葵に宛てた逢瀬のお誘い

ーかつて、藤臣と暮らしておった頃。わらわが寝坊をすると文が置かれてあった。


畳張りの部屋に置かれた一組の布団の中で葵は目を覚ます

冬の厳しい寒さは布団から少し手足が飛び出ただけでも恐ろしい速さで体温を奪っていく


日はとおの昔に高く昇って、障子の向こうからさんさんと部屋を照らしていたが部屋のなかはひんやりと冷たく寒さが身に染みて布団をぎゅっと抱きしめ直した

寝ぼけ眼で恋人の名を呼ぶが、姿はなく。共に入っていた布団の右側も温かみが抜けきっている


何度か「もう行っちゃうよ。起きて。」と身体を揺さぶられたような気もするが、睡魔の誘惑がしつこくて、まどろみとあたたかいお布団が葵を放そうとしなかったのが悪いのだと葵は思い返して開き直った。


そんなとき文机に置かれていたのが葵への文である

どこへいくか、なぜでかけるかといった連絡や昨夜のお散歩は楽しかったというような思い出話、葵の寝顔が可愛くてもっと好きになったなどといった恋の口上

そして

花や木の香と十二支の置物が置かれているときもあった


香りは該当する草木が庭先に生えている場所を示し、十二支の置物は時間を示す

紅葉や向日葵など香りがしないか手持ちにふさわしい花の香が無ければ絵が描かれているときもあるが、今日は香が焚き染められ十二支の小さな置物が文鎮代わりに文を押さえている


『今日あたり満開かな。一緒に行こうね。藤臣』

流暢な筆文字で書かれた逢瀬を意味する文と、右側には水仙の香りのこうが焚き染められて、部屋の中を甘ったるい香りで包んでいる

文の中央に置かれた文鎮の上には午の姿が模され文を風から守るように押さえつける


水仙の香にうまの置物

水仙郷で午の刻ーつまり九つのとき、お昼ごろに会いましょう

藤臣からの幻想的な伝言は葵にそう訴えている


いま、何時なんどきだ⁉

日はもうずっと高い

今から全力で水仙郷まで飛んで行ったら、なんとか間に合うかもしれない

いや、でもまだ起きたままの恰好だし、身支度だってなにひとつしていない

もう存分にどんな格好だって見られてはいるんだけど、身体の隅々まで知り尽くされているのだけれど、でもやっぱり整えていきたいじゃないか


葵は着物を着換え髪を好いて、少しばかり唇に紅まで引いて、窓から飛び出した

「ごめん。待たせた。」

葵がようやく水仙郷に着いた頃には藤臣はもう石の上に座って腕まで組んでいる始末だ

「今日の約束はどこに何時なんどきだった?」

「水仙郷に、うまの刻。です。」

「で、いまいくつ?」

「ここのつとちょっとだけ・・・・。」

藤臣はげんなりとしている葵の額をひとつ、ぴんと指ではじくと

「いくよ。」

と手を差し出した


葵は顔をぱあっと明るくして、おおきくうなずくと

ぽんと軽い音とともに姿を大人の女性の大きさに変えて差し出された手を握った

肩を並べて歩く両端を水仙の花が囲み、甘い香りで包み込まれている


すらりとのびる緑色の葉と茎、そして白い花弁に丸い黄色のめしべ、風と共に揺れ動く水仙の花たちが二人の逢瀬を歓迎しているようでもある


「もう、怒ってるよ。いつまで寝てたの?ここのつとちょっとって言ったけど、ここのつはん近いんだからね。」

「すみませんでした。」

口調は厳しいが、葵の手を握る藤臣の手は暖かく強くにぎりしめられて、肩を並べて歩いた

冬の刺すような風が吹いても気にならないほど気持ちはすでに満たされている


わらわは一緒に歩きたいのだ

藤臣とどこまでも共に

隣にいられて幸せなのだ


「何笑ってるの?今お説教中です。」

「はい。ごめんなさい。」




香の香りや植物を示す絵画と十二支を示す置物

その二つがそろったとき、藤臣から葵への逢瀬のお誘いである

葵の予想が外れていなければ

桜の香りととりの模様

桜の咲く場所で酉の刻、むっつの時、つまり現在でいう18時頃

11月の寒空に桜の咲く場所なんて葵は一か所しか知らない


神社の鳥居の奥で、藤臣がわらわを待っていてくれるやもしれぬ

そう思っただけで喜びがあふれ、身体が震えた


もしかしたら違うかもしれない。そうだ、香りと模様なんて、ただの偶然でしかないかもしれない

けれど、希望が一縷でもあるのであれば

わらわはそれにかけてみたいのだ

失うものなど、もう何も無いのだから

たとえ思い過ごしで終わったとしても良いではないか

期待が絶望に変わろうと良いではないか

またいちからやり直せばいい

思い出だけを胸に抱いて歩けばいい

だから、今日は、今日だけは、期待を抱いて走っていきたい


「柊哉、頼みがある。今日の18時に、西園寺の神社に行きたい。」





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