第5話 真昼の月

 ひとしは日替わり定食を選び、朔也さくやは少し悩んだ後にカツ丼定食を選ぶ。カウンターに対して平行に並ぶ列を、順番通りに進んでいくと、先行していた仁の声が聞こえた。

「なー。おまけしてくれよ」

「駄目、だよ。みんな、一緒」

「これ好きなんだって」

「知ってる。でも、駄目、です」

「なんだよケチだな」

「ケチとか、そういう問題じゃ、ないよ」

 後続にせっつかれて仁は清算場所へ進み、席を探しに歩いていく。朔也が進んでいくと、先ほど彼と会話をしていたであろう人物の姿が見えた。

 たしか、仁の従姉妹だったか。小さな身体でちょこまか動いている様子をよく見かける。モルモットみたいで可愛いという声に、伯父にあたる陣内博史は「せめてリスって言ってくれよ」と反論していた。どっちもどっちだと朔也は思ったが、小動物に形容したくなる気持ちはわからなくもない。

 なんとなく眺めていると、顔をあげた彼女と目が合った。驚いたように目を開き、ぺこりと頭を下げてくる。

 果たして自分は何かしただろうか。

 つられて頭を下げつつ進み、仁が陣取った席へ向かった。




「旨そうだな、一切れくれよ」

「玉子焼きと交換してくれるなら」

「おま、二切れしかないうちの一つを貰おうとか、正気かっ」

 そうは言いつつ、トンカツの誘惑には耐えきれなかったのか、皿を差し出したので、遠慮なく箸で取り上げた。物々交換よろしく、仁がどんぶりの中からカツを一切れ取り上げる。真ん中の大きな物を取っていくあたり、食い意地が張っているというか、ちゃっかりしているというか。なんとも仁らしい振る舞いだ。

「おまえ、葵と面識あったっけ?」

「面識というほどのものはないと思う」

 互いに会釈したところを見ていたのだろう。問いかけられるが、記憶にはない。こちらが一方的に姿を見ることはあっても、あちらの方が自分を認識しているとは思えなかった。

「葵ちゃん、氷上ひかみくんのこと知ってると思うよ」と声を挟んだのは、坪内仁美だ。仁の隣に座り、改めて告げる。

「一ヶ月ぐらい前かなぁ。清算レジのところで、葵ちゃんから買ったの、覚えてない?」

「そうだったかもしれないけど、それが?」

「たしかあの時、川田くんが葵ちゃんに、声が小さいって聞き返して、葵ちゃんが焦ってどもっちゃってさ」

 仁美の言葉に、なんとなく思い出す。そういえば、そんなこともあったかもしれない。川田の態度は、子供を恫喝しているように見えて、つい口を挟んでしまった。あの後、彼は機嫌を損ねたのか、わざとらしく書類を遅延してきたので、迷惑をこうむったことを思い出す。

 思わず顔をしかめたが、仁の方もいきどおって、仁美にいなされている。

「タイミングが悪かっただけなのよ。あの時、周りがちょっとうるさかったし。で、困ってる葵ちゃんを颯爽と助けたのが、氷上くんってわけ」

「サク、ありがとう。でも、葵は誰にもやらんから」

「心配するな。おまえの過保護っぷりは知ってるよ」

「大丈夫かなって思って、あの後、私もお菓子買うついでに立ち話したんだけど、葵ちゃん、氷上くんのこと知ってたみたいで」

「おまえ、いつの間に葵と知り合ったんだ」

「ジン、うるさい。葵ちゃんは、あんたと一緒にいる所を見かけるから知ってただけ」

「なるほど、そうか。家でもサクの話はよくしてたし、父さんも知ってるからな。ちなみに、うちの母さんもおまえのことは知っている」

「俺の知らないところで、変な話すんなよ」

 堂々と胸を張る仁に、朔也は頭が痛くなってきた。

 陣内家において、一体自分はどんな人だと認定されているのか、あまり考えたくない。

「安心しろ。いっぱい褒めてある。真面目でいい男だってな」

「むしろ話題にするのを止めろ」

「別に困らないだろ?」

 困る困らないの問題ではなく、なんとなく気恥ずかしいだけなのだが、仁には告げても無駄な気もしている。よく口がまわり、押しも強いが、押しつけがましさは感じない。なんとも営業向きの男である。

 ふと、朔也はカウンターの方に目を向ける。周囲よりも小柄な身体で、仁の従姉妹が十数枚は重なっていそうなトレーを抱えているところが見えた。大丈夫なのだろうか。見ていて非常に危なっかしい。

「葵ちゃん、頑張ってるわね」

「そうだろそうだろ、葵は可愛い」

「あんた、そろそろ兄バカから卒業しなよ」

 呆れつつも、仁美は続ける。

「食堂班に友達の妹がいるんだけどさ。葵ちゃん、みんなの妹ポジションで、ちゃんと受け入れられてるみたいよ」

「――そうか。よかった」

 どこか泣きたくなるような、そんな声で呟いた仁に、朔也は驚く。過保護だと思っていたけれど、ただの庇護欲とは少し違うのかもしれない。

 たしか、妹夫婦の忘れ形見を引き取ったのだと、陣内博史が言っていた。その当時、朔也はまだ入社したばかりの頃で、深い事情は知らないけれど、年配の社員などが博史に声をかけていたことを覚えている。

 朔也自身は弟の立場で、早くに結婚した兄には、すでに中学生の娘がいる。

 考えたくはないが、兄に不幸があって、姪が一人になったとしたら。

 仁の気持ちも少しはわかるような気がした。

「最近来るようになった業者の若い男の子が、葵ちゃんを気にしてるとかなんとか」

「それは許さん」

 やはりただのシスコンなのではないだろうか。

 しんみりした自分を、少し後悔した朔也である。




「さあ、会議をするぞ、サク」

「本気だったのか」

「本気も本気。俺は友の幸せを全力で応援するぞ」

「幸せって……」

「だっておまえは、その人と繋がりを絶ちたくないって思ったんだろ?」

 それはすなわち、相手に対する好意である。

 一方的かつ単純な論法だが、反論できる材料がないところが、結局のところそれが答えなのだと告げていることに気づき、朔也としても認めざるを得ない。

(でも、何も知らないんだぞ。どこに住んでいるかも、年齢も)

 自分で禁じたことだが、今更ながら何も知らないことに気づいて愕然とする。

「逆に考えろ。配慮の出来る紳士であると、相手はおまえをそう判断するはずだ」

「だから、たぶん、女だと思われてるんだって……」

「それちゃんと聞いたのか? おまえが勝手に思ってるだけで、口に――いや、この場合は文字か? とにかく、明らかにはしてないわけだ。じゃあ、なんとでもなる」

「というと?」

「おまえが男だとわかったところで、おまえが嘘をついていたことにはならないってことだ。相手が勘違いしていただけ。おまえが謝る必要はない」

 たしかにそうかもしれない。だがそれは、相手に罪を着せるようで気が進まない。

 そう言うと、仁は首を振る。

「そこは呑み込め。試練だと思って呑み込め。それを乗り越えれば、道は開かれるんだからな」

「道?」

「そう。女性だと思ってた人が、実は男性だった。ここで相手はドキっとする。関係が変わるチャンスだ。相手は確実におまえを意識するだろう。同性だと思っていたからこそ話していたことを、話さなくなるかもしれない」

 朔也がもっとも恐れるのは、そこだ。異性だと知れば、話す内容も変わってくるかもしれない。今まで築いてきた関係が崩れてしまう可能性が高い。ひょっとしたら、もう来なくなるかもしれない。

 無人になったチャットルームに、自分の言葉だけが並び、ログが流れていくことを想像すると、ひどく寒々しい。何もない暗闇に向かって、一人で呟きつづけるような虚無感に襲われた。

 難しい顔をする朔也に、仁は畳みかけるように告げる。

「変化すればこっちのもんだ。おまえは相手にとって、仲のいい女友達から、一人の男になった証拠だからな。意識させつつ、おまえはスタンスを変えるな。今まで偽っていたわけじゃなく、それが素のおまえだってことが、相手に伝わるように。大丈夫だよ。サクはすげー優しい奴だから。だから相手だって、繋がりを切らず、付き合ってくれてるわけだろ? おまえは、おまえのままでいいと思う」



   〇



 昼休みが終わると、あの喧騒が嘘のように食堂は静かになる。売っているお菓子を買いに来る人もいる為、三時までは開放されているが、厨房の火は落とされているので、空いていても食事が提供されることはない。

 売れ残ったパンを、冷陳ケースに並べていく。食堂を閉める頃まで残っていた場合は、従業員は半額で購入できるので、葵もたまに利用している。お店で買うよりも安いからだ。

 乱雑になった椅子を並べていると、食堂の扉から人が入ってきた。

「誰もいませんか?」

「えと、ちょっと、ゴミ捨てとか、で」

 タイミング悪く、今は葵一人しかいない。慌てて駆け寄ると、男は手を振って制した。

「走らなくて構いません。危ないですから」

「は、はい。あの、えと、ご用件は、なんでしょうか、氷上、さん」

「本日締めの書類を受け取りに来たんですが、知っていますか?」

「すみません、わからない、です」

「少し、待たせていただいても?」

「は、はい。どうぞ」

 こういう場合、どうするべきなんだろうと葵は悩む。待っている相手には椅子を勧めるものだが、ここは食堂である。客人に促すのは逆に失礼ではないだろうか。

 では、なにか飲み物を提供しようか。

 しかし、すぐに用意できるのは無料の水ぐらいで、自動販売機を使おうにも葵は現金を持ち合わせていない。

 ぐるぐる考える葵に対し、氷上朔也は手で口元を覆っている。心なしか肩が震えているのは、もしかすると笑っているのだろうか。

 目が合うと、眼鏡の向こうの瞳は、思ったよりも柔らかかった。

 この人は、眼鏡で損をしているのではないだろうかと葵は思う。それと同時に、とても似合っているようにも思うので、不思議で面白い。

「お構いなく」

「はい……」

「望月さん」

「は、はいっ」

「お仕事は大変ですか?」

 途端、ぐっと息が詰まり、動悸が激しくなる。

 ついに、更新の有無が決まるのだろうか。鈍くさいし、モタモタしてばかりの自分は、やはりもう駄目なのか。

 うつむき、せりあがる涙を抑えつつ、葵は声を振り絞って答えた。

「いえ、あの、だい、大丈夫、です。頑張り、ます。……もっと」

「――面談ではありませんから、そんなに構えないで大丈夫ですよ。私は経理です。人事裁量権はありません」

 参ったな……と小さく呟く声が聞こえ、葵は顔を上げた。眉を下げた朔也が、本当に困ったようにこちらを見ている。

「すみません。あなたを責める気持ちは少しもないのですが、そう聞こえてしまったのであれば、謝ります」

「そんな、ことは」

「ジンが大袈裟に心配していたので、本人の気持ちはどんなところだろうかと思っただけで」

「ジンくんが、ですか?」

「あれは少々鬱陶しいでしょう?」

「……心配ばかり、かけてて。だから、少しでも、ちゃんとしなくちゃって、思っては、いるんです、けど」

「あなたはちゃんとしているでしょう。ジンの方がよっぽどガキだ」

「ちゃんと、出来て、いますか?」

 思わず訊ねた葵に、経理の鬼と称されている男は答える。

「私が食堂に入ってすぐ、あなたは自分の仕事より、私を優先しましたね」

「お待たせ、しては、駄目です」

「そうですね。当たり前のことをきちんと遂行できる。それは、良い資質だと私は思います」

「あ、氷上さん。お疲れ様です」

 休憩から戻ってきた従業員の男が、二人に気づいて声をかける。朔也は書類の件を男に訊ね、葵はそろそろと場を離れた。そして、途中になっていた、椅子の整頓作業を再開する。

 ちらりと視線をやると、書類を受け取った朔也が出て行く姿が見える。姿勢が良くて、まっすぐに前を向いて歩く姿は、男性に対して表現するのはどうかと思うが、凛として美しいと思った。



望月もちづきさん、大丈夫だった?」

「なにが、ですか?」

「氷上さんの相手。ごめんね、一人にしちゃって」

「恐く、ないです、よ?」

 手を合わせて謝ってくる男に、葵は首を傾げる。ゴミ捨てから戻ってきた女性二人が、葵に平謝りしている男を見て、気色ばんで間に入った。

「ちょっと、もっちーに何したの!」

「大丈夫? おねーさんに言ってごらん?」

「ひでえ! なんもしてねーし! ね、望月さん」

「はい、ないです、なにも、ないです」

「氷上さんが、経理に出す書類取りにきててさ。ちょうどみんな出払ってて、望月さんしかいなくて」

「鬼の餌食になったの!?」

「ちょっと、責任重大じゃないのよ。なんでもっちーに相手させたのっ」

「俺一人が悪いわけじゃなくね!? 連帯責任連帯責任っ」

 騒ぎ立てる三人を尻目に、葵は精一杯声をあげた。

「平気、です。氷上さん、いい人。褒めて、くれました」

「もっちーが褒められたの?」

 こくりと頷くと、三人は顔を見合わせて、互いに感嘆の息を漏らした。

「あの氷の男でも、望月さんには強く出れないのか」

「氷上さんは、従兄の、友達、ですから」

「あー、あのいつも元気な人ね」

「前から思ってたんだけどさ、あの人、ジンっていうのは、陣内から来てるのか、ひとしをジンって読んでるのか、どっちなの?」

「どう、でしょう? たぶん、名前の方だと」

 葵にしてみれば、物心ついた頃から、仁はジンと呼ばれていたので、そのまま素直に「ジンくん」と呼んでいたに過ぎない。第一、両親すら息子のことを「ジン」と呼ぶのだ。「てめーらでつけた名前で呼べよ」と仁が呆れる姿は、何度となく目撃している葵である。

 聞いた話によれば、母親の京子が、自身の息子に「じん」と名付けたいと思っていたそうで。ところが、結婚した相手が「じんない」だったものだから、困ってしまったらしい。「じんないじん」というのは、あまりにも子供がかわいそうだ。そこで、漢字は採用して、読みを変えた。「ひとし」にしたのはいいけれど、父親の名前が「ひろし」である。似ていてややこしい、ということで、ついた呼び名が「ジン」だったという。

 それを聞いて、葵はちょっと従兄が気の毒になったが、本人は現在「じんないじん」という冗談のような読み方をネタにして、営業で名前を売っているらしい。

 そういう従兄のことを、葵はひそかに尊敬している。

「氷上さんと陣内さんって、同期で仲が良いって聞いたことあるな」

「なるほど。友達の従妹いとこってきけば、気持ち的に近くなるよね」

「なんにせよ、もっちーが泣くことにならなくて良かった良かった」

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