裕司と遺された少女

黒中光

第1話 夜の公園で

 裕司はスマホを片手に夜道を歩いていた。黒のジーンズに春物のジャケットを合わせている。片手にはケーキの入った白い箱。周囲は住宅街で、用事が終わった帰りだ。土地勘がなかったために、アプリで地図を眺めているのだが。


「おい、おい、マジかよ」


 縋りつく持ち主に、スマホが断末魔の叫びをあげる。『充電してください』その一言を告げて息絶えた。


「どうすっかなー」


 初めて来たところなので、道がわからない。方々走り回って、すげなく追い返され。疲れ切って、ショートカットして駅まで行こうとしたのが仇になった。充電できるところなんかあるわけがない。昼間に貴重な電力を奪っていったゲームに内心文句を言いながら、周囲を見渡してみる。


 夜中の二十三時。こんな時間に出歩いている人なんか――いた!


 すぐ近くの公園で、髪の長い女の子が独りベンチに座っている。白い長袖ニット。傍らにはパンパンに膨れ上がったスポーツバックが置かれていた。一人ででぼんやり街灯を見上げている。彼女しかいない。


「あの、すみません。駅に行く道を教えてほしいんですけど?」

「駅?」


 相手はたぶん女子高生だ。いきなり知らない男に話しかけられて怯えたようだったが、裕司が務めて笑いかけると徐々に肩の力を抜いていった。


「いいけど。その代わり、ライター貸して」

「え、ライター?」

「ないの?」

「……あるけど」


 昨日、友達の誕生日サプライズをやるために用意したものがカバンに入っている。なんで、道案内にライターなのか分からないが、とりあえず渡してみると、彼女は当たり前のように、ポケットから煙草の白い箱を取り出した。そこから1本取り出して小粋にくわえる。カチッとライターが火を放ち、彼女の顔を幻想的に照らす。


 白くて細い煙が、ゆうらりと揺れて夜に溶けていく。


 カッコいい。そう裕司は思った。今まで、小汚いオッサンが吸っていて、臭いしダサいだけだと思っていた煙草だが、そんなものとは全く異質だった。整った利発そうな顔立ちと相まって、古い洋画から抜け出てきたように感じる。


「……おい、ちょっと」


 煙草を軽く、斜めにくわえた彼女がチラッと視線を裕司に送る。こっちを見ているようで、何も見ていない目。一瞬気圧されたが、勇気を持って詰め寄る。


「お前、未成年だろうが!」

「だから?」

「だからってっ! 体に悪いぞ。将来、ガンとかになったら、どうする?」

「あなたはどうするの? 私がガンになったらどうするの?」


 彼女は笑った。得意そうに、寂しそうに。達観した態度だった。夜の公園はシンと静まり返っている。


「私が煙草を吸って、それがあなたに関係ある?」

「……」


 やっていることは明らかにむちゃくちゃなくせに変に説得力がある。確かに、彼女とは見ず知らずだ。今後会うことだって一切ないだろう。それでも。


「ある」


 裕司は彼女の横に座る。好きでもない煙草の匂いが鼻につくが、かまわず彼女の目を見つめる。少女の瞳に裕司の顔が映り込む。


「今、ここで見たからな。 後々思い返して気分が悪くなる」

「なにそれ」

「後悔したくないってことだ。どうせなら、一日振り返って気分良く寝たいってことだ」


 未だ、大学生で。そんなに人生とか深くは考えていない裕司ではあるが、これだけは力強く言い切れた。些細なことだが、彼がいつもいつも心がけていること。


 彼女はジーッと裕司の顔を見ていたが、フーッと息を吐いて咳き込んだ。


「分かったわよ」


 光から外れて公園の反対側の入り口に行くと、今時珍しく置かれていた灰皿に吸殻を投げ込んだ。


「コホ。これで、満足?」


 ケホ、ケホ。せき込み続ける彼女に裕司はそっと問いかける。


「吸うの。初めてか?」

「当たり前でしょ。未成年なんだから」


 相変わらずのピンボケした笑みを浮かべながら裕司のいるベンチに戻ってきた。どこからか、猫が威嚇しあう声が聞こえてくる。


「じゃあ、どうして」

「人のことによく首突っ込む人だね」


 ドサッと体を投げ出すようにして、裕司の隣に座ると腕を回して彼を抱き寄せた。女子高生特有の、温かな甘い匂いがしたが、剣呑な目が全て押し流していった。


「なんかさ。目の前の困難は全部、真っ当に生きてれば解決できるみたいなこと考えてそうだから言わせてもらうよ。そんなの、甘いんだよ。人生っていうか、世界っていうか。とにかくそういうものは、身勝手に不幸が飛んできて、どうしようもできないことだってあるの!」


 フーッ、フーッと肩で息をする姿はまるで獣のよう。年下とは思えない凄みに声も出せず、金縛りみたいに体が動かなくなった。猫の喧嘩はまだ続いている。


「私はね、身寄りがいないの。不倫で生まれた子らしくてね、お母さん以外の誰にも望まれない女の子。父親なんか、今どこにいるのやら。そんなわけで、お母さんがシングルマザーで育ててくれたんだよ。明るくって、人生いっつも前向きにとらえてる人だよ。ホント、よく働く人でね。それで……体調崩してさ。先週、死んじゃった」


 私のためにさ。そういう彼女の声は湿って、かすれていた。バカだよ。その一言に持てる愛情全てを注ぎ込んでいるように、裕司は感じた。


 少女は話を続ける。近所の家についていた明かりが消え、ひたりと暗闇が迫ってきた。冷たい空気が二人を覆う。


「うちは賃貸だったんだけどね。未成年が契約できるわけないから、一昨日追い出されちゃった。はは、友達の家だってずっとは居られないからね。宿無しってわけ」

「それでも、なんかあるだろ。嫌かもしれないけど、そういう施設とか」


 裕司がなんとかひねり出した知恵を少女はあっさり首を横に振って否定する。その程度の考えは通用しないとでもいうように。


「無理だね。私、高校生だから。義務教育終わってるから自分で働けるだろうって言われたよ。保証人がいないんだから、雇ってもらえないのに」

「……」


 もう、裕司は何も言えなかった。助け合いのネットワーク。その網からすっぽり取り残された女の子。目の前にいるのはそういう子なのだと感じた。彼女に、何か……できる、か?


「だったら……俺の家に来るか?」

「——いつまで?」


 少女は裕司の顔を覗き込んだ。もう、そこにはさっきまでの笑みはなかった。完全に、表情が抜け落ちていた。


「優しいんだね、あなたは。でも、見ず知らずの高校生を一人で支えきるなんてできるようには見えないよ。悪いけど」


 冷ややかに告げられた言葉は、認めたくなくても正論だった。一日、二日なら何とかしてやれるとは思う。だが、所詮は一大学生。アルバイトと仕送りで糊口をしのぐ生活だ。下宿生で一人暮らしをしているからこそよく分かる。人一人の生活を維持することがどれほど大変なのか。


 裕司だけで、彼女を支えることは、できない。


「――そうか。 ……なあ、お前さ。ケーキ食うか?」


 彼女が望んでいるのはそんなことじゃないだろう。それは重々分かっているのに、こんなことしかできない。自分が小さくて、情けないのを痛感しながら膝の上に載っていた箱を掲げる。


「これ、手土産のつもりだったんだけど、渡せなくてさ。どうだ?」


 少女はポカンとした顔になったが、ゆっくり頷いた。今までシリアスな話をしていて、急に出てきたのがお菓子なら、それは唖然とするだろう。そして、それはさらに広がった。


「これ、どうやって食べるの」


 ショートケーキを両手で捧げ持ちながら、少女は呟く。ここには皿もフォークもないのだ。


「手で掴んで食べるしかないだろ」

「……本気で言ってる?」


 裕司は返事の代わりに、チョコレートケーキを手に取りフィルムをはがしながら一口かじる。少女は顔をこわばらせていたが、その様子を見て決心がついたらしく、先端の部分をそっとかじり取る。


 途端に、今までの虚脱した表情に、ほわんとした笑みがこぼれる。「ん~」というよくわからない声を上げて体をくねらせている。


「うまいか」


 裕司が問いかけるとコクコクと頷く。唇の端っこにホイップクリームがくっついている。こういう姿を見ていると、さっきまでの凄惨さが消えて、ただの女の子なんだと感じさせられる。


「ケーキ、好きなのか」

「嫌いじゃない女子はいないよ」


 手づかみにも慣れたのか、パクパク食べる彼女があんまりにも愛らしかったので、最後に残っていたフルーツタルトも与えて席を立つ。


 振り返って見ると、街灯に照らされながらタルトを頬張る彼女は幸せそうだった。しかし、そのすぐ外側は暗闇に沈んでいる。


 パタパタという足音がして、振り向いてみると猫が二匹裕司のほうに走ってくるところだった。白猫が三毛らしき猫に追いかけられている。このままだと捕まるな。そう思った裕司はすれ違いざまに、二匹の間に足を割り込ませた。三毛は器用にかわしたが、スピードが一瞬鈍った。白猫はそのまま、走り去っていく。


 逃げ切れよ。心の中で裕司は呟くと、どういう弾みか、ふと思った。ここまで身の上話まで聞いておいて今更だが。


「そう言えば、名前聞いてなかったよな。俺は裕司っていうんだけど」


 少女は目線をあげると、タルトの最後の一かけらを飲み込んでから答えた。


「新藤、だよ」


 あっさり告げられた名前を聞いて、裕司は眉を寄せた。ゴトゴトと電車が走る音が遠くから聞こえてくる。それが終わるころ、裕司はゆっくりと言葉を発した。


「新藤――彩、さん?」

「そう。 ……なんで、知ってるの?」


 驚きに目を見開いた少女の手から、空になった箱がポソリと落下した。裕司はそれを拾うと、戸惑い体をのけぞらせている少女の目を見て、言葉を区切りながら伝える。


「俺は、平岡裕司。平岡圭一郎の、息子だ」

「平岡、圭一郎。それって……私の、父親。私たちを、見捨てた……!」


 彩の目に強烈な恨みがこもる。底光りする目に体が震えそうな恐怖を肌で感じたが、裕司は心のどこかで仕方がないとも思っていた。彼女のこれまでの苦境の原因となったのは裕司の父親だ。彼女たちの苦労を無視して、今まで生活してきたことには罪悪感を覚える。


「親父は、死んだよ。先月病死した。えっと、彩たちのことは、今際の際に親父が言うまで知らなかったんだ。でも、その何もなしってわけにはいかないからさ。忌中明けってことで来たんだ」


 ところが来てみれば、教えられていた住所は空き部屋。慌てて近隣に聞き込んでみても誰も行方を知らない。それでも必死になって駆けずり回っていたら深夜だったというわけだ。


「そう。あなたが、私のお兄さんなんだ」

「そうなるな。なあ、とりあえず、俺のとこに来ないか。ほとんど見ず知らずだったけど兄妹なわけだし。今後のことも話し合いたいし」


 裕司の母は、夫のカミングアウトに仰天していたが、不倫相手を恨んではいなかった。事情を話せば、きっと引き取ることにも賛成してくれる。裕司はそう思った。あとは、彩の意思次第だ。


 彩は目をつむって、ゆっくりと深呼吸した。その間、裕司は息をつめてその様子を見ていた。


「分かった。行くよ。 ……それにしても、あなたがお兄さん、か」


 良かった。小さく呟くと、今や全財産が詰まっているスポーツバックを肩にかけた。


「じゃあ、案内してくれる?」

「ああ」


 二人肩を並べて公園の出口へと向かう。雲の隙間からでた月光が彼らを照らす。


「そうだ。あのさ」

「うん?」

「最初に言ったこと、覚えてる?」


 裕司は、できるかぎり真剣な目をして、新しい妹に向き直る。その様子を見て彩も顔を引き締めて兄を見る。


「俺、迷子だからさ。駅まで案内してくれない?」


 見つめあった二人の口元が徐々に緩んでいく。静かな住宅街に笑い声が広がった。近くの塀の上からは白猫が驚いて彼らを見つめている。


「分かったよ。ついてきて」


 明るく笑って先導する彩を温かく見守りながら、裕司は後を追った。これからは、こうして笑顔で彼女が過ごしていけるようにしてやろう、と決意しながら。

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