第3話 裕之丞さまのこと


おゆきさまはふきのことをなによりも大切にしていたが、いくつか、ふきを置いてけぼりにしてしまうことがあった。ひとつは越谷さまがお帰りになられた時、ひとつはお山の鐘が鳴った時、そうしてもうひとつは、山のむこうの松波国から、裕之丞さまからの文が届く時であった。そんな時ばかりは、城主の娘としてのお務めも何もかもを忘れられて、幼子のように廊下を走っていってしまうのである。

まだ不安定な足でとことこと歩いて、ふきがおゆきさまのお部屋にたどり着く頃には、おゆきさまは障子を閉めることも忘れ、豊かな黒髪も乱れたまま、文に顔を寄せて焚き込められた香の匂いを心地よさそうに嗅いでいる。月に一度、はなればなれになってしまった兄弟はこうして文を送り合い、山の暮らし、里の暮らしをこのまなこに刻んだかのように夢想するのである。

おそるおそる、障子の影から覗いていると、ふきに気付いたおゆきさまが手招きする。

「ふき、来やれ。裕之丞からの文でございますよ」

「ゆーのじょうたま?」

「そうです」

舌足らずな言葉に微笑むおゆきさまに安心して、ふきはそろそろと足を踏み出す。おゆきさまが両手に宝物のように抱く文を見下ろせど、筆で書かれた難解な文字は、ふきには退屈な絵のようにしか見えない。声に出して文を読み上げはじめたおゆきさまの腕に縋り、形の良い顎が楽しそうに動くのを、足を揺らしながら見上げた。どこか、おゆきさまの花の香りでも、山に立ち込める重い土の臭いでもない、馨しい香りは裕之丞さまが文を送るたびに焚く香によるもので、ふきがはじめに覚えた裕之丞のことと言えば、この不可思議な香りであった。

「里には美しい花々や、可憐な細工があるそうな。この文の香も町娘のあいだで流行りの品であるとか」と、羨ましげにため息を吐いて、おゆきさまはもう一度文に顔を埋めた。年頃の娘であるおゆきさまは、やはり山での質素な暮らしに比べて、裕之丞さまが育ったゆたかな国での暮らしに憧れを抱いておられている。

「おゆきさまは、いかないの?」

「わたくしと裕之丞には、それぞれお役目がございますから。わたくしは父さまの傍で父さまをお支えするのですから」

「ゆーのじょーさまは?」

「あの子の役目は、死なぬことです」

「しなぬ?」

おゆきさまはうっすらと目を細めた。その頃には、可憐であったおゆきさまのかんばせは日に日に美しくなり、彼女はついぞ知らなかったが、他の国々にいる美女と謳われる姫君にもひけを取らぬほどのあでやかに咲く花のような気品を纏っていた。

「わたくしと裕之丞を生み、母さまが死なれた時、父さまは新しい妻を娶ることを躊躇ったのでございます。あずまのお城が長く続くためには、より多くの子種を残さねばならぬところでありましたが、生き別れた妻のことをどうしても忘れられず、お家に逆らってしまったのですよ。その時、松波国の城主さまに人質を送るくだりとなりまして、はじめは父さまの母と妹君、次に家臣の妻と子など送りましたが、やはり忠臣の証には足らぬと。そうしてどちらかの子を送ろうとした時、より生きねばならぬ裕之丞を送ることに決めました。

あずまのお城は松波国を守る要衝地。あずまのお城が落ちねば松波国は落ちぬ、逆にこの城の役目とは、ただひとりになるまで戦い、盾となり、松波国をお守りすることにあるのです。ですから父上は、よりこの血を残すため、たとえ我らが死のうとも、安全な地である松波国のお城に裕之丞を置くと決めたのです。ふき、そなたに言ってもきっと分からぬことでありましょうが」

悲しみの交えた言葉を、しかしふきには当然わかるはずもない。ただおゆきさまのわずかに焼けた頬がさみしくて、思わず顔をしかめてしまった。するとその顔が滑稽でおかしかったのか、おゆきさまはちいさく声を上げて笑った。

「そなたはわたくしたちの妹じゃ。このお山で生まれた子じゃ。裕之丞への文にも、ふきのことを書かぬ時はございませぬ。いつか会いたい、いつか会いたいと繰り返し申しておる。そう。いつかそなたに手土産を持って、このお山に帰りたいと、この文にも書いてある」

細い指が文のどこかをつつ、となぞった。ふきはおゆきさまが語る裕之丞の姿を何度か思い浮かべようとした。それは強面だけれどやさしい城主さまや、いつも花のようにうつくしいおゆきさま、毎晩眠る時には必ず帰る母の傍を繰り返し重ねて、どこか、未だに喪失の悲しみすら浮かばぬ、いた記憶すらもない亡き父の姿へと行き着くのであった。

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ふき 織部いよ @sngtn22

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