大切な想いは、いつだって、

クロウ

第1話

 一之瀬舞彩いちのせまいは、陳腐な言い回しを承知の上で言うならば、極めて美しい容姿をした女である。

 ひとたびキャンパス内を歩けば、男女問わずに羨望の眼差しを向けられ。街を歩けば芸能関係者に声を掛けられ。テレビのワイドショーを賑わす芸能人たちと比べても、彼女は遜色ないどころかそれを凌駕するほどの輝きを放っていた。

 とはいえ、舞彩は決して周囲の人間に愛されてはいなかった。原因はその”中身”にある。エピソードを上げれば枚挙に暇がないが、


 ナンパ目的の男たちに対し「どうしてキミレベルの男がわたしの隣を歩けると思ったの?」と辛辣に突き放したり。


 ミス大学のコンテストで、他の参加者に対し「無意味な時間ご苦労様」と発言して物議を醸したり。


 当然、友達と呼ぶべき存在はいない。そのため彼女はいつも一人だ。おかげで僕は学食の席で彼女と話す機会があったのだが、案の定と言うべきか早々にイライラし、


「君って面白い性格をしているね」


 と、たっぷりの皮肉を込めて言い放った。しかしどういう思考の果てにそこへ至ったのか、彼女は僕のそんな台詞をいたく気に入ったらしく。


「そんな風に言ってくれたの、久里山くりやまくんが初めてよ」


 戸惑いながらも理解した。この女は阿呆だ。大学の成績は良いと聞いていたが、頭が回るのはあくまで勉強方面での話だろう。日頃の立ち居振る舞いといい、とても教養のある人間であるとは思えない。

 そして僕は、教養のない女というものがこの世で二番目に嫌いだった。


「ねぇ、久里山くんのシュミって何?」


 くだらない。


「今まで彼女いたことある? もしかして童貞?」


 どうしてそんなことを教える必要がある。


「帰りにちょっと飲んでいこうよ。もちろん久里山くんのオゴリで」


 いいからもうあっちへ行ってくれ。


「今度の日曜日、空いてる? 映画観たいんだけど……その、他に空いてる人がいなくてさ」

 

 この女、一体何を考えている?


 僕は自分が嫌いだった。から揚げに無許可でレモンをかける輩よりも、教養のない女よりも。

 だからこそ一之瀬の行動は理解できなかったし、無意味なことに時間を割くべきではないと説教したいとすら思った。

 しかし、やめた。こんなものは一時の感情に過ぎないだろう。拒絶すればプライドの高い彼女のことだ、しつこく絡み続けてくるか、あるいは僕がキャンパス内を歩き辛くなるような口から出まかせを吹聴して回るかもしれない。

 余計なエネルギーは使いたくない。そう考えた結果、僕はまるで興味の湧かない流行り映画を二人並んで鑑賞し、喫茶店で向こうの一方的な話に相槌を打ち続け、小洒落た飲食店で何が美味しいのか分からない赤ワインを三杯ほど呷った。

 一之瀬は終始楽しそうで、僕はそんな彼女を見ているだけの時間が意外と退屈しないことに気付いた。

 もっともそれは、彼女に好意を抱いているからではない。初めての体験を前にして、心が落ち着かないというだけのことだ。

 帰り際、一之瀬はこんなことを口にした。


「今まで、偉そうなこと言ってたけどさ。わたし……本当は経験少ないんだ。言い寄ってくる男はバカばっかりで……。好きな人っていうのもほとんどいなかったし。だから、こんな気持ち初めてで……どうしたらいいか分からなくて」


 それを聞いてなるほど、と思った。この女は恋に恋をしているのだ。つまり、相手は僕でなくてもいいということだ。

 それならば、いっそ本人に気付かせた方がいいだろう。この男は過去に言い寄ってきた連中と同様、わたしが交際するに値しない男だ――と。


「ねぇ久里山くん……わたし、キミのことが好き、かも」


 だから僕は、その言葉を敢えて拒絶しなかった。




 三か月後。

 見込みに反し、僕たちは交際を続けていた。

 彼女は僕のことを『はじめくん』、僕は彼女のことを『舞彩』と呼ぶようになった。

 別に親愛の情が湧いたわけじゃない。そう呼ばなければ、彼女は僕のことを無視した。そのまま自然消滅を図ることもできたが、流石にそれは寝覚めが悪いと思った。それだけのことだ。

 すぐに愛想を尽かされると思っていた。しかし彼女の愛情表現は日に日に増していって、周囲からの羨ましげな視線が身体に突き刺さるような錯覚を起こすまでになっていた。


「創くんは幸せ者だねぇ。こんなに可愛い彼女がいるなんて」


 自信家な所は相変わらずだ。しかし舞彩の態度は柔らかくなったと、僕だけでなくキャンパスメイト達も口を揃えて言った。

「どうして久里山なんかを好きになったんだ……?」

 それは僕も聞きたい。という訳で、聞いてみた。


「最初はね、このヒト良い人だって思ったの。わたしの外見じゃなくて中身を褒めてくれる人って、初めてだったから」

「あれは皮肉を込めたつもりだったんだが」

「……知ってる。その後すぐ気付いた。だって創くん、わたしに全然興味なさそうだったし」

「そうだな」

「むぅ……。とにかく、わたしは悔しかったの。こんなに関心を持ってくれない男の子、今までに一人もいなかったから。絶対に陥落させてやろうって思った。そして……気付いたら、わたしの方が好きになっちゃってた」

 そんなこと、有り得るのだろうか。まともな恋愛などしたことない僕からすれば、全く意味が分からない。

「でも、それだけじゃない。一番の理由は……創くんが、お父さんに似ていたから」

「お父さん?」

「昔の姿に、だけどね。小っちゃい頃両親が離婚して、わたしは母親に引き取られたの。お父さんとはそれきり別れちゃって」

「好きだったのか?」

「だと思う。お父さんとの記憶は少ないけど、いい思い出ばかり残ってるから」

 舞彩は寂しげに笑ったが、僕にはその理由が分からなかった。


 僕は生まれた時から両親がいない。二人が乗った車が事故に遭い、母親の胎内にいた僕だけが一命を取り留めた。自宅で破水し、慌てて病院に向かう途中だったらしい。

 その後は母親の実家に引き取られた。両親は駆け落ち同然で家を飛び出したらしく、母親の両親は夫である父親に対していい感情を持っていなかった。無論、その息子である僕に対しても。後で聞いた話だが、母親には許婚がいたらしい。

 成長し面影が似てくるたび、祖母に言われた。本当に忌々しい、と。祖父は何も言わなかったが、同じように何もしてくれなかった。

 愛情を受けずに育ってきた僕は、舞彩の想いにどう応じれば良いのか分からなかった。




 別れよう。

 それが僕の下した結論だった。

 交際して半年が経ち、ようやく理解した。舞彩の気持ちは、かつて想像したような一時の感情などではない。真剣に僕のことを想い、僕に愛されたいと思っている。

 しかし、僕の気持ちは変わらなかった。彼女を愛してはいなかったし、愛されていることが嬉しいとも思わない。

 形だけの恋人関係を続けるのは、もうやめにしよう。それが、僕のように卑屈で矮小な人間を愛してくれた彼女に対する、せめてもの報いだと思うから。


 秋風吹く寒空の下、僕は舞彩を公園に呼び出した。そこは二人が付き合うことになった思い出の場所だった。全てが終わった後、彼女は僕を残酷だと罵るだろうか。

「来てくれてありがとう。今日は、話があるんだ……大切な」

 単刀直入に言おうと思っていたが、口が勝手に遠回りをする。手のひらはじっとりと汗ばみ、吹き付ける風でひんやりと冷たかった。

「君は僕のことを愛してると言ってくれた。そのことには感謝している。でも僕は、その気持ちに応えられない。恋人になって半年が経った今も――」

 そこまで言いかけ、僕は続く言葉を失った。

 彼女が視界から消えていた。

 わずかに視線を下げたその先に、崩れ落ちた薄桃色のコート姿があった。

「舞彩っ!」

 そこから先のことはよく覚えていない。自分で一一九番をダイヤルし、駆けつけた救急車に同乗し、気付けば病院の中にいた。

 何が起こったのか分からないまま、医師の話を聞いた。家族を呼ぶようにと言われたが、連絡先など知りようもなかった。

 仕方なく彼女のカバンからケータイを取り出す。本体の裏側にはプリントシール機で撮影した二人の写真が貼ってあった。

「どうして、僕なんだよ……」

 その独り言は、病院内の白く清潔な壁に溶けて消えていった。

 



 舞彩は病気だった。

 病名は肝臓がん。すでに肺へ転移しており、完治の見込みはなし。余命は一年。

 そんな宣告を、彼女は半年前に聞いていたという。

「なんか……ごめんね。こんなみっともない姿で」

 点滴の針を腕に突き刺したまま、彼女は薄く笑った。

 僕はぎゅっと拳を握り締める。

「どうして黙ってたんだよ」

「……だって、気にするでしょ。そんなことしたらさ」

 落ち込む僕に対し、彼女はどこまでも普段通りを演じていて。

「哀れな女だって思われたくなかったの。好きでもないのに好きって言われたくなかった。そんな施しを受けたら、胸張って生きてますって言えなくなるじゃない」

「……それは」

「だから、ありがとう。昨日はわたしを振ろうと思って呼び出したんだよね? いいよ、今聞いてあげる」

 舞彩は本気だった。

 僕はそんな彼女から逃げるように目を逸らし、下唇を強く噛み締めた。

 彼女の言う通りにするべきなのだろう。そうでなければ、僕は彼女を哀れんでいることになる。必死で生きている彼女を侮辱することになる。

 言え。言うんだ。僕は強張る口をギリギリと開いた。別れよう。たったその一言だ。

 それなのに、喉はカラカラに乾いてしまい、最初の一文字すら発することはできなかった。

「良かった。ひとまず死刑宣告は回避できたみたい」

 彼女はビシッと人差し指を向けてきて、

「残り半年で、絶対にわたしのこと好きにさせてみせるからね。覚悟しててよ」

 不敵に微笑む彼女に対し、僕は何も言い返すことが出来なかった。




 長く一緒に過ごしていれば、どんな相手にだって情は湧く。

 では、その単なる『情』と『愛情』とは、どうやって区別したらいいのだろう?

 僕が舞彩に抱いている感情は、そのどちらなのだろう?

 合意の上なら抱きたいと思う。しかしそれは単なる性欲であり、愛情とは違うだろう。それなら一緒に暮らしたいと思うか? 思わない。僕は一人が好きだし、可能なら誰一人として自分の居住空間に近づけたくはない。

 やはり、僕は彼女を愛していない。結論はいつもそれだった。

 それなのに僕は、いつまでも彼女を振ることができなかった。

 それがどんなに彼女を裏切り傷つけることになるか、分かっているはずなのに。


 舞彩は入退院を繰り返していた。養生の為には病院にいた方がいいのだろうが、彼女はそれを望まなかった。

 体調のいい日にはデートに出掛けた。胸が痛かったが、彼女はとても幸せそうだった。それにつられて僕も破顔した。そんな自分が吐き気がするほど嫌になった。


「創くんは何歳ぐらいまでに結婚したい?」

 冬の海を見に行った時のことだ。彼女は突然そんなことを聞いてきた。

「考えたこともないよ。別に結婚したいとも思わない」

「キミらしいね。なら、子供はどう? 何人くらい欲しい?」

「結婚したくないと言ったはずだが」

「結婚しなくても子供は持てるでしょう?」

「本気か?」

「本気だよ」

 一〇秒ほど考え、僕は「二人」と答えた。彼女は「普通だね」と返した。確かに月並みかもしれないが、一人だと子供が寂しがるし、三人以上だと育てる側に負担が大きい。そう考えての結論だった。

「わたしは……結婚したいなぁ。子供は三人以上は欲しい。賑やかでいいじゃない」

 楽し気に笑う彼女と視線が合う。僕は顔を背けようとしたが、悪い癖だとかぶりを振った。

「君はその、どうして……」

 どうして将来の話をするのか。聞くのが躊躇われたが、彼女なりの考え方を聞いてみたかった。

 彼女は気を悪くした様子もなく、打ち寄せる波の向こうに目を向けながら答えた。

「余命なんて、医者が勝手に言ってること。それに縛られて生き方を変えるなんてわたしらしくない。そう思ったの」

 舞彩はいつだって自信満々に人生を歩んできた。そのための努力を惜しまず、周囲の人間と衝突することはあっても、自分なりの生き方を貫き通してきた。それを曲げたくないという考え方は、実に彼女らしいと思った。

「ひょっとしたら、創くんが先に死んじゃうかもよ?」

「そうかもな」

「あっ、絶対ないって顔してる。もしそうなったらわたし、別の相手見つけちゃうからね」

 フンっと顔を背ける彼女に対し、僕は頬を緩めずにはいられなかった。




 その日の夜、僕は初めて舞彩を抱いた。

 元々性欲自体はあった。しかし彼女を抱きたいと強く感じたのはこれが初めてのことだった。

 昼間に子供の話をしたからだろうか。それとも『情』に絆され、恋人らしいことの一つでもしてあげたくなったからだろうか。

 彼女の身体は温もりに満ちていた。その柔肌を腕の中に収めるたび、表現しがたい感情が胸の中に生まれるのを感じた。

 彼女がキスをしてくる。僕もお返しとばかりに唇を重ねる。そんなことの繰り返しが、この時の僕にはとても心地よかった。

「……この時間が、ずっと続けばいいのにね」

 その言葉に、この時ばかりは同意せずにいられなかった。

 



 それから半年後。


 新年度を迎え、桜の花びらが無機質なキャンパスに散り積もる頃。






 舞彩は、病室のベッドで静かに息を引き取った。






 不思議と涙は出なかった。

 そのことは少しショックだったが、同時に安心もした。

 やはり僕は、彼女のことを愛していなかったのだ。

 たった一年という限られた時間を、彼女を愛してもいない男が一緒に過ごした。そのことは申し訳ないし人間としてクズだと思う。

 だが、というよりはずっといい。

 僕は彼女を愛していなかった。

 それなのに、彼女を振ることも出来なかった。

 最低のクズ。

 この話はこれで終わりだ。






 舞彩が亡くなって一か月が経った。

 おかしい、と思う。どうして彼女のことが忘れられない?

 僕は彼女のことを愛していなかったというのに。

 確かめるため、彼女が眠る霊園へと向かった。そこには一之瀬家の墓があり、彼女の遺灰もこの中に収められているということだった。

 

「舞彩、新しい花を持ってきたよ」

 言いながら、色とりどりの花束を墓石の前に置く。

「やっぱり僕は、君のことを愛してはいなかったみたいだ。涙が一滴も出ないんだよ。自分のことながら人間としてどうかと思うね」

 一人で墓の前に立つと、不思議と饒舌になった。生前の彼女を前にした時には、こんなに言葉は出てこなかったのに。

「君のことだから、今頃は新しい相手を見つけているのかな。今度はちゃんと愛してくれる人間を選ぶことをお勧めするよ」

 彼女の隣に立つ別の男を想像してみる。そうすると、不思議なことに胸がちくりと痛んだ。

 どうしてだろう? 僕は彼女のことなんて――


「……愛してなかった、のか?」


 学食で初めて会話した時、嫌いなタイプの女だと思った。

 しかし交際を始めると、彼女と一緒に過ごす時間は意外なほど退屈しなかった。

 いや、もうそんな表現を使うのはやめにしよう。

 僕は楽しかったのだ。彼女の一方的な話を聞いたり、ただ買い物に付き合わされるだけのようなことが。

 そしてその一途な想いに、僕は心動かされていたのだ。


 ――残り半年で、絶対にわたしのこと好きにさせてみせるからね。


「舞彩……」

 墓石に手をつき話しかける。彼女は何も答えない。

 どうしてもっと早く気付かなかったんだろう。

 いや、それは正確ではない。僕はずっと気付いていた。自分が彼女を愛してしまっていることに。

 それでも言えなかった。だって、どの面下げてそんなことを言えばいい? 彼女から与えられた愛情に感謝の一つもせず、余命半年と知った上でも別れを切り出そうとしたというのに。

「舞彩っ……」

 愛というのは、もっと特別な感情だと思っていた。

 でもそれは、もっと普通に存在していて。普段は路傍の石のように目立たないけれど、失くした途端にそれがどれだけの輝きを放っていたか気付かされる。

 それをようやく理解した時、頬を熱いものが伝っていた。

 膝を折り、手で砂利を掴む。しかしどこを探しても、彼女のかけがえのない想いは残っていなかった。


 



 ありがとう。

 こんな僕を愛してくれて。

 愛とは何かということを教えてくれて。

 そして、ごめん。

 もう僕には資格などないかもしれないけど。

 それでも一度だけ言うから。

 どうか聞いてほしい。




「……愛してる、舞彩」




 その言葉は誰に届くこともなく、静かな霊園の一角に消えていった。

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