第10話 八月の復活祭
薄暗い暗闇の中から、サリアは意識を取り戻した。腹に鈍い痛みを感じ、擦る為に右手を腹部に動かす。
その時、手が胸に触れた。それは、柔らかい女の胸だった。サリアは猛然と身を起こした。そして両手で自分の身体中を触る。
「······戻ってる?私の身体、元に戻ってる!
!」
歓喜の声を上げ、サリアは両手を空に突き上げた。その異変は、サリアの身にだけ起こってのでは無かった。
ロランドは信じられない光景を目にしていた。つい先刻までロランドの目の前にいたのは、白髪の七十過ぎの老婆の筈だった。
だが、今ロランドの前に立つのは、長い黒髪の若く美しい女だった。その女は、ロランド同様驚いた表情で目の前の男を凝視していた。
オーネックの前には、腰の曲がった老人では無く、茶色い豊かな髪の青年が立っていた
。その顔をシワ一つ無く、凛々しい両目はオーネックを真っ直ぐに見つめていた。
「誰もが望んでいる姿に戻る。法書にそう願いを込めました」
老人から若者に変貌を遂げたオーネックとロランドの前に、シルが微笑みながら歩み寄って来た。
「今のお二人の姿は、貴方達が望んだ姿です
。時間が戻ったんですよ。これからゆっくり取り戻して行って下さい。二人の時間を」
「······なんて事を望んだんだい。坊や。魔力を望まなかった事を後悔するよ」
オーネックは呆れた口調でため息をついた
。声は若い女の物だったが、その変わらぬ口調にシルは苦笑した。
「······はは。なんて喜劇だ。こんな。こんな結末があるなんて」
ロランドは肩を震わし、両目から涙を流していた。そしてオーネックの前に立つ。
「今なら言えるよオーネック。ずっとお前が好きだった。ずっと前からお前が」
ロランドの五十年越しの告白に、オーネックの頬は僅かに紅くなっていた。そんな二人の元を離れ、シルはルチルの側に向かう。
一歩ずつルチルに近付くシルは、ルチルの髪の毛を見つめていた。その髪の毛は、黒では無く金色だった。
三つ編みを解き、ルチルは自分の髪の毛を両手で掴み眺めていた。
「望んだ姿だよ。ルチル。その髪の毛の色は
、ルチル自身が望んだ本当の姿だ」
「······シル」
風に揺れるルチルの金髪を、シルは優しく手で触れた。
「綺麗だよルチル。とっても綺麗な色だ。不幸の色なんかじゃない。ルチル自身の幸福の色だよ」
笑顔のシルの一語一語が、ルチルの心の奥底に在った冷たい氷塊を溶かして行く。
ー自信を持ちたかったー
ー誰かに言って欲しかったー
ーその一言をー
溢れ出す涙を拭う事もせず、ルチルはシルの胸に身体を預ける。シルはそんなルチルを優しく抱きしめた。
七月の青空と太陽は、そんな若者達を静かに見守っていた。
······復活祭を明日に控えた小さな街は、前夜祭の最後の準備に追われ、慌ただしい雰囲気だった。
その街の中を、細身の美しい女が颯爽と歩いていた。この街の者では無い。明日の復活祭を見物しようとしていた旅人だ。
「サーリアちゃん。どこ行くの?買い物?俺荷物持ちしようか?」
ジャミンが細い目を見開き、通行中のサリアに声をかける。
「······アンタよく気軽に私に話しかけられるわね。私に蹴りを入れたの忘れたの?」
サリアは二重の両目を鋭く細め、男の姿だった時自分に暴行を加えた相手を睨む。
「心配すんなサリアちゃん。俺は過去にこだわらない性格だ」
抜け抜けと言い放つジャミンに、サリアは激昂する。
「私が気にすんのよこの阿呆!!さっさと私の前から消えなさい!!」
サリアの叫び声は、青空に高く打ち上げられた花火の音によってかき消された。それは
、復活祭の前夜祭が開始された合図だった。
オーネックマルティーンは、その花火の音を自宅の山小屋で聞いていた。毎年昼間に前夜祭を始めるせっかちな街に苦笑し、花瓶に花を差していた。すると、ロランドが扉を開け外から入って来た。
「オーネック。前夜祭が始まった様だぞ。チロルは何処だ?」
「この時間はいつもの大木で瞑想中だろうよ
」
オーネックは返答しながら、ロランドが何か落ち着かない様子に気付いていた。すると
、ロランドが背中に隠していた右手をオーネックに差し出す。
その右手には、小さくも可憐なピンク色の花が握られていた。
「オーネック。この花をお前の為に取ってきた。一緒に前夜祭に行こう!」
ロランドは顔を上気させ、洗練とはかけ離れた女性の誘い方でオーネックを見つめる。
その花を見て、オーネックは驚愕した。
「こ、この花は断崖絶壁にしか咲かないケハ花?ロ、ロランド。アンタこれを取りに行っていたのかい!?」
「ああ!何度か落ちそうになったがな」
屈託ない笑顔で答えるロランドに、オーネックは呆れ果て、怒る気力も失せた。そして窓の外の花火を一瞥する。
「······坊やは復活祭に間に合わなかった様だね」
あの法書を巡る争いの後、シルは山を下りた。魔力は修得出来なかったが、王宮騎士団の入団試験を受ける為だった。
受かる可能性は皆無と分かっていても、自分なりのけじめをつけたいとシルは望んだ。
試験の後は必ず復活祭に間に合うようにまた山に来ると言い残して。
そんなシルの言葉を信じ、今日も大木の上でシルを待つ金髪の少女がいた。枝に身体を乗せ、額を大木に預け瞑想する。
瞑想は限りなく睡眠に近い状態が要求され、少女は限りなく睡眠に陥っていた。
「きゃあっ!!」
寝落ちして枝から落ちる瞬間、ルチルは目を覚まし枝にしがみつく。
「あ、危なかったわ。また落ちる所だった」
冷や汗を流しながら、ルチルは思い出していた。以前この大木から滑り落ち、地上にいた若者に体当たりしてしまった。
それが、シルとの初めての出会いだった。
過去に意識を向けていたルチルは、街から上がった花火の音に気付いた。
「······始まったのね。今年も前夜祭が」
大木の枝に腰掛けながら、ルチルは遠い目をしながら花火を見つめていた。風に木の枝が揺れ、ルチルの長い金髪を揺らしていた
。
「あれ?復活祭って明日じゃなかったか?」
聞き覚えのあるその声に、ルチルは眼下を見下ろした。そこには、甲冑では無く、緑の旅装姿のシルの姿が在った。
「······シ、シル」
待ち望んでいた相手を突然前にして、ルチルは話したかった事を何一つ言えなかった。
「ごめん。ルチル。遅刻したみたいだ」
シルは穏やかな瞳をルチルに向ける。それは、何かの重りを背負った者の目では無かった。シルの肩まで伸びた髪が無くっている事にルチルは気付いた。
「か、髪。シル。髪の毛を切ったんですか?
」
「ん?ああ。これ?髪の毛は魔力の源なんて迷信を信じなくなっただけさ」
シルは首の後ろを触りながら、陽気に笑いながらそう言った。
「あ。でもまだ魔力を修得する事を諦めた訳じゃないよ。時間はこれから幾らでもあるからね」
「······時間?」
ルチルがきょとんとした表情を見せると、シルは右手を胸に置き、騎士の礼をルチルに見せた。
「私シルヴァウトザッカーニはこの度、アフルト山岳警備隊に任命されました。これからもご指導の程、よろしくお願い致します」
シルの言葉に、ルチルは口を開けたまま暫く呆然としていた。それは、シルがこれからこの山に居続ける事を意味していた。
「······魔法を修得するまで、何年かかるか分かりませんよ?」
木の枝からシルを見下ろしながら、ルチルは片目に涙を浮かべていた。そんなルチルに
、シルは優しく微笑む。
「······構わないよ。何年。何十年かかっても
」
ルチルを見上げるシルの視界に、花が咲いたようなルチルの笑顔が映る。そしてシルは
、ゆっくりと両手をルチルに伸ばす。
「いいよ。落ちて来ても」
ルチルとの初めての出会いを、シルは昨日の事の様に思い出す。
「今度は、準備が出来ているから」
街から打ち上げられた花火が、三度その音を鳴らした。その音で、少女が大木の枝から飛び降りる音はかき消された。
ルチルがシルの胸に飛び込み、シルがルチルを優しく抱きしめる。再び花火の音が響き
、二人は音の聞こえた方角を見る。
花火が鳴り終わった時、自分の想いを伝えよう。少女と若者は、八月の青空を見上げながらそう思っていた。
アウグスト オースターン ~八月の復活祭~ @tosa
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
近況ノート
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます