怒りの彦斎

一齣 其日

怒りの彦斎

 河上彦斎逮捕の報が参議木戸孝允の元の耳に入ったのは、丁度彼が遣欧使節団の一人として海を渡るまで、もうそう遠くない頃のことだった。 木戸と同じく長州藩出身の大村益次郎を暗殺した犯人を匿い、そしてその後に起きたいくつかの事件の容疑をかけられた上での逮捕であるという。


「ようやくあの厄介者の始末をできる、か」


 正直、この報せに木戸はつい胸をなでおろしたくなるほどの心地を覚えてならなかった。

 かつての同志にそう言うのはどうか、と思う者もいるだろう。だが、誰もその言葉に対して苦言をあげるものはいない。むしろ、誰もが木戸と同じく、どこかホッとした顔をしているのである。それ程までに彼らにとって彦斎という男は目の上のたんこぶであったのだ。

 明治という時代において、この日本が欧米列強に対抗せんがため、彼らはあえて開国の道を選んだ。否、選ぶしかなかった。

 彼らからすれば、彼らと正面切って争うことは自滅に等しい道であった。事実、薩英戦争、下関砲台の占領を通し、それを間近で見てきてしまった。故に、自滅するくらいならば、恥を偲んで欧米の技術文化をものにし、その上で追い越すしか日本の未来への道はないと考えたのである。

 しかして、彦斎は違った。彼は尚も攘夷を声高に叫び続けた。明治政府の舵取りが開国へと突き進んでもなお、である。その変わるということを知らぬかのような頑固さは目に余るものがあるが、しかし、その行動というのは明治政府の人間を震え上がらせるほどであった。

 事実、木戸にとって正面切って彦斎に批判を浴びせられたのは、記憶に新しい。敵と対峙するときは常に頭を冷やし、怜悧冷徹に接する木戸でさえ、肝が潰れるような心地がそこにあった。彼が、人斬り彦斎と呼ばれた男であるということもあったのだろうか。

 かの男は幕末の四大人斬りと数えられたその一人なのである。その気になれば、腰元の刀を抜き様に切り捨てることもできるのである。彼の最後の一線が弾けたならば、この胴体が真二つになってもおかしくなかったのである。さても逃げの小五郎も、彼の繰り出す抜き打ちには逃げる事も叶わない。

 だが、それよりも、だ。

 

 あの怒りだけは、手に負えん。

 普段は垣間見るべくもない、しかし燃えた時は、途端に周りを焼き尽くさんばかりのやつの怒り、は。


 木戸の脳裏によぎるのは、まだ血煙がよくよく漂った京都でのとある酒席。

 その時は、たまたま長州の同志と、そしてそのほかの藩の同志が集まって酒を酌み交わしつつ議論を戦わせていた。誰も彼もが激しい論調を繰り広げる。その熱気は、どこか他の客からしてみれば、到底踏み入れないものを感じてならなかったろう。

 しかして、この彦斎だけは何処か涼しい顔を浮かべているのである。この熱い空気の最中、どうしてこの男の周りはこうも冷たく漂わせるのか。当時桂小五郎と名乗っていた木戸は、あまりに奇妙な彦斎の雰囲気に異様なものを感じてならなかった。

 だが、かといってそんな彼に言葉を掛けようとも思わなかった。弁舌では誰にも引けを取らぬ自信はあるが、どうにも臆してしまうものを感じてはならなかった。

 周りの者も、その彦斎の雰囲気を避けてか、或いは単純に熱論を交わさないかの男に興味がないのか、誰も彼の相手をしようとはしない。まるで、そこにいないかのような風体で、酒席は続いていった。

 さて、そんな最中にこんな話が出てきた。とある仲間の話であるのだが、どうもこの男、自分は長州の浪士だ貴様らのために戦っているのだと豪語し、京都の町民に金をたからといった狼藉を働いているらしい。出てくる話のどれもこれもが、同じ同志としてはあまりに目に余る代物の数々であった。

  流石にその男の始末はどうにかせねばなるまいな、と木戸も思わずにはいられなかった。かのような狼藉で、今現在我らに好意的な民衆の機嫌を損ねては、これ以降の活動にも大いに影響を及ぼす。

 どこかで手を打たねば、そんな思案の最中に彼は異変に気付く。あの薄ら寒い空気が、いつの間にやらパタリと消えていたのだ。


「……おい、そこで先ほどまで酒を飲んでいた小柄の男はどこに行った?」


 見れば、先ほどまで一人静かに酒を嗜んでいた彦斎の姿が無い。仲間に行方を聞いても、誰もが議論に熱を上げて全く話になりもしない。

 放っておけばよかった話なのかもしれない。たかが一人、酒席から消えてもなんの問題もない。せいぜい酒を飲みすぎて厠にでも行ったのか、あるいは議論の熱を一旦冷ますために外に涼みに行ったのか、そう斬り捨てでもすればよかったのだ。

 それでも木戸は、どうにも彼を追ってしまった。一度仲間たちに失礼すると行って、酒席を抜け出してしまった。だが、すでに河上の姿は無い。足跡も、月が逃げるように雲間の向こうへと隠れてしまったのでは、見つけようが無い。

 だが、足は走り出していた。向かった先は、あの酒たかりの横暴者がいるという飲み屋。あの話の最中に、誰かが先の店の近くで飲んでいたかなんてことを言っていなかったか。

 しかして、まだ夏は少し先だというのに、体から吹き出てくる汗はなんなのか。拳はいつの間にか握りしめていたせいか、酷くぐっしょりしてならない。それでも足は、止まりようがなかった。

 何がこうまで彼を動かすのか、わからない。普段ならもう少し慎重になるというのに、今夜ばかりはどうも違う。あの薄ら寒い空気に当てられたせいなのか。

 通りの隅にある路地を抜ける。すれば、件の飲み屋はもう直ぐである。だが、そこに辿り着いた時、既に事は起こっていた。


「俺が長州の者と知ってんなことを言うんじゃあねえだろうなぁ?!」


 熱気を孕んだ荒い声。ああ、これは件の男の声だ。随分と酔っているのだろうか、態度が酷く大きい。一触即発とはまさにこのことか、見ると刀の鯉口は既に斬られているじゃないか。

 相対するのは、先の小柄の男、河上彦斎である。相変わらずどこか薄ら寒い空気を纏っている。だが、なんだ、なぜその体はあまりにふるふると震えているのか。

 見たところ、この場に持ち込んだのは河上が発端と見える。実際、件の男の言葉内に挑発でもされたのだろう事実が読み取れる。

 では、あの震えは本当になんなのか。


「いい加減にしろよ、優男……てめ、俺のやり方に文句があるんなら、その刀で語ってみせろや!」


 とうとう件の男はその白刃を露わにしてしまった。ここでかの男を斬り捨てんとするのは、最早時間の問題であった。

 正直、木戸の立場からすればこの喧嘩は止めるべきであった。かの河上は、木戸と志を同じくする肥後藩の大物、宮部鼎蔵と交流がある者。ここでむざむざ斬られては、これ以降の協力に大きなヒビが入るというもの。

 故に、彼はそれ以上の静観をやめ、刀を抜いた乱暴者と河上の間に立とうとした、その時であった。



「語るまでもないわ」



 薄ら寒い空気が、あまりにも鋭く熱気を孕んだ殺気へと、化けた。

 そこには先の、涼しげな顔をした男はどこにもいない。こちらの足すら竦んでしまう程の熱を孕む一匹の化け物がそこにいた。その変貌ぶりには、さても木戸も肝が潰される心地がした程だった。

 故にか、既に事が終わってしまったことに気づいたのは、雲間に逃げていた月がぼんやりと件の男の屍を照らし始めた頃であった。

 刀の血を拭う彦斎の姿には、もはやあの熱はない。先の酒席にいたような薄ら寒い……いや、今となっては背中に冷たいものが這い寄るのを感じてはならなかった。

 右足を前に出してやや膝を曲げ、しかし左膝は地面がつきそうなほどに伸ばす、それまでの剣術の修行の最中であまりにも見たことのない独特の構え。そこから繰り出された紫電の抜き打ちをもって、奴は一瞬にして件の男を斬り捨てた。

 お手並み鮮やか、とでもいうべきか。その技は断末魔すら上げさせることはなかった。その屍の顔を見れば、いまだに激昂の色を浮かべている。

 ある意味で言えば、この男に相応しい最期なのかもしれなかった。驕りに走り、酒欲に溺れた愚か者には、似つかわしいその無様な死に様。

 しかしだ。それでもしかしだ。


「君、確かに彼は狼藉者だ。いずれは始末をつけねばならなかっただろう。……だがね、これは無いのではないか」


 木戸は、そう言わずにはいられなかった。


「何も、こういきなり斬り捨てるというのは、どうかと思うのだよ、僕は。もっとこう、更生の余地があったのではないのだろうか」


 彦斎は、答えない。随分と念入りに刀を拭うと、それを丁寧に鞘へと納めるだけで、木戸の問いには答えようとはしない。

 だが、その体はまたしても、どこか震えるところがあった。ふるふる、ふるふると、仏となった男と相対した時と同じく。震えれば震えるほどに、その薄ら寒い空気は何処か生暖かさが漂い始める。


「せめて何かしら、言葉はないものかね。先の酒席でもそうだが、言葉がなければ、君、何も伝えられやしな」




「言葉なんぞ要らんやろう。かん男は話ば聞けばたいぎゃ狼藉ば働いたちゅうやなかと。今更かん男ば口でやめさするなんて遅かとは思いまっせんかね。同志も彼らに文句ば垂るるだけで何もしようとしやせん。そんまま放っといたら余計にこちらん評判はガタ落ちじゃあなかかね。そぎゃんのにまだやりようはあったと。うちにはこれしかやりようはなかねぇ。斬り捨ててどうやちゅうんや。事実あんたん顔にはこいつは斬り捨てられたっちゃおかしゅうなかと出とるじゃあなかか。どうせ斬らるるさだめやったばい彼は。うちら同志からかあるいは幕吏んもんからか。ばってんもうちに斬らるることによって彼は痛みものう逝けたわけたい。せめたっちゃん幸福て思うて欲しかところとねそこは。それに言葉とは言うがね言葉だけでなんとかなるならうちゃこぎゃんこつはしもうせんばい。事実幕府に言葉ばどれだけ尽くしたっちゃまともな攘夷はせんかったであろうが。やけんうちゃ言葉なんぞ捨てたんや。言葉よりもこん刀でやらんば人はわからんのや。それにこうしてうちが言葉ば尽くすんも本当は野暮なんばい。ばってん貴方には刀ば使えはせん。故にこうして言葉ば尽くしたんや。ばってんこうして言葉ば尽くすんな何度もなか。あまりうちんやり方に文句ば言うんならばそれこそこん刀ば持って斬り捨てんばいけまっせん。ばってんただ斬り捨つるだけじゃあなか。斬り捨てた者ん分己ん目的は果たす所存ばいけん」



 

 二の句も紡ぐことすらできやしなかった。

 その熊本人独特の訛り口調をもって、長州を率いる木戸に対して、その当時にはまだ誰も見てはいないだろう機関銃の如く言葉を苛烈に浴びせるだけ浴びせてみせた。それこそ、あの貌に、あの殺気だ。熱を孕みに孕んだ鋭い殺気。

 いや、熱じゃあない。あれは、怒りだ。純粋で、しかし一度狙い澄ましたならばとことん焼き尽くさんばかりの怒り。あの一刀のうちに隠された怒りというのは、これほどのものなのか。

 ゾッ、とせずにはいられなかった。まだ、木戸は彼に斬れるような立場でない人間であるが故に、彼の刀の錆とはならなかった。ただ、それだけの話なのである。

 だが、それが今一歩間違っていたのなら。例えば、自分が桂小五郎という人間でなく、ただの一人の同志として、彼のなした事を非難したのなら、その時は。


「もう、よかでしょう。戻りましょう」


 既に彦斎は、怒りの色を落としていた。寡黙で冷えた空気を持つ、先の男へとその姿を変えていた。その小兵はくるりと背を向け、闇へ闇へと消えていく。

 この時分、よく天誅だ天誅だなどと叫び、人を斬り殺してきた仲間たちを木戸は知っていた。だが、その仲間たちの誰もが、人を斬ったあとは脂汗をどこかに流し、或いは斬った日の夜には酒を飲まずにはいられなかったりと、血が滾るものを感じてならなかった。それぐらい、人を斬るということは只事の話じゃあなかった。

 だが、この男はどうだ。まるで今しがた人を斬った男とは思えぬほどに、さも淡々とした足取り。


「あの夜のことは、未だにどうにも拭いがたいな。あの、血の匂いが色濃く漂う、得体の知れなさは」


 その記憶は、十年近く経とうとしてるこの頃においても、鮮明に脳髄に焼き残っている。今現在、明治政府参議となり、日本を牛耳る一人になってもなお、彼の事を考えると首筋が冷たくなるものを覚えてならない。

 事実、奴の怒りに触れたものは数知れない。記録こそ残ってはいないものの、彼の耳に入るだけでも相当数。

 特に池田屋事件前後の彼は、なかなかに凄まじかった。まず偶然にも京都にいた佐久間象山を斬り捨て、ついには禁門の変にて敵を相手に快刀乱麻。彼と故郷を同じくする宮部鼎蔵が斬られたという怒りもあいまって、その斬り捨て具合には情け容赦のかけらも見えなかった。

 それでいて、涼しい顔もまた落とさない。幕府そのものが腐り落ち行く野菜故に当然のことをしてるまでだ、そう言わんばかりの斬り捨てようだった。きっと、かの夜のことも彼には同じことかもしれない。

 そして、彼が怒りは今、この明治政府に鋭く向けられてしまっている。その凄まじさといえば、池田屋の比ではないだろうて。




『今更異国に尾ば振るちゅうんか。散々攘夷攘夷ば人ば使い人ば斬り捨てといて今更変節ばなさるんか。異国ん力が強大なんなわかる。ばってんこん日本は異国に歯が立たんとは思いまっせん。確かに貴方方長州は負けはしたやろう。ばってんそりゃ貴方方が孤独に戦うたけんなんや。我々神州日本が力ば合わせて見すれば欧米列強にも一矢報いて見せよう。そうして我らん力ば認めさせたならばそん時こそ開国したっちゃ良かとは思うがね。ばってん今んまま犬んごつ尾ば振って開国するんな許せまっせん。我々は奴らん犬じゃあありまっせん。こんまま降るごつ開国ば推し進むるんならうちゃ貴方ば斬らんばなりまっせん。そうでなかりゃうちもまたともに戦い死んでいった同志とうちが斬り捨てた人間以上ん働きなどできやしもうせん。もう二度目やなあ貴方に言葉ば尽くすんな。これで最後であるんや。三度目はございまっせん。仏ん顔も三度までちゅうやろう。これ以上こん怒りば言葉にするんな野暮なんや。貴方方がこれ以上変節し堕ちていくんならば最早うちゃこん一刀に頼るほかございまっせん。例えこん軀が滅び行くことになりましたっちゃ』




 最後に彦斎に会った時も、このように詰り倒されたのを木戸は思い出す。

 その怒り滲む言葉尻には、そこかしこに突かれて痛いところもある。その信念の一本気さには頭の下がる思いもある。正直に言えば、彼のようにありたかったとも思わないでもない。

 後からよくよく考えてみれば、その怒りはどこまでも真っ直ぐだったのだ。表層はあまりに冷たく、人を斬ることには一切の躊躇いも見れないが、しかしてその男は越えきた屍の道に恥じぬ生であろうとしたのだろう。その中身は、この日本にいる誰よりも信念に燃えていた。

 真っ直ぐに、燃えていた。

 故に、明治政府の裏切りとも言える変節は許し難いものがあるのも当然だろうて。かのような、全て焼き払わんとするほどの怒りようにもなるわけか。

 しかし、そのような怒りでやっていけるほどに世の中は甘くはない。禁門の変、第一次長州征伐の成り行きを見て、保守派に転じた熊本藩を説得に向かった際には獄に繋がれることになり、幾年かを牢で過ごすこともあった。

 そして、それは今も同じく。


「奴は早々に斬れ。でなければ今後の日本に悪影響を及ぼしかねん」


 結局の所、己が身にある怒りの焔が最後に焼いたのは、己自身であった。

 例えそれが、己が信念からくる一本気な怒りだとしても、それを振りまいてしまった時点で人を恐れさせるには十分な代物だったのだ。恐怖を抱いた人間というのは、時に恐ろしく容赦がない。それこそ、彦斎の容赦の無い怒りにも比にならぬ程に。

 故に、木戸は河上彦斎を殺す。幕末の亡霊とも呼ぶべき人斬りを、闇へと葬り去る。




「奴は、ある意味では男として憧れてしまうような生き様だったのかもしれない。だが、ただ一途に信念を貫くだけじゃ勝てはせん。何処かで己を見つめ直し、恥を忍んでも変わらねば、あの列強相手に勝てはせんのだよ」




 河上彦斎が処刑されたのは、明治四年十二月四日の事であった。

 彼は、呪詛も怨嗟も残しやしなかった。その最期は、彼の信念と生き様諸共、己が身の業火で焼き尽くした。

 その日は、随分と乾いた風が吹き荒んでいたという。それこそ、微かに燻る残り火を煽るには、十分な程に。

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