ふさわしい人

ぼたぼたと涙を流しながら謝る葵に藤臣はつづけた


「本当だよ。怒ってなんてない、恨んでなんてない。だったら葵を1000年もまったりしない。わたしはもう一度葵に会いたくて、謝るのならわたしのほうだよ、こんなに長い間待たせてしまった。寂しい思いをさせてしまった。あのときも、今も葵の涙を止められずにいるね。わたしはもう葵の恋人にふさわしくないのかもしれない。」


藤臣がわらわの恋人にふさわしくない。


それは違う

断じて違う

葵は首を振った


「違う。わらわは本当に幸せで楽しかったのだ。いっぱい話をして、いろんなことを教えてもらった。ありがとう。わらわは藤臣のことを心の底から愛しておった。」


もっと怒られるかと思っていた

お前のせいであんなことに、って責められると思っておったのだ

叱咤され、誹謗され、嫌われるのみだと覚悟してここへ来たのに

だけど、藤臣は、ほんとうに優しいのだな。わらわに甘すぎるのだ。


枷になっていた藤臣への心苦しさを伝えられ、葵は清々しい気持ちで顔を上げた

謝罪も、感謝も伝えた

だから、思い残すものはもう無いのだ

これで終わり。藤臣への想いはこれで終わりにする。


「じゃあな、藤臣。藤臣が元気そうでなによりである。達者で暮らすが良い。」


葵は自分の気持ちを振り払うようにして言うと藤臣の前から離れようと一歩足を引いた


だめだ。この先を言ってしまったら、前と同じになってしまう。

また困らせて、また傷つけてしまう


最後にもらった感触とぬくもりは忘れないように抱いて居よう

ずっと美しい思い出と一緒に、藤臣の幸せを祈って生きていこう

葵は向日葵の花なのだ。ずっと太陽のほうを向いて咲いている大きくて立派で気丈な花なのだ

わらわを葵と名付けてくれた

藤臣への感謝を込めてこの名前にふさわしい人になろう


笑顔で、と思って藤臣の顔を見た

悲嘆にくれた美しい顔は涙で濡れて、はらりはらりと舞い落ちる桜の花びらが肩に積もる

藤臣の涙を見て葵の足はすくんだ

そんなふうに泣くのを見たことが無かった

とめどなく流れるしずくをぬぐうこともせず、呆然とわらわを見て言葉を失くしている

まるでそこだけ時が止まったみたいに

涙と桜の花びらだけが静かに落ちて藍色の着物に積もっていく


藤臣は大粒の涙とともに訴える

「本当にお別れ?わたしのことはもう、愛していない?」

せっかく自分の気持ちに蓋を閉めて、今はあふれ出ないようにと鍵までかけたというのに

そんな風に聞かれたら、揺れて開いてしまうではないか


「愛して、いない・・・わけがないであろう。」


どんな嘘をつけても、その嘘だけは嫌だった

藤臣が好きだって、大好きだって言いたいのを必死に、必死に我慢してたのに

なんでそんな風に聞くんだよ


葵が絞り出すような声でつぶやくのを藤臣は拾って、その瞳に歓喜の色が宿った


「だったら、もう一度。わたしの恋人に、」


葵は藤臣が最後まで言い切らないうちに叫んだ

「ならん!絶対にならん!わらわは藤臣に幸せになってほしいのだ。わらわなんかよりふさわしいものがたくさんおろう。わらわが傍にいては、また、藤臣を傷つけてしまうではないか。」


それだけは絶対にだめなのだ

この世で一番好きな人には、この世で一番幸せになってほしいのだ

そのためにわらわがどれだけ悲しもうと、寂しかろうと、苦しかろうと、かまわないのだ


「なにそれ、ふさわしいって。わたしの幸せは、わたしが決める。わたしにふさわしいものも、わたしが決める。」


藤臣が後退っていた葵をもう一度抱きしめた

硬く強く、もう二度と離さないと心に決めて

葵は藤臣の胸を押し返したがびくともしなかった

あたたかくて安心できる場所

葵が一番欲しい場所

藤臣の甘い花のような香りとぬくもりが気持ちよくて

葵は抵抗ができなくなってそこに収まった


藤臣が葵に優しく問いかける

「葵。もう一度、わたしの恋人になってもらえますか?」


「よいのか。また苦しめるやもしれぬのだぞ。わらわはそなたに与えるものを何も持ち合わせておらぬ、むしろ奪うばかりで壊すばかりで、幸せになどしてやれぬのだ。」

藤臣は、葵の深い青の瞳をまっすぐ見て、朗らかにほほえみゆっくりとうなずいた


帰ってきていいのだろうかこの特等席に

わらわばかり幸せになって良いのだろうか

ほんの少し疑念が湧いたが、包みこんだ腕を振り払うことができなかった

あまりにも気持ちがよくて、幸せで、ずっと抱きしめてもらいたいと思ってしまった


藤臣の胸に体を預けそっと背中に手を回す

「ずっとこうして欲しいと願っておった」

藤臣のからだがふっと熱くなった

葵を抱く腕にさらに力がこもって苦しい

でもそれでさえ心地よかった

このまま息が詰まってしまっても良いと思えるほどである


「わたしもだよ。好きだよ。愛してるよ、葵。」

桜とともに藤臣の愛情が葵に舞い降りる

ふたりの身体のまわりを桜吹雪が歓迎するように吹いてひらひらと回っている

春のあたたかな陽気とやさしい日差しがさらに身体を熱くさせた


「うん。わらわもである。」

久々の直接的な言葉に照れくさくなって藤臣の胸に顔を埋めた

「うん?なんて?」

聞こえていたはずなのに聞き返される


あぁそうだった

ちゃんと言わないと嫌なんだったと、ほんの少し昔の記憶を取り戻す


「わらわも藤臣をこの世で一番愛しておる。」

見上げた恋人の頬にはもう涙は流れておらず、代わりにほんのりと赤みがさしてにこりと笑った

長いまつ毛をなみだがまだ濡らしているのを陽の光が照らす


葵の言葉をゆっくりと噛みしめた藤臣は、女神のような優し気な笑みを浮かべる

幸せそうに葵を胸の中に抱いてゆっくり背中や頭を撫でた


ずっとわらわが探していたぬくもりとやさしさ

思い出だけで十分だなんて、さっきまで思っていたのに

もう離れたくなくなってしまっている

頑丈に絡められた腕はなかなか葵を放そうとせず、葵もまたそれにいつまでも答えていた


藤臣の鼓動がとくんとくんと打っているのを感じながら葵はひとつお願いをする


「なぁ、藤臣、頼みがあるのだが。」

「なに?」

「最後におはようの口づけをもらいそこなったのを、わらわはすごく悔やんでおっての。それで、その、んっ・・」


言い終わらないうちに藤臣は葵の肩に乗せていた顔をふいっと上げて、手で頬をなでると顎を引き上げて唇を寄せる

吸い寄せられる薄い唇

柔らかくてあたたかい触感に葵の胸はきゅんっと跳ねた


ふんわりととろけるような感覚に溺れていく

頭の中は藤臣のことでいっぱいであとはもう何もいらない

このまんまもっとわらわを知ってほしい

もっと見て、もっと触れて、甘い蜜で濡らしてくれたら


やがてゆっくり顔を離すとじぃっと葵の目を見た

「しょっぱい。」

そう言う藤臣の唇はまだ涙で乾いていなかった葵の唇に触れたため濡れている

藤臣は葵の涙を味わうように舌でぬぐい、にやりと笑った


まるで昨日もそうやって笑い合っていたかのように、柔らかい空気が二人の中を漂っている


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