桔梗の先生(本当をさらせる人がいると気持ちは軽くなるね)
誰もいない長い廊下は、年中春の陽気に包まれた空間だというのに寒々しい
純日本風の木目調の廊下にぴしっと閉められたふすまの部屋がいくつか並んでいる
ここには両親と双子の
幼いころに西園寺家特有の能力が私にはほとんどないと分かった時から母の態度が一変し、それに倣って妖怪たちも私を敬遠するようになった。というか私となれなれしくすれば母の機嫌が悪くなるのだから、西園寺家に使えている以上仕方のないことなのかもしれない。
今日も誰と出会うこともなく、一直線に桔梗の部屋に向かいのふすまを開けた
「ただいま、桔梗。」
「おかえり。椿。」
やわらかく笑う桔梗の顔はいつにも増して血色がよく調子が良さそうだ
白地に桔梗の花の柄のついた浴衣を着た桔梗は、布団から起き上がり座った状態で私を迎えた
「食べたいって言ってたドーナツ。もらったんだ。」
「もらった?誰に?」
「
「ふうん。彼氏?」
「ち、違うよ!クラスメイトだよ。お友達。」
私は手を振って否定した
「椿のこと好きだったりして。」
「そんなこと、、ないよ。」
「あー!ほらぁ、すぐに否定しなかったもん。絶対そうだー。うわぁ、これから恋バナ楽しみだなぁ。」
桔梗が布団のなかの足をぱたぱたさせてはしゃいだ
「違うってばぁ。もう、ドーナツあげないよ!」
私は口をへの字に曲げたまま、ドーナツの箱を開けて桔梗と、その周りにいた世話役の妖怪たちに差し出した
「おほほー。これじゃこれじゃ。」
いの一番に飛んできたのはこなき爺さんだ。老体風に見える体に反して素早い動きでドーナツに手を伸ばす
「あずき・・・あずきの。」
箱に顔を突っ込まんばかりに除きこんであんドーナツを探す小豆洗い。
河童や九尾の狐まで加わり、まるで正月のデパートの福袋売り場のような戦場と化している。
「私も早く取らなきゃ無くなっちゃう。」
慌てて戦場に加わろうとする桔梗を往診に来ていた治癒術師の先生が妖怪たちを制止させる
「こらこら、もらってきた椿が先でしょう。」
藍色の着物から伸びる指先は細くて長い
白い肌に、すっきりとした輪郭
人間のそれよりも少しとがった印象のある耳と切れ長な瞳
腰まで伸びる長いストレートの髪は薄い紫色で浮世離れした雰囲気を醸し出している
一見女性に見える細身の骨格だが、声は女性のものよりイチオクターブ低い
「あ、先生。来てくれてたの。」
「今日は順調に回復しているようだから、そろそろ帰ろうかなと思ってたところだよ。」
回復や治癒を得意呪術とする先生は、呪術の能力の高さを評価して両親が桔梗の治療にと雇った専属の医者のようなものだ
定期的にここにきて桔梗に治療を施したり、何かあった時にもすぐに駆けつけて看てくれる。昔から世話になっている妖怪のひとりといっていい
妖怪とはいっても彼の容姿は人間と非常に酷使していて、以前それを指摘きたときに「わたしは半妖だからね」と言っていた
「先生もいっこ食べて行ったら?」
私はドーナツを差し出した
「じゃあ、ひとついただこうかな。」
先生はにこりと笑って箱に手を伸ばしドーナツをひとつつまみあげた
「いただきます。」
手を合わせてから口に運ぶ様子はまさに人間そのもので、とても妖怪だとは思えない。
ひとつめの箱のドーナツが全部無くなり、略奪戦争に負けた妖怪たちが悲しそうに肩を落とした
「まだもうひと箱あるよ。」
私がもうひとつ箱を開けると再度箱の周りは戦場と化す
そのとき、2つ目のドーナツの箱に乗せて持って帰ってきた梅の折り紙が畳の床に落ちて、戦場の喧騒に押され転がった折り紙は先生の傍で止まった
先生はそれを拾い上げて驚いたように目を見開いた
「これは?」
「あぁ、なんか、もらった。」
御守りの代金の千円をしっかり家の代金箱に入れてきて、これを捨ててくるのを忘れてしまった
負け戦を強いられた相手からもらったものなんていらないと思ってたのに、どうでもよすぎてすっかり大事に運んできてしまったというわけだ
「御守り作ってる人にあげといて、だって。だから、まぁ、先生のだよ。」
あの健康促進御守りには先生の治癒呪術が付された呪符が入っている
大変効き目があるという噂も、神様や信仰のおかげなのではなく単純に先生の呪力によるものだということだ
「本当に、その人は『御守りを作っている人に』と言った?」
「あー、うん。なんかそんな感じのニュアンス的な。正確に一言一句何だったかはちょっと覚えてない。」
「そっか。もらっとくよ。嬉しいね、自分のしたことに返事がくるのって。」
先生は着物の袖の中に梅の折り紙を仕舞い、帰るよと言って早々に立ち上がる
「ごちそうさま。じゃあまたくるね。」
先生は桔梗と私に手を振って部屋を出た
先生が座っていた桔梗の布団の傍らに上着が置かれたままなことに気が付いた桔梗が声を上げた
「あ、先生。上着忘れてる。」
「ほんとだ。どうしよ。まだ走ったら間に合うかな。」
先生が部屋を出て行ったのは今さっきだ。そう遠くには行ってないと思う
もう妖界に帰ってしまっていたら間に合わないけど、まだ桜並木にいたら届けられるかもしれない
「ちょっと、行ってくる。」
私は上着を片手に部屋を飛び出し、玄関を開けた
先生はもう妖界の入り口近くに行ってしまってはいるが、妖艶な薄紫色の髪が特徴的で桜吹雪が舞っているなかでもオーラを放っているようにしっかりと確認できる
「先生!忘れ物!」
精一杯声を張ったつもりだが先生は一瞥もくれず、妖界のほうへ歩いて行ってしまう
私は走り寄りながら大きな声で先生を呼んだ
「先生!待ってー!
自身の名前に反応した先生はこちらを振り向いて私が先生の上着を持っているのに気が付いたらしい
「わざわざ持ってきてくれたの。ごめんね。ありがとう。」
先生は私にも優しい
桔梗の部屋の中以外なら私と話すことを敬遠する妖怪も多いのに先生はずっと私にも桔梗にも変わらない態度で接してくれる
私があの環境の中でなんとかやってこれているのも先生の心の支えがあるからだと思う
「あのね、先生。聞きたいことがあって。」
「なに?椿もどっか痛い?」
先生が急に真剣な目つきに変わったから、私は慌てて首を振った
「違うの、あのね。」
「また、こころが痛い?」
先生は、ずるい
いつも私が必死に隠してる弱いところをすぐに見つけて突いてくる
私が常に桔梗に抱いている劣等感や、最近の焦燥感を感じ取っているのだろう
このまま能力が不完全であればいいと願う心も、私のことをずっと必要としていてほしい願う心もすでにお見通しなのかもしれない
「桔梗はもうすぐ治っちゃうのかな。そしたら私、いらなくなっちゃうのかな。」
先生は細くて長い手を私の頭の上に乗せて
「桔梗の治療は順調だよ。いつ、とは明確に言えないけどね。私の治療は本人の治癒力を高める呪術だからね、治療の効果も本人の気持ちに偏るものが大きい。だけど、桔梗がいつ治っても、椿がいらなくなることなんて、ないよ。」
「そんなことない。そんなことないよ、先生。桔梗が治ったら私、いらないんだよ。」
ゆっくりと頭をなでてくれる先生の優しさが心に染みて、涙があふれた
親に何を言われようと、周りからどんな扱いを受けようと、虚勢を張って何も感じないようにして生きているのに先生の前だけではだめだ
私の言葉をちゃんと聞いてくれて、傍でなぐさめてくれて、そんなことされたら私の心の鎧はすぐに溶けて中の弱い部分があふれ出してしまう
「桔梗の治療、やめてほしいってお願いしたら、だめ?」
「それは聞いてあげられないな。」
「ん、そう、だよね。」
無理なお願いだとはわかっていたけどはっきり断られると少し辛い
「ごめん、先生。変なお願いして。私ほんとに嫌な子だよね。桔梗に治ってほしくないなんて。」
「嫌なんかじゃないよ。環境が変わるのを恐れるのは、みんな同じことだよ。」
先生は私を励ますようににっこりと笑う
「わたしは心の治療はしてあげられないけど、話は聞いてあげられるから。辛いことも嫌なことも全部吐き出してみたらどう?」
「うん、ありがとう。」
椿はぽつりぽつりと相談とも愚痴ともとれない話をし、先生はじっと相槌を打ちながら聞いてくれていた
先生と出会った時もこんな風だった
桜並木の端で泣いている私に気が付いて「どうしたの」と声をかけてくれた
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