月への帰還(月下の世は辛く苦しいところでしょう)
星の散らばる夜空に大きなまん丸の月が上がってからもうずいぶん時が経ち、それでも部屋の明かりや
「手土産は?」
「持った。」
「御守りは?」
「持った。」
「荷物それだけ?」
「うむ。」
「忘れ物ない?」
「ない。」
「寒いから一旦中はいれば?」
「うむ。そうしようかの。」
緊張と心細さで葵の口数は少ない
「これは、
葵は封筒に入った手紙を2つ柊哉に差しだして託した
「ありがとう。会えたら渡しておくね。」
「わらわが行ってしまったら開けるのだぞ。」
「藤臣さんが見つかったら、こっちに帰ってくればいいじゃん。」
「うん。」
帰ってくる、か。そんなこと考えてもみなかった
「ちゃんとベットとか残しとくし。」
柊哉が指さすのは人形用の小さなベットだ
はじめはあの段差のある布団に慣れず何度も転げ落ちて身体を打ったものだが、最近はなんとか
「あー、えっと、ココアでも入れようか?それともコンビニでスイーツでも買ってこようか?」
さっきケーキ屋さんの美味しいケーキを3ホールも食べさせてくれたというのになんという姫待遇だ
「いい。どこにも行かないで、傍にいてほしい。」
「そん・・・そんなこと言われたらさぁ、泣いちゃうじゃんか、もう。」
柊哉が服の袖で涙をぬぐおうとした時だった
割れんばかりの衝撃音が窓に響く
葵も柊哉も思わず身をすくまし、小さくなった
以前も見た黄金に輝く
ぱかっと中央から割れた籠から転がるように飛び出した女官が打ったのであろう頭や体をさすりながらやがて一列に並んで正座をし三つ指をついて首を垂れた
「お迎えに参りました。お嬢様。」
声をそろえ頭を下げた姿勢のままぴくりとも動かない
しばしの沈黙・・・
しかし女官はピクリとも動かない
「や・・しんだ、か?」
あまりにも動きが無いのでおそるおそる声をかけた
「しんでおりません。お嬢様。お
「さぁ、こちらへ。足元お気をつけくださいませ。」
握った女官の手は意外にも暖かく、またわらわを見る瞳も柔らかく、気張っていた心が少し和んだ
「こちらは、お嬢様のお荷物でございましょうか。」
「焼き菓子とチョコレートだ。美味であるぞ。月の皆でと思ってな。」
女官は顔を見合わせて、眉尻を下げた
「お心遣い大変ありがたく、しかし私たちは月下の世のものなど口にできません。」
若草色の着物の女官は申し訳なさげにそう言った
「そうか、持って行けぬのか。では、仕方ない。柊哉、友達と食べてくれ。」
「そうだね、そうさせてもらうよ。」
「そちらは、」
緋色の着物の女官が葵の抱える『健康促進御守り』を見た
「これは大事なものなのだ。絶対に手放せぬ。」
葵は御守りを硬く抱きしめて抗議する
「そう、ですか。お嬢様がそういうのであればひとつくらいは良いでしょう。ではこちらを。」
女官は白い
それを合図にほかの二人の女官の手にもそれぞれ、
どれもプリズムのように七色の艶やかな光をまとわせそれ自体が淡い光を放っているように見える
はじめ白く見えたそれは角度によって透けており秋の風に揺れて煌めく
あ、というまに羽織を着せられ、靴を履かされ、頭の上に冠が乗った
「本当にお姫様みたいだな。」
柊哉が葵の姿を見てつぶやいた
いままで数々のフィギュアコスチュームを柊哉の趣味によって着せ替えられてきたがロリータともドレスともいいようのない透明な色彩の衣装は初めてだ
「ウエディングドレスみたいで可愛いよ。」
傍で見たいた柊哉が言った
ウエディングドレスか。本当は、藤臣と着たかったのだがな。
振り切ったはずの寂しさがまたむせかえる
「ではな、柊哉。短い間ではあったが本当に世話になった。」
「いやいや、お礼を言うのはこっちのほうだよ。葵といられてすごい楽しかったし。ありがとう。」
「うむ。わらわも、楽し・・かった。せっかく笑顔でさよならしようと思って気を張っておったのにの。」
葵の目から涙があふれる
それを見て柊哉の目からも涙がこぼれ月光がしずくを照らした
「ではお嬢様、そろそろ。」
緋色の着物の女性が声をかけ、葵の手を引いていく
「うむ。」
後ろを振り返ることなく黄金色に光る籠へ一歩、一歩近づいて行った
光の漏れる籠の中の様子は確認できない
これに乗ってしまったらもう戻ってこれぬのだろうか
言いたいことは、藤臣への「ごめんなさい」は手紙にしたためてきたが本当は直接顔を見て言いたかった
「そうだ、思い出は。わらわの思い出はどうなる。」
女官を仰ぎ見て問いただす
「ご心配には及びません。お望みであればそのままにと、陛下からのお言葉でございます。」
「そうか、では、問題ないな。」
「はい。さぁ、こちらへ。」
先に籠の中に入った若草色着物の女官が手を差し出して待っている
「そうだ、こちらと連絡はとれぬのか。柊哉は大切な友人なのだ、月へ行っても連絡のひとつくらいはしたい。」
「まぁ、そういうことでしたらこちらを。」
緋色の着物の女官が袖から何かを持ち出して、葵と、そして柊哉の手に置いた
「通信用の鈴でございます。なにかご連絡の際は鳴らしていただければ双方にご連絡がつく代物でございます。」
小さな鈴は丸くころんと手の中に転がりながら
「当初、お嬢様が
そんなもの、わらわは持っていなかったと思うが、どこかで落としたのだろうか
「葵が堕とされたってどういうこと?」
柊哉が女官に問うた
「お嬢様は覚えておられないのですか。」
驚いた声を上げる女官に葵は静かに首を振った
「お嬢様はかねてより、
最後まで言いにくいのか女官の言葉は尻すぼみになった
「葵、俺のテスト勉強馬鹿にできないじゃん。」
柊哉はにやりと笑う
「うるさいな。」
葵は頬をぷくっと膨らませた
「本当はすぐにお迎えにあがるはずだったのでございます。陛下もすぐに嫌気がさして帰ってくるだろうと。」
緋色の着物を着た女官は申し訳なさげに肩を落とした
「しかし、長らくこんなところでご不便な毎日を送られることとなってしまい。私共はお嬢様になんと申し上げたら良いか。しかし、少し見ない間にこんなに立派になられて。お綺麗でございます。お嬢様。」
翡翠色の着物の女官が明るい声で言った
「さぁさぁ、お早く、皆さまお嬢様のお帰りを心から歓迎し、お待ち申し上げておられますよ。」
若草色の女官が金の籠から顔を出して、葵をせかした
めいいっぱい伸ばされた腕が葵を掴まんとして宙を仰いでいる
葵は後ろ髪をひかれながらも重い足を籠へ急がせた
「月下の世はいかがでございましたか?苦しく、辛いことの多い世でございましたでしょう。」
翡翠色の着物の女官が葵の手をひきながら尋ねた
「そう、だな。でも、楽しいことも、幸せなことも、たくさんあったぞ。」
最後にもう一度、柊哉を振り返って手を振る
「ありがとう。また、連絡する。」
「うん、俺も。」
柊哉は手に鈴を持ちそれを振ってこたえた
葵の持つ鈴は柊哉の鈴と同調するようにして
小さな鈴の音が夜風に散って消えていく
葵は少しだけ後ろを振り返って右手を左右に振った
「ばいばい。」
葵は柊哉が友達とお別れするときによく使う言葉をまねて言ってみる
「ばいばい。」
柊哉は涙でくぐもった声でそれを返した
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