第7話 月の裏側
「やっぱり、可愛い」
メール便で届いた荷物を開封して、葵は声をあげて喜んだ。
発送しましたというメールが届いてから、心待ちにしていたそれは、スマホケース。数日前のチャットで、新月が教えてくれた品物だ。
最初の話題はなんだったか。たしか、スマホの活用法についての話だったと思う。
葵がスマホを購入して、一番楽しいと思ったことは、出先でも気軽に読書が楽しめる、ということだった。
陣内家には、電子書籍を購入する為の共有アカウントがあり、仁が買った漫画を読んだり、京子や博史が買った小説を読んだりしていた。当時まだ未成年だった葵は、自分のクレジットカードなどは持っていない為、個人的に欲しいと思った本は、本屋で書籍を購入していた。加えて、共有タブレット端末で自由に読んでいいとも言われていたので、読書には事欠かない環境だった。
それとは別に、自分用のアカウントも作り、自分の趣味で購入した本を楽しんでいる。
紙には紙の楽しさがあって、勿論今でも大切だ。本屋でタイトルを眺めたり、平積みにされた本の装丁に惹かれて購入したり。目で見る楽しさ、紙の質感。たくさんの喜びがそこにはある。
電子書籍はどうかといえば、単純に「読む」という行為だけを見れば、有用な手段だった。推理小説などにおいて、以前の描写を読み返したいような場合は、紙の方が断然便利なのだけれど、短編集のようなものはあまり気にならない。また陣内家では、収納場所に困らないという点も評価されていた。
仕事先に重たい単行本を持ち込むわけにはいかないが、スマホで読むなら気にならないし、なによりも、続きが気になって仕方ない時に、家で読んでいた本の続きを、仕事の休憩時間で読めるのは感動だった。
スマホのおかげで、葵の読書は捗る一方なのだ。
まあ、そんなスマホだが、葵はとにかくよく落とす。手が小さいということもあるのかもしれないが、家の中にいても、床に落とす。おかげで、液晶フィルムは必須である。
背面に取り付けるフィンガーリングは、あまり好きではない。他の手段はないものか。いや、落とさないようにすればいいだけなのではあるが――
そんな話をした翌日、新月氏がチャット内にURLを貼り付けた。
それはとあるショッピングサイトで、飛んだ先で販売されていたのは、ウサギの絵がついた手帳型スマホケース。ハンドストラップがケースに付属している商品だった。
葵の機種を訊き、対応しているケースを探してくれたのである。
しかも、ウサギだ。葵が、ウサギのモチーフが好きだということを覚えており、それも加味した商品を見つけてきてくれたのだ。
値段は少し高かったけれど、葵は購入ボタンを押した。
仕事の契約延長も決まり、また三ヶ月は今の職場で働ける。上司の高村の話だと、パンの新規販売のこともあり、業務量が増えてきたので、契約期間も伸びる可能性があるらしい。
三ヶ月契約ではなく、半年契約。
素直に嬉しいことだ。食堂班に人を増やす話があるなら、葵を正式に雇えばいい――と言ってくれる人もいて、それもまたありがたいと思う。
仕事の延長も決まったし、もうすぐクリスマスだし。
理由をつけて、葵はそれを「自分へのご褒美」として購入したのである。
今まで使っていたケースを取り外して、手帳型ケースにスマホを嵌め込む。カメラ穴もきちんと空いていて、機種に対応した物を選んだ方がいいよ、という弁に納得する。
ケースをつけることで、全体的に大きくなってしまった印象も否めないが、そこはハンドストラップの出番だ。
左手首に通して、左手でスマホを持つ。右手で操作する。
雑貨屋で見つけた、ビーズ細工のウサギも取り付けた。
うん。完璧だ。
葵は頷いて、笑顔になる。
嬉しい。色々なことが、嬉しい。
今日、新月さんにお礼を言おう。現品もすっごく可愛くて、お気に入りになりました、と。
たくさんたくさん、お礼を言おうと思った。
●
文字だけでも気分というのは伝わるものらしい。
その日の満月嬢は、とても嬉しそうだった。朔也が紹介したスマホケースを購入し、商品が届いたらしい。
ハンドストラップと一緒に、ビーズ細工の小さなウサギも付けたのだと、興奮した様子が伝わってくる。
あそこまで喜ばれると、教えた甲斐があったというものだろう。
きっかけは、姪へのクリスマスプレゼントという名の、おねだりだった。商品検索をしていたせいで、ページに表示される広告が女性向けのスマホアクセサリーで埋め尽くされており、その中でウサギの絵がついた手帳型ケースが目に入ったのである。
彼女は、ウサギのモチーフが好きで、ついつい集めてしまうらしい。お月見の時期はそういった物がよく売られているらしく、楽しみにしているのだと言っていたことが頭をよぎり、朔也はなんとなくウサギの絵が入った商品を探し始めてしまった。
スマホケース、ウサギ、手帳型
検索ワードを入れて、画像を上から眺めていく。
我ながら何をしているんだと思わなくもなかったが、その時はそれが正解だと思ったのだ。
そしてやはり、それは正しいことだったのだと、パソコンの前で朔也は笑みを浮かべる。
満月嬢と話をするようになってから、自分はよく笑うようになったと、朔也は思う。総務部の同僚にも、私生活に変化でもあったのかとこっそり訊かれたぐらいだから、それは確実に自分に影響を与えているのだろう。
いつか離れていく相手だと思っていたけれど、その時自分はどうなってしまうのだろう。
衝動的に、電話をかけてしまうかもしれない。
直接声を聞き、会いたい、会って話がしたい、と告げてしまうかもしれない。
自分はこんなにも、抑えが効かないタイプの人間だっただろうか?
朔也は、もう戻れない深みに嵌ってしまっていることに気づいて、頭を抱えた。
外出先から戻ってきたところで、入口近くのソファーに座っている人がいることに気づいて、朔也は足を止めた。
時刻は、四時を迎えようかという頃。こんな時間に来客が来るとは思えないし、だとしてもなぜここに座っているのか。一体誰の客なのかと近づくと、そこに座っていたのは、望月葵だった。
「望月さん、こんな所でどうしたんですか?」
「あ。氷上さん。お疲れさま、です」
立ち上がって頭を下げる。黒くて長い髪が、さらりと肩から流れ落ち、彼女の頬を撫でた。食堂で見かける際は、後ろでひとつに縛っており、髪が落ちないように頭部も覆っているので気づかなかったが、意外と長髪だったらしい。
「えと、人を、待っていて……」
「人? ジンを?」
「違、くて。あの、伯父さんを」
「陣内さん?」
こくこくと必死に頷く葵。朔也が「呼んできましょうか?」と言うと、今度は首を横に振った。
「お仕事、邪魔に、なっちゃう、ので。大丈夫です」
「でも、ここは暗いし、寒いでしょう」
「最初は、食堂の、控え室で、待ってた、けど。もうみんな、帰る時間、で」
「そうか。あっちはもう上がる時間か」
「はい、です」
「だったら、尚更だ。あっちに休憩用のスペースがあるから、一緒に行きましょう」
「あの、でも」
「望月さんも、うちの従業員なんですから、遠慮する必要はありませんよ」
促して、朔也は葵を奥へと連れていく。隣を歩く彼女は、キョロキョロと周囲に目をやっており、いつぞや誰かが言っていた「モルモットみたい」という言葉を思い出した。
モルモット、とは少し違うような気がする。例えるならば、なんだろうか。暖かそうなモコモコしたコート、肩から掛けた鞄には、白いウサギのマスコットが揺れている。
(――そうか、ウサギか)
しっくりくる形容が浮かび、妙にウサギに縁があるものだと独りごちた。
いつも使っている休憩スペースに案内し、自動販売機の前に立って葵に問う。
「何がいいですか?」
「じ、自分、でっ」
「後輩でいる間は、素直に奢られておけばいいんですよ」
慌ててこちらに近づいてきた葵に、朔也は苦笑と共に返す。財布を取り出しかけて、葵の鞄からは、別の物がこぼれた。朔也は足元に落ちたそれを拾いあげ、渡そうとして、固まった。
和を思わせる藍色に金糸の模様。朱色の目が映える白ウサギが、満月を目指している構図のスマホケース。同色のハンドストラップが付属しており、小さなウサギの絵が刺繍された凝った作りになっている。その脇には、ビーズで作られた小さなウサギのマスコット――
「す、すみま、せん。すぐ、落としちゃって」
「……綺麗なケースですね」
「はい、知り合いが、お薦め、してくれて。すごく、気に入ってて」
照れくさそうに、でも、とても嬉しそうに笑う葵に、朔也は唾を呑み込んだ。
「随分と新しいようですが――」
「数日前に、届いた、ばっかり、なんです」
「そう……ですか。ちなみに、どちらで?」
「お店の、名前、よく覚えて、なくて。ネットの、お店です」
すみません、と小声で謝罪する葵の声を遠くに聞きながら、朔也は自販機にコインを投入し、葵へ促した。ペコリと頭を下げて、葵の指が購入ボタンの上をさまよう
小さな手。
小さいんです。だから、うっかりすると子供用とかになっちゃいます。
なるほど、たしかに小さいな。
胸中で響く独白に気づくことなく、望月葵は朔也を見つめ、「ありが、とう、ござい、ます」と笑顔を浮かべる。
果たして自分はどんな顔をしているのだろうか。
柔らかくなったと称されるけれど、今は上手く笑えている気がまるでしない。
嘘だろ? 一体なんの冗談だ。
勘違いだと思いたいが、考えれば考えるほど、満月嬢と望月葵が重なっていく。
満月嬢は、正社員ではなく、三ヶ月ごとに契約を交わしていると言っていた。派遣ではなく、契約社員だというのであれば、勤務態度に問題がなければ、正社員への道が開く可能性があることを告げ、いくつかのアドバイスをしている。先ごろ、次の契約更新を行い、来年も働けるようになったと報告があったところだ。
本人は二十歳で、朔也と同じ年齢の従兄がいる。
(……ほんと、冗談キツイ)
葵は誰にもやらん、などと豪語しているあのシスコン男に、例のメッセージを送った上、現在進行形でチャットをしている相手が、おまえの大事な従姉妹だった、なんて、言える気がまるでしない。
まして仁は、朔也とチャットの女性を取り持とうとしているのである。
あの頃はともかくとして、今となっては「別に恋じゃない」とは言えなくなってきている。いずれ疎遠になるだろうと思っていたけれど、実はすぐ傍に居たのだと知った途端、確実に欲が生まれたことを朔也は自覚した。
手に入れられる可能性があるのに、離れる必要があるだろうか?
答えは、否だ。
「陣内さんに、声をかけてきます」
「あの、でも」
「一人で待たせていたら、俺がジンに怒られる。陣内さんだって、一緒だと思うよ」
「伯父さん、怒りますか?」
「というか、心配するんじゃないかな」
「……私、もっと、ちゃんと、したいんです」
朔也が言うと、葵は沈んだ顔をする。以前、食堂で話した際にも「ちゃんと出来ているか」と問われたことを思い出し、朔也は首を捻った。
「二十歳で、一人で暮らして、仕事もしている。これ以上なく、ちゃんとしてると思う。少なくとも、俺が二十歳の頃は、今の望月さんよりずっと情けないガキだったと思うよ」
「全然、そうは、見えないです」
「望月さんぐらいの年齢から見れば、周囲はみんな年上で、すごくしっかりした大人に見えるだろうけど、実際、そこまで大人でもないよ。そう見せかけてるだけ。みんなそうやって、社会の中で擬態をしているにすぎない」
「擬態、ですか?」
「君は自分が駄目だと思っているかもしれないけど、周りはきちんと評価している。つまり、君も擬態が出来ているってことだ」
「本当は、違うのに?」
「嘘の中に、真実があったりするもんだよ」
何もかもをさらけだして、剥き出しの心で生きていくのは困難で。多少の嘘や幻影で飾り、自分を偽ることは悪いことではないはずだ。それは決して「悪」ではない。生きていくうえで、必要なことだろう。
「郷に入っては郷に従え。君は立派な社会人だよ、望月さん」
「ありが、とう、ござい、ます」
「礼を言われることでもないと思うけど」
「氷上さんは、やっぱり、いい人です」
「いい人、ね」
真実を知っても、果たして「いい人」と思ってくれるのだろうか。
苦い気持ちを抱えながら、朔也は陣内博史を呼ぶ為、総務部のスペースへ足を進めた。
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