恋の話
大宮コウ
こいのはなし
昔、好きだった女の子がいた。
といっても、名前も知らない相手なのだけれど。
まだ幼い子供だった僕らは、互いに名前を知らないままに仲良くなって、公園で会うたびに遊んだ。学区が違うのか、小学校で会うことはなかった。
あるとき、二人で夏祭りに行く話になった。しかし彼女は当日、待ち合わせ場所には来なかった。それきり彼女と会うことはなかった。
そのせいか、夏が来るたびに、彼女がどこか近くにいるのではないか――と、思ってしまうのだ。
などと語ってみせれば、目の前の少女は愛らしい顔を露骨にしかめて、一言。
「先輩、きもちわるいです」
などと、呆れたようにのたまうのだ。
図書準備室。放課後の高校の片隅で、ふたりきり。俺は後輩から辛口な批評を受けていた。
「なんだよ、俺に初恋の話をしろって言いだしたのはお前だろ?」
「私は過去の恋の話をしろと言ったんですよ」
「ならいいじゃないか」
「よくありません。先輩、いまもその子のこと好きなんでしょう?」
その通りである。
しかし咎めるように言われるのは、甚だ心外だった。好きか、嫌いかで言えば当然好きだろう。嫌いになれるわけがない。
綺麗な思い出は綺麗な思い出なまま、振り返ったときに眩しく思えるのは仕方がない。
仮にそれが苦くても、後悔を孕んでいても。
「そして美少女になったその子が突然目の前に現れたら、先輩は私なんてほっぽりだしてどこかにいってしまうんです」
「ひでえ言われよう。少しは俺を信じてくれ」
「いいえ、行ってしまうのです。勘違いしないでください。別に咎めるわけではありません。私は先輩とお付き合いをしている訳でもありませんから。ただ、先輩がずるいと思うだけです」
「ずるい?」
「先輩が、誰かを好きでいられることが、です」
ずるい、だなんて思っていたのか。そんな風に驚いてしまう。驚く俺を他所に、彼女は語る。
「でも、安心してください。先輩の恋はとっくの昔に終わってるんです。その人はきっと、先輩の知らない場所で、先輩の知らない人と良い仲になっているに違いありません」
「……別にお前に言われなくても、そんなことくらい予想は付くよ。でも、もしかしたら――って考えることくらいは、いいだろう?」
「だめです」
一言、断言。
言い切ってから、全てを受け容れるような眩しい表情で、彼女は微笑む。
「先輩には、恋を諦めてほしいんです」
知ってる。
とは、わざわざ返すまい。彼女だって、知っていることを知っている。
けれども、繰り返しには意味がある。仮になくても意味ないことに意味がある。だから彼女は続けて言う。
「先輩も、恋することを諦めましょう。誰かを好きになることを諦めて、諦めて、そして妥協しましょう」
「それはまた、ひどく怠惰なお誘いだな」
「ええ、自分で運命の相手を探そうとしない先輩には、そのくらいがお似合いでしょう?」
「違いない。で、妥協したらどうなるんだ?」
「妥協したら……もしかしたら、かわいい後輩が一人、隣にいてくれるのかもしれませんね」
「そりゃ魅力的だ」
魅力的だ、という言葉に嘘はない。
初めてこいつと会ったとき、きっと誰か、付き合っている相手がいるのだろうと思った。単なる美醜だけではない。陰のある、ともいうべき雰囲気。そこに目を惹くものがあった。
紆余曲折ののち、交流を持つこととなった彼女は、あるとき俺に自身を恋愛不感症であると自称した。
俺は納得した。だからこそ、今も彼女と一緒にいる。いられる。他ならぬ俺も、形は違えど、そうであるのだから。
きっと、彼女の提案に頷くことができる自分であったのなら、もっと碌な人生を送れていたに違いない。
過去の恋にしか身を焦がせない、なんて自分でさえなければ、彼女に応えることができたのかもしれない。
「でも俺は、捨てられないよ」
「そうですか」
俺の返事を知っていたように、なんでもないみたいに彼女は言葉を返してくる。
でも俺は知っている。彼女は知っていたわけじゃないのだ。彼女は自分の思うようにいくだなんて、何一つとして期待していない。ただ、それだけのことだった。
「お前こそ、諦めるのを辞めたらどうだ? 人生、何事も挑戦だっていうだろう?」
「それはありえません。私なんかには、このくらいが丁度いいんです」
「そうか」
「そうなんです」
それきり、だ。
無理強いすることも本来はないのだ。俺たちはそういう仲ではない。互いが互いを好きになることはない。そう確信してここにいる。
ノーと互いに言い合うだけの儀式。互いにそういう目で見ていないと確認し合い、安心するだけの単なる予定調和。
それでも、一つだけ訂正したいところがあった。
「まあでも、仮に俺の昔好きだった相手が現れても、急にいなくなったりはしないよ」
「取り繕いますねえ。まあ、そういうことにしてあげます」
「そういうことにしといてくれ」
それから、とりとめのない話をして、少しご機嫌になった彼女との時間が過ぎる。
夕暮れの淡い光が差し込む。彼女が打ち明けて、俺も打ち明けたときのことを思い出す。
「もし、私が過去になったら、先輩は私のこと、好きになってしまいますか?」
打ち明けた俺に、彼女はそう聞いてきた。俺は俺であることを諦めている。彼女がどんな言葉を欲しているのか分からないが、当然「なるだろうな」としか返せない。
もう会うことのない相手には、悪い記憶には目を瞑り、好意を抱いてしまう。そんな自分に感じるのは、ある種の羞恥心。どうしようもない人間だというレッテルだった。
過去という壁ごしに夢想するだけの、非生産的極まりない人間。生まれつきこうであるから、矯正なんてしようもない。
何もかもを諦めていた俺に、天使は微笑んだ。
「だったら、私は先輩とずーっと一緒にいてあげますから。私のこと、過去になんてさせてあげませんから」
きっとその時、その言葉に、俺は救われたのだ。
だから俺は、その思い出だけで十分なのだ。
目の前にいる彼女。それを現状維持だなんて怠惰でいさせるなんて、許してはいけない。
彼女はずるいと言ったのだ。俺みたいな人間の、どうしようもない過去の恋を。
彼女は俺なんかとは違う。ただ、まだ恋をしたことがないだけだ。人を好きになることは苦くて死んでしまいそうだけど、だからこそ、それを羨む彼女には、たとえ彼女が苦しもうとそれを為せるようにしなければならない。
そうして。
やがて二人で会うこともなくなって、彼女は過去の人となって、ようやく恩を返すことができる。俺はようやく彼女を好きになることができる。
心の底から、その日が来ることが待ち遠しかった。
恋の話 大宮コウ @hane007
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