乳歯

トーヤ

乳歯

あがりかまちに腰かけて、冷えたビールを飲んだ。

こんなに苦い飲み物だったとは、意外な驚きがある。


テレビではニュースキャスターが新しい元号を発表していた。

世界の移ろいはことのほか早い。


風はつむじを描き、花はもの柔らかに踊っている。

隣で指を吸う小さなわが子が、細く瞼を開いてそれを眺めている。

まだ生えそろわない髪の毛に、薄い風がふわふわと綿くずのように絡んでいる。


カレンダーが一枚めくれて飛んでいった。

妙子が栓抜きを探している。

わたしは自分のポケットを指で探ると、栓抜きを妙子の所へ持ってゆく。

小声で耳打ちしてそっと差し出す。

妙子は少し頬を膨らませてわたしを上目遣いににらんだ。

わたしたちは少し笑ってしまった。


春のにおいがする。薄紅色の雨のにおいが。

庭先のカレンダーを拾い上げ、新しい元号は令和になったことを

漏れ聞こえるニュースキャスターの声で知る。


わたしは庭辺で指を吸う子を抱き上げて、枝の先まで連れていってやる。

もうだいぶ葉桜になっている。

明日も変わり映えのない一日になるだろう。


わう


いきなり大きな声を出した。

親指がどっかにいってしまって、小さな口が笑っている。

花弁がもの珍しいのだろうか、とても楽しそうだ。


後ろで妙子の笑う声もする。


桜色の歯茎、そこに膨らみつつある白い乳歯を

わたしは新鮮な気持ちで眺めなおす。


明日は新しい一日になるだろう。

終わってゆく春の先に、膨らみつつある新しい時代を予感して

わたしはとてもすがすがしい気持ちになった。


すこし暑いくらいね


妙子はガラスコップに一杯の水を飲みながら、

カーディガンのボタンをはずした。


子供は水盤のような透き通った眼をして、

そのしぐさをじっと見つめていた。


普段から気にも留めないようなこと、

日常をすっかり変えてしまうようなまったく新しい出来事、


この子にはその二つは一続きの地平線で結ばれているに違いない。

ずっと昔、わたしたちがそうであったように。


そう思い返すと、新しさというものについて、

まったく別の考えが浮かび上がってくる。


それは未達の明日にはない。通り越した過去にもない。

ただ今にしかない強く生き生きとした一瞬である。


明日まで待つ必要などないのだなと、

桜色の歯茎に埋もれた乳歯を見ながら思った。


わたしは子の薄毛に絡んだ桜の花弁を指の腹でそっと払い落し、

あがりかまちに再び腰を下ろした。


口に含むビールは少しぬるくなっていた。

その甘さに意外な驚きがある。


今日は新しい一日になるだろう。


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乳歯 トーヤ @toya-ryuji

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