【二】


一時間ほど自動車に揺られ、今日の夜会の会場である森岡家の邸宅に到着した。

家を出るときはまだ青かった空は橙に染まり、向こうからやってきた闇が今にも飲み込もうとしている。


美織みおり


父の鈴村すずむらひろしがぞんざいな口調で名前を呼ぶ。返事をすれば、目を細め厳しい視線を送ってきた。


「今日の招待客はどの男も上玉だ。出来るだけ多くの男に顔を売れ」


……下品な言い方。

父はそういった下卑た面を、娘である私に決して隠そうとはしない。


「わかりました」


頷いたと同時に、ドアが開けられる。

私付きの使用人であり運転手も務めている宮下みやしたが、その横で待機している。


「いってらっしゃいませ」


深く頭を下げた宮下の横を通り抜ける。その時、さらりとなびいた髪を視界の端が捉えた。

宮下の少し色素の薄い髪が、夕日の残光によって輝きを深めていた。

――綺麗。

そう思い、一瞬足を止めそうになった。

宮下に初めて会った時、なんて綺麗な人なんだろう、と目を奪われた。

宮下は今もこうして、その時の印象のまま鈴村家に仕えている。


初めて会ったのは、五年前。私がまだ十二の頃だった。

今みたいな夕方と夜の狭間の僅かな時間、暴漢から襲われそうになった私を助けてくれた男が、宮下だった。

――大丈夫ですか?

怖がらせないようにか、少し距離を置いて掛けられた柔らかな声。

真っ直ぐに見つめてくる瞳は、日本人にしては淡い、赤茶がかったべっこう飴のような色だった。

色褪せることのない記憶が、胸をざわつかせる。反射的に胸に手を添えた。

今も変わらない、いつまでも変わってくれない想いは、今日も胸に淀みを残す。


森岡家長男泰隆やすたかの婚約披露パーティーは、盛況だった。

豪奢な服装に身を包んだ人々で溢れ、楽団の生演奏に、豪華な食事、高価な酒。贅の限りを尽くしたホールは、いつも以上に様々な欲で溢れ返っているように感じた。


「美織さんは本当にお人形のようねぇ。お上品で可愛らしくて」


ほうっと吐息混じりに言う坂之上さかのうえ婦人に、はにかみながら緩く首を振り否定する。

父の仕事関係の方の奥様である坂之上婦人には、こうやって会う度に、いつも同じことを言われている。


「いやいや、全然そんなことないですよ。本当お転婆で困ったもんです。坂之上さんのような立派な女性になれといつも口酸っぱく言ってるんですがね、なかなか」

「あら、そんな風に思ってくださっていたなんて嬉しいわ」


父の世辞に、婦人が口元に手を添えて笑う。

着いて早々何人もの人に挨拶をして回り、今、父の顔には満足そうな笑みが浮かんでいる。ちゃんと父好みの令嬢を出来ているようだった。

女は、奥ゆかしく、上品に、可愛らしくあれ。

私はそれを、物心ついた時から教え込まれている。

幼い頃から、花に音楽に舞に……とありとあらゆる習い事をさせられ、残念ながら骨の髄まで、とはいかなったが、人からそう見える程度には体に染み付いているらしい。

不意に父が私の背中に手を添えた。父の目は誰かを捉えており、その視線を追えば、本日の主役の弟である森岡泰弘やすひろがこちらに歩いてきていた。


「美織さん」


ぎこちない笑みを浮かべる泰弘に、微笑み返す。


「坂之上様、失礼致します」


坂之上婦人にお辞儀をし、泰弘の元へ足を進めた。前に立つと、泰弘の視線が頭のてっぺんから足の先までサッと移動した。

それには気付かない振りをして、裾を軽く摘まみ頭を下げる。


「本日はお招き頂きありがとうございます。おめでとうございます」

「こちらこそ来てくれてありがとう」

「またあとで泰隆様にご挨拶させてもらっても?」

「ええ、もちろん。これ、よろしければどうぞ」


差し出された華奢なグラスを、礼を言い受け取る。

微かに桃色に色付いた液体を一口口に含めば、シュワシュワと泡が弾ける。果物の強い香りが鼻を抜け、苦味が喉を通っていく。


「今日の美織さんは一段とお美しいですね。えっと、そのドレス……とても似合っています」


泰弘は口の中でもごもごと言う。

そんな彼に、小首を傾げ照れたように笑ってみせる。


「そんな……恥ずかしいですわ。でも、そうおっしゃって頂けて嬉しいです。泰弘様こそ、とてもお似合いでいらっしゃいますね。そのチーフ、お色がとても素敵」


胸ポケットの濃い空色のチーフを誉めれば、「これは英国のもので……」と、最近行っていたらしい英国の話を始めた。

行ったことのない異国の話にも、胸は一向に弾まない。

唇を湿らす程度にグラスを傾けながら、相槌を打つ。

本当につまらない人。

はっきりとしない物言いに、たまに見せる卑屈な表情。短く切り揃えられた黒髪の下には、日本人らしい控えめな顔が鎮座している。

女慣れしていないのか、女性を楽しませる術を知らない泰弘の話はいつ聞いても退屈だ。その癖、時折胸元には卑しい視線を注いでくるのだから、より嫌悪を抱いてしまう。


この男は、父の中での私の結婚相手の第一候補の男だ。

森岡家の次男であり現在二十二歳。森岡家は代々伝わる由緒正しい公家華族だ。

明治から大正に渡り、一代で財を成した父は、世間からは成金と蔑まされている。

華族令発布の際、華族に成り損ね、華族という地位に対して並々ならぬ羨望と嫉妬を抱えている。

財の次は、地位。名誉。父は、どうにかして、華族との繋がりを結ぼうとしているのだ。

そして、その駒が私。

長女として生まれたが、三個下に弟がいるため婿を取る必要はない私を、父は一番高くで買ってくれる相手を探している。

私が来年十八になるそのリミットぎりぎりまで。

そのせいで、私は夜会が開催される度連れ回されている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

蝶は今日も夢を見る ユナ @y_motiduki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ