに成り果てていた。

 呻くことさえも忘れて恐怖に震える男を、改は見下ろす。改は落ち着いた顔立ちだが、その眼光にこもる気魄きはくひとつで、男に唯一残された恐怖をも踏みにじる。それを確認してから、改は名乗った。

「改めまして、考えなしの素人さん、こんにちは。私が戦勝請負のうちのひとり、通称、矛の改。でも忘れていいわ。もう会いたくないもの」

 男から返る言葉はない。ここで何かを喋れるほどの胆力などない。もとより、改は期待していない。

 土壁の一角が切り取られ、窓となっている部分に、改は目をやる。くすむところのない晴空せいくうに、いくつかの綿雲が、気をよくして浮かんでいる。ほどなくのうちに、上空の空色は、夕暮れを経て、宵の紫に追い立てられるだろう。

 今夜の月は、二十三夜だっただろうか。そういえば、昨夜の花札では、月見酒の役をつくらなかった。矛を手にしながらも、そんなことばかりが改の頭を巡る。ここが軍場いくさばだとはとても思えない。もういいだろう、そう考えて、改は言った。

「あなたが風趣を解するかはわからないけれど、今日の夕暮れはきっときれいよ。それを見たければ帰りなさい。見たくない、粉微塵になりたいというなら、そうしてあげるけれど」

 喋れずとも、立ち上がって逃げ去るだけの胆力はあるらしく、男は震える下肢を無理に押え込むようにしながら、戸のひとつもない食堂の入り口を抜けていった。

 改は青空に気をとられたまま窓に歩み寄る。その途中、握ったままの矛で、ふたつの机を撫でた。矛で触れただけのことで、またも、机はすぐさま塵埃ちりほこりと化する。壊しても許される机の数は三つだった。余らせたままでは損に思う。

 行は呆れながら、改の皿に手を伸ばしつつ、所感を述べる。

「目的を達した後に帳尻を合わせるの、感心しないなぁ」

 言いつつ、改が卓の方へ目を向けていないことを確認する。行は残っていたかぶの刺身の一切れを指でつまみ、口へ放った。




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