帰るところ(幸せとは、何か)

柊哉しゅうやに手を振ったおあいは黄金の籠へ向き直り端に手をかけた


白く強く放たれる光の中へ足を踏み入れる

もう振り返ることはしない

想いはきちんと書き残してきたんだ


たくさんの「ありがとう」と「ごめんなさい」を紙にしたためて柊哉へ託してきた

後悔がないかと言われれば、否と答えるだろう

けれど、わらわにできることはもうそれくらいしか見つからない

たくさんの思い出と幸せとぬくもりを抱えて今度はあちらでよい日々を送りたい

そう思いながら籠にかけた手に力を込めた


「さぁ、お早く。」

若草色の着物の女官は籠の中から葵を引っ張り上げようと腕を優しくつかんで引き上げた


「新郎様があちらでお待ちでございます。天上の地へ着きましたらすぐに婚儀の準備をはじめましょう。」


しんろう?

葵はは耳を疑った


「今、なんと?」

「隣国の王太子様がお嬢様へご求婚の意を示されております。新郎様はお家柄も良く、我が国の繁栄にもご尽力くださることでしょう。」


婚儀?求婚?

葵の足はぴたと止まり、その場に棒立ちになったまま言葉の意味をゆっくりと考える


「結婚する、ということか。会ったこともない、その隣国の王太子やらを、愛し、共に生きよと。」


「ええ、きっとお嬢様のことを大切にしてくださいますよ。王太子様は寛容な心を持ち非常に知慮深く、剣技に長けたお方だと聞き及んでおります。」

翡翠色の着物の女官はそれがさも幸せなことのように語り、優しくほほえむ


思考にぼんやりともやがかかったように言葉の意味が理解できない

しかし、考えるよりも先に言葉がついて出た


「いやだ。」

葵はは手を引いていた翡翠色の着物の女官の手を押し返す


「結婚などしない。わらわが藤臣ふじおみ以外を愛することなど、ありえない。」


大きくかぶりをふり、すくんで止まっていた足は今度は勢いよく後ろへ下がりだす

一歩、二歩と後ずさる足はやがて速くなり、そして大きくかぶりを振った


「嫌だ。絶対嫌だ。婚儀を行うなどと一言も言わなかったではないか。それならばわらわは行かない。心に決めた人は、触れてほしい人は、愛してほしい人は、この世にひとりしかいない。」


頭に乗せられた冠を投げ捨て、羽織ものを乱暴にはぎ取った

「こんなものいらぬ!何もいらぬ。もう来るな。わらわの帰るところは、会ったこともない王太子のもとではない。」


「お嬢様・・・」

女官たちは言葉を失ない、おろおろ目を泳がせた


「お考え直しくださいませ。天上での生活は、豪華で美しいものばかりでございます。おいしいお料理に、何不自由ない生活、麗しくあなたを愛してくださる王太子様、どうして月下を選ぶことがございましょう。さぁ、お嬢様、寂しいのはほんの少しの間だけでございます。輝かしい毎日に埋もれ辛い日々を思い出す時間など無くなりますよ。」


葵は強く、めまいを起こしそうなほど首を横に振って嫌悪を示す

緋色の着物をきた女官が葵の投げ捨てた羽織と冠を拾ってまた肩にかけようとしたのを強い力で振り払った


「いらぬと申した。これを着ているのを見てほしい人は王太子様ではない。わらわには心に決めた人がおるのだ。たとえもう会えなくても、たとえもう話せなくても、その人のことを想っているだけで幸せで嬉しいのだ。」


「そんな・・・。」

説得はできないと判断した女官たちは今度は葵の手を掴み、背中を押した

無理やりにでもどうしても向こうへ連れていきたいらしい


「やめろ、嫌だ。嫌だと申しておる。わらわは藤臣以外を愛したりしない。」


抵抗はむなしく3人の女官によって葵の身体はどんどん籠のほうへ引き寄せられていく

籠の中のまばゆい光が近づき思わず目を細める

大きな光の渦は葵の身体を包みこんで天上の世界へ誘っている

光りは強さとは対照的に優しく温かく抱きしめるほうに引き込んでいく

葵の身体は浮遊感に襲われ手足の自由を失くした

自らの力で飛んでいるのではなく、浮かされて手のひらの上で転がるように舞っている


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る