月からの遣い(普通の生活が普通なのって素晴らしいね)

おしろいを塗った白い顔にセンターで分けられた長い黒髪、垂れた眉と細い瞳、真っ赤なおちょぼ口

着ている着物の色こそ違えど3人が3人とも同じような背格好で同じような顔をしている


「姫様。お迎えが大変遅くなり申し訳ございませんでした。」

中央にいた緋色ひいろの着物の女官が首を垂れ、続けて両隣の女官も深々と頭を下げた


「さぁ、月へ帰りましょう。姫様のご帰還を皆が待ちわびておりまする。」

右隣にいた若草色わかくさいろの着物の女官が首を垂れた姿勢のまま告げた


「この籠にお乗りくださいませ。われらが責をもって姫様を送り届けまする。」

左隣にいた翡翠色ひすいいろの着物をきた女官がそういうと3人はさらに深く頭を下げた。


開いた口がふさがらないとはこのことだ

目の前で起こってる出来事が何なのか理解できぬまま沈黙が続いた


迎えとはなんだ。月へ帰るとは、どういうことだ。

わらわは何者であるのかわからぬままに過ごしてきた。答えがこれだというのか。

藤臣の申した花の妖精ではなかったということか


けれどどんなに記憶を掘り起こしても月からきたという過去は掘り起こせそうにない

かといって、同じようなサイズの者が急に目の前に現れたのだ

妖怪といわれたときはすぐに違うと突っぱねられたのに今はどうだ、人違いだと叫べそうにない

今まで出会うことのなかったわらわと同じ容姿を持つ者たちがそれを証明している


窓の外から響いた地響きのごとし大きな衝撃音に驚き、目を覚ました柊哉しゅうやは強い光りに目を細めながらゆっくりとあおいの元へ近づいてきた


「葵、知り合い?」

葵は首を横に振った

「わらわの知り合いは柊哉しゅうや以外に藤臣ふじおみただひとりである。」


あぁそういえば西園寺の双子もわらわのことを可視化できるのであったな。忘れておった。

「じゃあ、この人たちは・・・。」


緋色の着物女官が再び声を上げた


「姫様は月下の世にこられたおり、天上の記憶を失くされているのでございます。」


女官の言葉を聞いて、藤臣と出会う少し前、向日葵ひまわりの花の揺れているのをじいっと見て過ごしていたより以前の記憶がすっかり抜けているのにも合点がいった。


つぎに若草色の着物の女官が口を開く

「籠に乗り、月へ帰られる間に失くされた記憶はすべて姫様に返させていただく手筈となっておりますのでご心配には及びません。」


女官は籠への道を開けるようにしてわらわの通れるくらいの幅を開けて向かい合わせとなって座り直し再び頭を下げた


けれどわらわの足は一ミリも動かない


翡翠色の女官が困惑し

「姫様。姫君の父上様も母上様も含め皆が姫様の帰りを待っているのですよ。」

と背中を押す一言を添えた


「ここでの思い出は、どうなる。」

来ぬ人を待つより、待ってくれている人のもとへ帰るほうが良いのではないのかとわらわの心は月に傾いて、揺らいでいる


女官は顔を見合わせた


緋色の着物の女官が

「申し訳ございません。わたくしどもではわかりかねます。」

続けて若草色の着物の女官が続けた


「月下での辛い出来事は忘れ、天上で私たちと良き思い出を作りましょう。」

女官はわらわを前向きに天上へ連れていくために言ったのだろう


けれど、葵には『忘れる』という言葉が引っかかった


「忘れるのは、嫌だ。忘れたら、わらわは葵では無くなってしまう。藤臣からもらった名前も言葉もここでの暮らしも感情も喜びも暖かさも、もちろん苦しさも、わらわは大切に持っていきたいのだ。」


藤臣と一緒にいた証は葵の色だよと与えてくれた向日葵色ひまわりいろの着物が一着いっちゃく

あとは胸に刻んだ思い出だけである


詠んでもらったふみもすいてもらったくしも、すべて灰にしてしまったのだ。この手で。

あの日、なかなか帰って来ないのを不安に思って着の身着のまま藤臣を探して飛んで行ったから何も持って出なかったのをわらわは今になって深く悔やんでいる


女官は顔を見合わせた

翡翠色の着物の女官が尋ねる

「記憶を持たれたまま天上へ上がられることを希望されているということでございますね。」

葵はうなずいた

「急ぎ、確認をとらせます。」


緋色の着物の女官は明るい声で

「月下でのことを思い出す暇もないほど天上には楽しい日々が待っておりますよ。」

おしろいを塗りたくった恐ろしほど美白効果の高い顔がほほえみを浮かべた


楽しい・・・か。


話し相手にも恵まれ、遊び相手にも困らず、家族に囲まれて、笑い合える日々

それはたとえ藤臣とであっても叶えられない『普通の生活』が手に入る


わらわはずっと望んでいたではないか

今さらなにを悩むことがあるというのだ

綺麗な思い出だけを抱えて天上へ上がればいい

来ぬ人をただ待つだけの日々はうんざりなのではなかったか


唇を噛んだまま、しばらく思案したがついに「いく」のたった二文字が言い出せなかった


「そちらへ行くかどうか、考える時間をもらいたい。」


3人の女官は息をのんで、次々に葵をを月へ帰す口上を述べたがついに葵が首を縦に振らなかったため次の満月の日にまた来ると言い残し金の籠に乗って月へ帰っていった。


落ちそうなほど大きかった満月はいつの間にか空の真上に上がり、存在感の半分くらいを宇宙に返したらしい


「よかったの?帰らなくて。」

最後まで付き合ってくれた上、体冷えたんじゃないとマシュマロ入りの暖かいココアまで用意してくれた柊哉は葵のうなだれた背中をさすりながら優しく問いかけた


「わからぬ。わらわはこのまま藤臣を待っていたいのか、本当の家族のいる月に帰りたいのか。自分でもわからぬのだ。」

ゆっくり口に運んだ、チョコレートをまんま溶かして飲んでるんじゃないかというほど激甘のココアが胃にしみていく


「まぁ、次の満月まで一カ月ぐらいあるんだし、ゆっくり考えたら?それでも答えが出なかったらまた出直してもらえばいいんじゃないの?」

「う・・ん。」


「俺寝るよー。葵も早く寝ないと明日起きれないよ。あぁ、でも今後ろのほうの端の席だからワンチャン授業中爆睡できるか・・・」

柊哉はすぐに寝息を立てだした


葵は激甘ココアに浮かんだ白いマシュマロが全部溶けてしまってからもしばらく寝付けなくて白んでいく空を眺めて夜を明かした






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