オタクと偽オタクが聖地巡礼すると ③

「帰ってさっそく着てみる!」


 サイズを確かめ、ローズマリーはドレスを両手で掲げて嬉しそうにその場で一回転する。隣りにいたノヴァが口を手で覆って眉根を寄せる。


「重そう…。あとなんか…布の量がすごくない…?持てるかな…?靴とかもあるんでしょ…」

「2人で持てばなんとかなるんじゃない…?」


 ボリュームのあるドレスは、コンパクトに畳んで持っていくことは到底できるものではなかった。


「袋とかある…?ゴミ袋くらいならちょっと分けてもらえないかなー…」

「やめてよゴミ袋とか」


 その場でドレスを袋に詰めて持って帰りそうな勢いの2人に、フェリクスは思わず苦笑する。


「いや、あとで送りますよ?さすがにドレスは持って歩けませんし…」


 普通は使用人などに送らせるのだが、2人にはそのような感覚はないらしい。決して馬鹿にするつもりではなく、2人のやり取りがなんだか微笑ましいと思って漏れた一言だったのだが。


 フェリクスの言葉を聞いた2人はしばらく黙り、やがてローズマリーは顔を赤くして恥ずかしそうに下を向く。


「あ…そうですよね…普通は自分で持っていかないんですよね…?」


 そしてボソボソと呟く。その横でノヴァが、


「でもローズはなんでも自力で持って行くから大丈夫じゃない…?ほら、大量の本とか風呂敷に包んで背負ったり…」


 と、間の抜けた口調でローズマリーに追い打ちをかけ、ますます彼女は小さくなってしまう。ノヴァはともかく、フェリクスの態度は価値観の違うローズマリーに恥をかかせてしまったようだ。


「そ、そうね…わざわざ送ってもらうのも悪いし…本に比べたら軽いし…」


 恥を忍んで持って帰ろうか、それとも素直に送ってもらうべきか…でもそれもなんだか恥ずかしいし…と、ローズマリーが迷いを見せ始めるのがフェリクスにも分かった。これはまずいと感じ、どうフォローしようかと考えクロードに視線をチラリと向ける…が。


「失礼します、何かお困りでしょうか?」


 この部屋に今までいなかった人物の声が降りかかった。


「…あぁ、クロヴィスか」


 開いた扉のすぐそばに執事が立っていた。

 ローズマリーがフェリクスを見て、扉のそばに立つ彼を見て、そしてもう一度フェリクスを見た。いきなり知らない男性…それも自分たちより遥かに年上の、父親くらいの年齢の男が現れれば驚くのも無理はない。


「彼は執事のクロヴィスだよ」

「執事っていっぱいいるんだ…?」


 ノヴァのズレた疑問に答えたのはクロードだった。


「私の父です」

「クロードさんの…お父さん?」


 ローズマリーが戸惑ったように「どうも…」と、ちょっと頭を下げる。それはまさに「友達のお父さんに急に会ってどうしていいか分からない」という反応だった。執事なのだから本来そのように気を使う相手ではなく、なんなら存在自体ないものと扱ってもよいのだが。


「彼はこの家の執事長なんだよ。僕も小さい頃から彼に躾けられてきてね…」

「執事にも優劣あるの…?親子で執事するの…?」


 ノヴァがまたズレた疑問を投げかける。彼の家柄なら執事がいてもおかしくないはずだが、骨には詳しくてもこういうことには疎いようだ。


「代々、この家に仕えております」

「へー…すげー…」

「やめてよノヴァ、失礼でしょ」


 本当にすごいと思っていなさそうな適当な呟きに対し、ローズマリーが慌てふためく。そんな2人に対してクロヴィスは軽く会釈をし、顔を上げると「それで」と話を続ける。


「なにかお困りでしょうか」


 彼はローズマリーに軽く微笑みかけ、そしてそのまま視線をフェリクスとクロードにスライドさせる。その目は…笑っていなかった。怒っている。ローズマリーとノヴァには分からないが、フェリクスとクロードにはしっかり分かる範囲でその怒りは示されていた。


 主人であるフェリクスの、相手の価値観をけなすように映るうっかりした発言と態度。それを阻止できず即座にフォローもできなかった、執事であり己の息子であるクロードの行動。いったいどこから話を聞いていたのか知らないが、おそらくローズマリーとノヴァがわいわい騒いでいたので、この家の客人には珍しい、普段とは違う様子を気にしていたのだろう。


「このドレス、重そうだし2人で持って帰れるかな~って話してて…」


 ノヴァがドレスを無造作に持ちながら、その場の緊張感をぶち壊すような間延びした声で言う。ローズマリーはそんなノヴァの後ろに隠れてしまっていた。


「気に入っていただけたようで、光栄でございます。そのドレスによく似合う髪飾りなどがあるのですが、そちらが手違いでまだ準備できておりませんので…ドレスとまとめて明日にでもお送りしますが、いかが致しましょうか」


 その場で持って帰ろうとした庶民的な感覚を、クロヴィスは「それほど気に入った」とフォローを入れ、さりげなく理由をつけて後から送るよう仕向ける。普段ならここで「フェリクス様、どうでしょう」と主人を立てる言葉をかけてくれるのだが、今回は違った。任せられないと判断されたのだ。そうなるとフェリクスは口を出す機会はない。


 仕方がないので、ただ笑みを浮かべてその様子を余裕を持って眺めるふりで取り繕った。形だけでも主人らしく振る舞っておかないと、後から「随分とぼんやり突っ立っておられるので気絶されているかと思いましたよ」と嫌味を言われるのは想像に難くない。


「髪飾りかー。ローズはそんなん持ってないよね?」

「…持ってない…けど」

「んじゃ送ってもらおっか。バラバラに送られてきたらいつものように無くしそうだしね」

「そ、そうね…」

「…そういえば、これひとりで着れるの?」

「……たぶん、着れる…と思う…けど」


 普通、淑女は髪飾りを持っていないことはないし、物をなくしたりしないし、そもそもドレスを一人で着たりしない。仮にそうだとしても人前では醜態を隠すものだ。全く悪気なくローズマリーに恥をかかせまくるノヴァに、彼女はますます身を小さくして俯いた。


「ローズマリー様、ドレスはご試着になられましたか?」

「い、いえ…まだ…帰って着てみてからサイズ直そうかと…」

「ではメイドに手伝わせますので、一度こちらでご試着ください。ノヴァ様は、ぜひ伯爵の話し相手になって頂けますでしょうか」

「あーそうするー。まだ骨の話を一回もしてないんだよね」


 まだ骨談義をする気だったのか。フェリクスはノヴァが「よいしょ」と箱を両手に抱えたのを見て頭痛がした。骨についていったいどんな会話をしたらいいのか、オタク話以上に見当がつかないのだ。


「え、でも…長居するのもなんか…悪いような…」

「とんでもございません。伯爵のご友人がいらしていると聞き、お茶とお菓子を用意している最中です。試着後にすぐ召し上がれますよ」

「お、お菓子…」


 ローズマリーがお菓子の言葉にわずかに反応する。


「表通りから少し道をそれたところに、花を使ったケーキとクッキーを作る店があるのですが、きっとお嬢様もお気に召すかと…」


 そして花を使ったケーキ…と言ったところでローズマリーの目が輝いた。クロヴィスはローズマリーのその反応を見て、すかさず控えていたメイドを呼び寄せドレス一式を運ばせるよう命じる。


「ウサギと花冠の看板の…!?」

「ご存知でしたか。さすがお嬢様。あの店は隠れた人気があると聞き及んでおります」


 ウサギと花冠。それを聞いたフェリクスとクロードは「あぁ……」と、納得とも感心とも言える微妙な空気になった。花冠は今読んでる本に出てくる魔法使いの紋章だ…。そしてその魔法使いの使い魔がウサギで、さらに魔法使いはお菓子作りが大好きなのだ…と、2人は黙って物語を思い浮かべる。


 ローズマリーもそれを思い浮かべたに違いない。モチーフだ。あの物語をモチーフとして楽しめる店が存在したのだ。そしてクロヴィスは何故かそれを把握していたのだ。


「お茶の準備が整うまで、どうぞごゆっくりご試着下さい」


 試着しようか迷っていた彼女がお菓子につられてすっかりお茶をする気になったのを見逃さず、彼は扉を開けてさりげなくローズマリーの手を取って部屋を移動させる。ドレスを持ち帰るかどうかで一喜一憂し、幼馴染に恥を上塗りされてすっかり気分が急降下していたローズマリーはどこへ行ったのか、笑顔で部屋を出ていった。


「クロード…もしかしてお前の父親は…」

「そんなわけがありません。父は読書にあまり興味がない人なので」

「…だよな」


 フェリクスに「レディに恥をかかせる嘘つき男は死ね」とでも言わんばかりに、オタクとして振る舞うよう勉強させ始めたのはクロヴィスだ。しかし勉強相手を務めるのは息子のクロードであって、クロヴィス自身は関わってこなかった。だが、この執事長はおそらくフェリクスやクロードが知らない間に勉強していたのだろう。そして彼ら以上に、ローズマリーが何を求めているかを熟知しているようだった。


「で、どの骨の話からする?」


 空気の読めないノヴァが骨の入った箱を抱えて立っている。いつも眠そうな顔をしている彼の瞳が生き生きしていたので、フェリクスは諦めて「初心者向けのやつから頼む」とため息混じりに言った。


 その後、ローズマリーが試着を終えて戻ってきたので、フェリクスはノヴァの骨談義とローズマリーのオタクはなしを延々と聞きながらお茶の時間を過ごした。それは政治の話よりも難しく、そばにいたクロードがオタクと骨の話題をさりげなくさばいてくれて難を逃れたが、骨とオタク…二人同時に相手をするのは無理だと痛感した。





「じゃあ伯爵、当日は2人をよろしく頼んだよー」


 帰りの馬車を用意させて2人を玄関まで見送ると、ノヴァが親指を立てて唐突に言う。2人というのはローズマリーとリュミエール子爵のことだろう。が、ローズマリーのことを頼まれるのはいいが、子爵のほうまで面倒を見る義理はない。


「…なんで僕が」


 とフェリクスが不満をあらわにしそうになったその時、クロヴィスがさっとやってきてフェリクスの横に立つ。やや強めに踵が床を鳴らす音が響いた。そして、彼は笑顔を絶やさず一礼して言う。


「もちろんでございます。当日はわたくしとクロードも一緒に参りますので、なんなりとお申し付け下さい」


 非紳士的な振る舞いを誰よりも許さず、己の親より怖い存在である執事長に圧力をかけられてフェリクスは即座に笑みを浮かべる。それは幼少の頃からしょっちゅう練習した、相手を不快にさせず人に好まれるような笑顔だ。


「クロードさんもパーティーに来るの?」

「はい」

「じゃあ3人で一緒に聖地巡礼しましょう!」


 クロヴィスがいる手前ローズマリーは声を潜めているが、クロードもオタク仲間だと認識した彼女はすっかり舞い上がっている様子だった。


 オタクでもなく聖地巡礼に興味もない。しかし主人の友人相手に非礼な振る舞いは出来ない。クロードは一瞬間を置いてから「私もお邪魔してよければ、ぜひ」と、一切の戸惑いを隠して答えた。


 2人が乗った馬車が見えなくなり、重大なミッションを達成した気で肩の荷をおろしたフェリクスだったが、


「さて、フェリクス様。パーティー当日までにまだまだ学ぶことがあるようですね」


 クロヴィスが冷たく言い放ったので安心するのはまだ早いと悟った。パーティーの日までに聖地巡礼のための準備と、そして紳士としての再教育が待っていそうだ。


 ローズマリーと出会ってからというもの、彼にしては珍しいくらい失態続きだ。大きな問題が起きる前に対処せねばとフェリクスも気合いを入れ直した。


 しかしフェリクスの心配をよそに、大きな問題が起きるのはローズマリーのほうだった。



 ◇



 パーティー当日の朝。


 ローズマリーは頑張って自力でドレスを着て、予約していたサロンで自分とは違う人種に囲まれながら緊張の中で髪を結ってもらい、婚約者であるリュミエールの馬車で公爵夫妻の別荘に向かっていた。


「ごらん、ローズマリー。あの雲の形を…今年一番の素晴らしい曲線だ…まさに芸術作品だとは思わないかい?」

「あーうんそうかもねー」


 リュミエールの言葉を聞き流し、ローズマリーは乗りなれない馬車をしげしげと見渡す。この馬車はかなり立派だった。大きいし、装飾はキレイだし、座り心地もいい。そして身なりの良い御者もいる。御者はリュミエールの使用人だそうだ。


(本当にこの人、貴族になったんだわ…)


 それは馬車だけでなく服装からも感じていた。普段からオシャレな格好をしているとは思ったが、今日は普段のそれとは違って気品を感じる服装だった。男性の服装は女性に比べてバリエーションがないものだが、彼の服は違うようだ。


 そして彼なりのこだわりがたっぷりあるようで「袖の刺繍がナントカ」「ボタンの細工がああだこうだ」「襟元のフリルがどうのこうの」「生地は指折りの職人が云々」と、服について薀蓄を垂れ流し続けていた。


(自分の服を褒めるのはいいけど、私のドレスはどうなのよ)


 ローズマリーは思わず手袋の上から親指の爪を噛むしぐさをしてしまう。空想世界に両足を突っ込んでリアルの世界はおざなりに生きているローズマリーでも、一応せっかく着飾ったのなら何かしら褒められたいとは思っている。


 だがリュミエールは会ってから一度たりともローズマリーのドレスや髪型になんの言及もしていない。ちなみに家を出る時にノヴァに「どう?似合ってる?」と聞いたら「いつもと同じ…」と残酷な一言をもらった。なのでノヴァに輪をかけて酷い感想を言いそうなリュミエールに自分から感想を求める気はさらさらなかった。


「…ねぇ、なんか光ってるけど」

「おっと、誰かから通信かな?」


 リュミエールが持つステッキ。その柄の部分の飾りが光っていた。不思議に思ったが「通信」という言葉を聞き、それが離れた場所にいる相手とコンタクトを取れる上位クラスの魔法だと納得する。生まれながらに魔力が強いとされる女性でも、この魔法は誰でも使いこなせるわけではない。ローズマリーは訓練したがさっぱり使えなかった。


(相変わらず魔法が上手なのね…)


 フェリクス伯爵のような貴族なら男性でも魔法は使える。そしてリュミエールのような農民やノヴァのような中流家庭に生まれる男性は魔法が使えないのが普通だ。だがこの幼馴染は小さい頃からずっと魔法が大得意で、上位の魔法力を持つ女子が3日かかって覚える魔法を5分で自由自在に扱える男だった。


 若干の嫉妬心からローズマリーはふてくされて小窓に肘をついて外を眺めたが、通信相手と何やらぶつぶつ話していたリュミエールが突然立ち上がり、馬車が揺れる。


「止めてくれ!」


 そして切迫した様子で御者に言った。馬車は急に止まらず、徐々に速度を落としてゆるやかに停車する。


「な、なに?どうしたの?」

「すまないがローズマリー…私は急用ができた」

「は…はぁ!?」

「公爵夫妻のパーティーには行けそうにない…」

「どういうことよ!?急用ってなに!?」


 聖地巡礼を心待ちにしていたローズマリーにとって、パーティーに行けない事態は由々しきことだ。しかし彼の様子からただならぬ物を感じて不安になった。なにか事件でも起きたのか、誰か知り合いの訃報でも届いたのか…と。


「実はこの季節しては珍しく、東の泉に白鳥の群れが舞い降りたと白鳥愛好家から連絡があってね」

「……は?」

「悪いがそのような美しいものを見逃すわけにはいかない…ということで、パーティー行きは中止だ。泉に向かおう」

「嘘でしょ!?」


 ローズマリーは叫んで立ち上がる。思わずリュミエールの襟を引っ掴んで詰め寄った。


「私がどれだけ公爵夫妻のパーティーに行きたいか知ってるでしょ!?」

「あちらの泉も美しいから悪くないと思うが…」

「あちらの泉がどちらの泉か知らないけど、私が見たいのは物語のモデルになった公爵夫妻の別荘の湖よ!!」


 パーティーに来ないかと誘ったのはリュミエールのほうだ。それを当日にすっぽかそうなんてあんまりだ。ドレスはタダだが、髪のセットには決して安くないお金を使ったのだ。何よりあの場所は私有地…しかも公爵家のものなので、ローズマリー程度の人間が何気なく入れる場所ではない。この聖地巡礼を死ぬほど楽しみにしていたローズマリーは泣きそうになった。


「ふむ…ではこうしよう」


 リュミエールは御者になにか言う。すると急に馬車が走り出す。よろけたローズマリーは椅子に倒れ込む。


「いきなり走らせないでよ!危ないでしょ!」


 ローズマリーの抗議も聞かず、馬車はひとしきり走るとどこかに止まった。それはどこかの大きなお屋敷の裏門に通じる道だった。屋根が赤くて白い壁。間違いない、公爵夫妻の別荘だ。


 なんだ、考え直して行く気になったのか…と、ローズマリーがほっとしていると御者が馬車のドアを開ける。するとリュミエールがいきなりローズマリーをひょいっと抱えた。


「え…なに」


 お姫様抱っこをされて馬車を降りると、まるで物を投げるように彼はローズマリーをそのへんにぽいっと立たせる。


「ではローズマリー。あとは楽しんでくれたまえ」


 なに?どいういうこと?楽しむって?

 …と、ローズマリーが驚いている間にリュミエール自身は馬車に戻っていく。


「え?え?ちょ、ちょっとどこ行くのよ!?」

「私は白鳥を求めて泉に、君はここで湖を楽しむ…以上だ」

「はあああああ!?」


 招待されたのはリュミエール子爵であってローズマリーではない。自分はあくまで「子爵の婚約者」という立場のおまけだ。どうやって一人でパーティーに参加しろと言うのだ。ローズマリーは彼を止めるべく馬車に走り寄ろうとしたが。


「あぁそうだ、ローズマリー」


 彼は片足を馬車のステップにかけ、柔らかい動作で優雅に振り返る。陽光が彼を照らすように雲の隙間から降りそそぎ、風がわずかにそよいで彼の髪を揺らした。こう、絶妙なタイミングで妙に自然を味方につけて美しさを演出するので「魔法でなにかやってるんじゃないか」と疑いたくなる。


「なによ」


 人々はよく彼の美貌を「まるで絵画から抜け出たかのよう」「美の女神の生まれ変わり」と称する。幼馴染で見慣れた…むしろ見飽きた顔だが、やっぱり美しいと思うときは美しい。そんな彼が心地の良い美しい声で囁いた。


「今日の君は美しいね」


 ―…褒められた。


 突然のことでローズマリーがぽかんと口を開けて何も言えないでいる間に、リュミエールはさっさと馬車に乗り込み出発する。ハッと我に返ったローズマリーは動きづらいドレスで馬車を追いかけようとしたが…うまく歩くことができなかった。


「し、信じられない…」


 数分前まで少しはドレスを褒めてくれてもいいのにと思っていた。いざ褒められたらびっくりして声も出なかった。お世辞を言うような人間でないことは分かっているので、本当なら喜ぶ場面だ。


 しかしそれ以上に、屋敷の裏門に放り出して一人で白鳥のために去っていったリュミエールに猛烈な怒りが湧いた。


 いったいどうしろというのだ。ここから正門まで歩くのか。どこの世界にパーティー用の豪華なドレスに身を包み、しっかりパーティー用にヘアセットをし、準備万端で屋敷の裏から正門に一人で歩いてくる女がいるというのだ。そもそもパーティー仕様のドレスは普通に歩けないのだ。こんな草っぱらの上で、土でドレスを汚せとでも言うのか。


 そんな格好で現れたのが単に招待された婚約者についてきただけの人間で、しかも婚約者に直前でほっぽり出されたなど、言っても信じてもらえるかすら怪しい。周囲からしたらただの不審者だろう。


 考えれば考えるほど、ローズマリーは怒りに震える。そして我慢できずに叫んだ。


「ばかあああああああああ!!どーせ私は鳥以下の存在よ!!!もうぜっっったい頼まれたって名字で呼んでやらない!!」


 今後はどれだけ「名字の響きが好きだから名字で呼べ」と言われようが名前で…いや、変なあだ名を付けて呼んでやろうと心に誓った。


「あぁもうどうしよう…歩いて帰れる距離じゃないし…」


 聖地巡礼は絶望的と判断し、ローズマリーは次の行動…つまり「帰る選択肢」を考える。馬車で2時間はかかった気がする。その距離を徒歩で…と、ローズマリーは街の方角を見つめる。


(絶対無理だ…)


 ローズマリーは座りたくても座れず立ち尽くす。いつもより踵の高い靴が容赦なく足先とふくらはぎにしびれをもたらしてきた。


 だがしかし…。ふとローズマリーは考える。もし大好きな先生の限定本が馬車で2時間の距離で発売され、しかも徒歩しか選択肢がないとしたら…?と、急に彼女の中の何かが囁きかける。


(…行くわ。それは絶対行くわ)


 仮に装備万端の格好でなく裸足だろうが踵が10cm以上も高い靴だろうが重たいドレスを引きずっていようが、這ってでも行く気がする。


(いやいや、それはあくまで本が出るならの話…今はまったく関係ないわ)


 なんのモチベーションもなくこの距離をこの格好で歩く勇気もやる気も度胸もあるはずがない。


「だいたいもしパーティーに出れたとして帰りはどうすんのよ…結局歩きじゃない…エリゼは私が徒歩で帰れるとでも思ってるわけ!?」


 ギリィ…と手袋の上から親指の爪を噛む。さっそく名字で呼ばないを実践し、ここにいないリュミエールに盛大に愚痴った。フェリクス伯爵が来ているから乗せてもらうとか、誰かに馬車を手配してもらおうという発想はまったくなかった。


「でもきっと、あいつはこれくらい平気で歩くのよね…」


 彼は毎日のように日の出と共に起きては畑仕事や牛やヤギの世話をしていた農民だ。そのせいか見た目に似合わず体力も筋力も無駄にある。水不足の時期は山ひとつ超えた先から水を抱えて歩き、大雪の季節に薪を運ぶ時は動物を使わずソリを自力で引いてしまう。そういう人間だ。


 そういえばローズマリーを抱えて崖を登ってくれたこともある。あれはいったいどういう経緯だったか…怒りで思い出せないが、魔法に頼らずこの距離も普通に歩いてしまいそうな幼馴染に静かな対抗心が出てきた。


(…よし。歩いて帰ってやる)


 そして自慢してやるのだ。淑女のたしなみ?それが何の役に立つのか。今の自分に必要なのは境地を一人で切り抜ける体力だ―…。


 と、ひとりで密かに盛り上がっていたローズマリーは背後に人がいることに全く気づかなかった。


「そこのお嬢さん、どうされました?」

「ひぃぇあっ!?」


 すっかり「馬車で2時間の距離を勇猛果敢にも徒歩で突き進み努力で天才を打ち負かす」という、自分の境遇を物語の王道設定にかぶせて舞い上がっていたので、急に現実に引き戻されたローズマリーは妙な声をあげた。

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腹黒伯爵とオタク令嬢 神白ゆあ @yuaxx

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