藤臣の本名
桔梗が一枚の札を持って返ってきた
札を持つ手は震え、牡丹様に渡すかどうか迷うそぶりを見せたがすぐに強くひったくられて、札は牡丹様の手中に収まった
「見えるかしら、藤臣。これはあなたの札。わたしはあなたの肉体も精神も支配して使役することができる。さぁて、愛しい恋人をあなたの手で捕まえてもらおうかしらね。」
牡丹様の手に握られていた白い紙にはいくつか、のたくった模様が描かれ、左の端に小さく『藤臣』と記されている
牡丹様は狂気に満ち満ちた笑みでなにか札に書き足す
桔梗はその隣で顔の色を失い、泣き出しそうな目で牡丹様の様子を見ている
「やめて、先生は、私の恩人なの。」
桔梗は牡丹様の薄紅色の着物の袖を少し引いたが、虫でも払いのけるかのようにそれを払った
椿も牡丹様の狂気を見て思わず母を止めるべく駆けだしていこうとするのを、藤臣が静止して首を振った
やがて牡丹様の手が止まる
全てを書き終えた札を身体の前に突き出して藤臣に見せる
「さぁ藤臣、それを捕らえて連れてきなさい。」
さきほどの鬼のように身体が小さく痙攣し、自分の意思を持たぬまま動く人形となり果てる
そう思って、葵は身をこわばらせたが
藤臣の身体はいくら待ってもびくともしない
かわりに牡丹様に焦りの色がうかがえた
「な、どういうことなの。桔梗、あなた、なにをしたの⁉」
問いかけられた桔梗は「なにも知らない」と必死に首を振る
「どうして、どこも間違っていないはず・・・」
牡丹様は何度も模様や札を確認するが異常な点が見つからないのか、さらに焦る色は濃く深まっていく
藤臣はほっと安堵したように息をつく
「間違っているのは札ではありませんよ。」
と告げた
「どういう意味よ。」
「わたしの名前は藤臣ではありません。」
その場にいた葵を除く誰もが、「え!」と驚きの声を上げる
「俗称と申しまして、藤臣という名で呼ばれてはおりますが正確にはもっと長い名がございます。」
牡丹様の目は大きく見開かれ、手はわなわなと震えている
「それではあなた今まで囚われたふりをしていたと?」
「えぇ、そうです。すべては葵に会うために。利用されるふりをして利用しておりました。」
言葉を失っている牡丹様と、余裕ある笑みを浮かべる藤臣の間に
桜の花びらと、灰の粉塵が混ざりあって春風に吹かれ舞っている
藤臣は葵をちらりと見て
「知ってたの?わたしの本名。」
「うん、たまに藤臣に宛てた
葵はふんっと鼻をならし憎らし気に語った
藤臣は牡丹様へ視線を投げる
「そういうわけですので、あなたにわたしは使役できません。」
牡丹様は顔を
「半妖の分際で小賢しいことを!」
呪符は空に舞って紙吹雪となり、紙の
刃は薄く細いのに
さらに札を出して、後退していた鬼たちを叩き起こさんと筆を構え何かを書き連ねる
宙に舞っていた短刀の刃がすべて葵のほうへ向いて、今か今かと出陣に向けて
葵は刃に対抗すべく、さっと左手を揚げて反撃の準備にかかった
「いくら技を尽くそうと、わらわが灰に変えるだけのこと。」
牡丹様が「ゆけ!」というのが早いか
葵の左手の降りるのが早いか
短刀は桜並木を滑り葵たちのほうへ近づく。
星の流れるように早く
刃の部分がずんずんと長く太くなり、青白い炎をあげて、轟音と共に空気を斬っていく
葵の赤黒い液体もそれに対抗すべく速度を上げて飛び、黒い水泡となって飛沫する
やがて刃と黒の水泡がぶち当たり、桜並木が根からひっくり返るのではないかと思えるほどの爆発音と振動が響いた
空気を伝う衝撃波は桜の世界すべてを巻き込んで爆音を響かせ地面を揺らす
藤臣は緑の
粉塵で視界が遮られ、砂ぼこりで一様にせき込んだが体への衝撃は想定していたよりも少ない
粉塵が晴れると、相まみえた相手の姿があらわになったがあちらもとっさに結界を張ったようで、ある一線を境に衝撃の跡は見られず、刺傷を負った様子はなかった
葵はもう一度牡丹様へ向けて左手をかざした
ギラリと光る眼差しは
牡丹様も俊敏な動きでそれに対応し、新しい呪符を空へ投げて呪文を唱えた
不毛な戦いはどこまで続くのだろうか
鋭利な
常軌を逸した異能と異能のぶつかり合いと猛烈な殺気
ぴんと張り詰めた緊張感に誰もが黙って戦いを見守るしかなかった
そんなとき
桔梗の後ろの家の扉が開いた
慌てた様子でそこに駆け込んできたのは着物姿のひとりの男性
「牡丹ちゃん。もう、やめよう。」
男性らしい筋肉質な手足に紺色の着物を着ている
短い黒髪にほりの深い整った顔立ちで鋭い目つきと太い眉がきりっとした印象を与える
歳は20代後半くらいだろうか、年頃の少女を思わせる牡丹様よりも少し大人びて見える
「僕はもう十分すぎるほど君と生きた。妖怪の妖気で僕を延命させるのはもうよさないか。」
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