第3話 願いごと、ひとつ
定時であがり、家に帰った
自分が最初にメッセージを送ったのは、八時をまわった頃だっただろうか。一晩おいて相手からの返事があったのは、さらに遅く九時を過ぎていた。そのことから推測するに、相手が仕事から解放されて自分の時間を得るのは、夜も更けてからなのだろう。
となれば、謝罪の言葉を送るのも、その辺りの時間帯を選んだ方が良いのではないだろうか。返信があった時、すぐに対処できるよう、自分もある程度のことは済ませておく必要もある。
業務上、仕事を家に持ち帰ることはないし、来客予定もない。時間は十分にあった。
色々と考えて文面を作成していく。
"先日はいきなり失礼しました――"
文字数制限がある為、必要最低限の内容を打ち込んでいく。
月が好きだった祖母の番号に送ってしまったこと、届く相手がいるとは思っていなかったことを記し、朔也はメッセージを送信した。
しばらく緊張して待つ。なにやら、非常にドギマギする。誰かにメールを送って返事を待つという行為は、随分と久しぶりだった。時計を見ても、数字は一向に変わらない。一分は、こんなにも長かっただろうか。
コーヒーでも飲むかと立ち上がった時、短いバイブ音が机の天板を響かせる。
(返事が、来た――?)
待っていたはずのそれが、ひどく恐ろしい。
覚悟を決めて手に取ってみると、短い言葉が並んでいた。
"私の方こそ、変な言葉を送って、すみませんでした"
相手は、怒ってはいないのだろうか?
これだけでは読み取れない。だが、ここからさらに「いいえ、こちらこそ」と送ってしまうのは、少々しつこい気もする。それこそ
握ったスマホを睨んでいると、再び端末が震えた。今度はもう少し長い文章が書かれている。
"月が綺麗ですのお返事をと考えた時に浮かんだ言葉を打ち込みんだのに、旨く打てなくて言葉が抜けてしまった。ごめんね"
"ごめんなさい。失敗が多いです"
慌てているのか、言葉が乱れている。
朔也も経験があるが、予測変換のせいで、おかしな言葉が先んじて入力されてしまい、それに気づかず打ち込んでいるのだろう。祖母もたまにそういうところがあったことを思うと、まるで本当に祖母から返事が来たような感覚に襲われる。
"この度は本当にご迷惑をおかけしました"
"いいえ。本当に綺麗な月だったので、ビツクリでした"
"また間違った"
"ごめん"
"ごめんなさい"
短く、細切れに、謝罪が飛んでくる。
相手はよほど慌てているのか、はたまた操作に慣れていないのか。
どちらにせよ、なにやら微笑ましくも感じられ、朔也は口元が緩む。
"ゆっくりでいいですよ。入力に慣れていないんですか?"
"春から、スマホにかえました。文字打つのへたです"
"私もスマホの入力は苦手です。ボタンを押して入力する方が分かり易いですよね"
"そうなんです。スマホ便利っていわれたけど、わからないこと沢山で。最初のメッセージも、一回消えてしまって、どこで確認できるかパソコンで調べました"
ゆっくりでいいと伝えたせいか、間を置いて、やや長文が返ってきた。
返信が翌日だったのは、受信したSMSの保管場所が分からず、探していたせいだったのかと納得する。そして、調べてまで返事をしようと考えたらしいことが分かり、なんとも不思議な気持ちになった。
朔也が相手の立場だったとすれば、見知らぬ番号からメッセージを受信したとしても、わざわざ返信などはしないだろうと思う。無料でメッセージをやり取りできるアプリが広まっている中、わざわざSMSを使うなんて、あやしいことこのうえない。
"お手数をおかけしまして、申し訳ないです"
"いえ。満月嬉しかったから、ありがとうございました"
"私も、嬉しかったです。返信をいただけて"
"でも、ひどい言葉でした"
"同僚に聞きました。あれは、月が綺麗ですねの対になる言葉である、と"
"文字が抜けたせいで、とても冷たい言葉になってしまいました"
"失礼をした私に、美しい返事を考えてくださったのですから、逆にありがたいというか。勉強させていただきました"
"電池が危ないです"
唐突に告げられた言葉に何事かと思ったが、おそらくスマホの電池が、ということだろう。
時計を見て、随分長々とやり取りをしていたことに気づいて、朔也は驚いた。
"では、この辺りで終わりましょうか。色々ご迷惑をおかけして、すみませんでした"
"また、お話してもいいですか"
どこか名残惜しい気持ちを覚えながら、打ち込んだ文章を送信した朔也は、相手から送られてきたメッセージに目を見張る。
震える手で画面をタップしながら、迷いなく言葉を送信した。
"私の方こそ、喜んで"
〇
目覚まし時計を止めた後、のそのそと掛け布団から這い出して、
この部屋に越してきたのはゴールデンウィーク前で、冬服はダンボールに仕舞いこんだまま、クローゼットで眠っている。そのうえ、荷物が増えるのもどうかということで、半分ほどは陣内の家に置いたままになっているのだ。果たしてパジャマはどうだっただろう?
(京子おばさんにメールしてみようかな……)
充電の終わったスマホに手を伸ばし、コードが付いた状態で画面ロックを解除する。
ポータルサイトからのニュース配信、天気予報など、いくつかの通知が並んでいるのを、ひとつずつ消していく。暇つぶし用にインストールしたゲームの通知もたくさんあって、削除するのも一苦労だ。
やっとすべての通知を消した後、スマホからコードを抜き、テーブルの上に置く。そして、お湯を沸かしに台所へ向かった。カップを取り出し、インスタントコーヒーの粉を入れていると、スマホが震える音が聞こえて、スプーンを取り落とす。笛を鳴らすヤカンの火を止めて、
手に取って確認すると、芸能人同士の結婚を報じるニュースが届いている。
(……なんだ、ビックリした)
肩透かしを食らったような気分でヤカンの所へ戻り、カップにお湯を注ぐ。次にコーヒーフレッシュを入れて、スプーンでゆるくかき混ぜる。
ゆっくり、ぐるりぐるりと螺旋を描くように溶けていく様を見るのが、楽しくて好きだ。溶け込まず、わざとマーブル模様になっている状態で飲むのが葵の飲み方なのだが、仁は葵のカップを覗き込んでは勝手にかき混ぜてしまうので、注意が必要だった。
今は一人なのでその心配はないのだけれど、時々寂しくなる。陣内家では、いつも誰かなにかしら話しかけてくるのが日常だったので、どこか物足りないような気がするのかもしれない。
だから、だろうか。昨日、あんなことを言ってしまったのは――。
コーヒーとパンを手に部屋に戻り、スマホを手に取って、覚えたての操作方法で受信したメッセージを確認する。
"では、この辺りで終わりましょうか。色々ご迷惑をおかけして、すみませんでした"
"また、お話してもいいですか"
"私の方こそ、喜んで"
最後に並んだその応答を目にすると、こそばゆい気持ちになる。
満月を教えてくれた人は、とても丁寧な人だった。焦って、ミスタップが増えて、誤字脱字だらけになっている葵の文章に対し、ゆっくりでいいから、と怒りもせずに接してくれた。
普段の生活で、咄嗟に声が出なくなって焦ってしまう時、相手からは苛立っている様子が伝わってくることが多い。昨日のメッセージも、それに似た焦りを覚えていたが、相手の人は、焦らなくていいのだと言って、待っていてくれた。そのことが、とても嬉しかった。
送りあった言葉はさほど多くはないけれど、慣れない操作で時間がかかり、あっという間に一時間が経過していたことには驚いた。こんなことになるとは思っていなかったので、スマホの充電も、帰宅した時に半分程度に減った状態のままだった。電池がもっとあったならば、まだ続けていたかもしれない。
この辺りで終わりましょう、と告げられた文字を見た時、葵は追いすがった。
三日前に知った――、知ったとも言えないぐらいの、知人と称するにもあやしい人に、葵はすがってしまった。
交わした言葉は楽しくて、もう少し、と思ってしまったのだ。
この人は、どんな人なんだろう。
柔らかくて、丁寧な言葉遣い。
年上の、大人の女性だろうか。
亡くなったお祖母さんの電話番号を、消さずに残してあったと言っていた。
うん、優しい人だ。
葵は頷く。
今日は仕事から帰ったら、充電しておこう。
帰宅後の楽しみが出来たことが嬉しくて、笑みが浮かんだ。
「
「なん、ですか、これ」
「パンの仕入れ業者を変えようかって話があるらしいのよ」
「今のとこ、地味だもんねぇ」
「可もなく不可もなくって感じ?」
食堂で働く三人の女性同僚に囲まれて、葵は並べられた数種類のパンを眺めた。
ひとつは普段並んでいる見慣れたもの、残りは、少し小ぶりで、洒落た印象のあるパンがいくつか並んでいる。こちらが新しい業者の物なのだろう。
「美味しそう、ですね」
「だよねー」
「どうも、
「男性陣は、小さすぎて食べ応えがなさそうって言ってるけどね」
上原というのは、厨房で調理を担当している男性だ。料理学校を卒業しており、なんでそんな人が社内食堂で料理をしているのかと不思議に思われがちだが、本人はわりと気に入っているらしい。
凝った創作料理より、馴染み深い、普通の料理をきちんと作れる料理人になりたい、というのが本人の弁。
夢は定食屋だそうで、なるほどたしかに社食はいい勉強の場になることだろう。
その上原の知人が経営しているパン屋が、個人病院にパンを卸しており、来院者だけではなく、病院関係者にも喜ばれているという。場所を増やそうかと考えていると聞いて、社員食堂のことを提案したらしい。
いかにも業務用といった大量生産丸出しのパンより、個人商店のパンの方が、手作り感があり、購買欲は増すだろう。
「小さいけど、見た目が素敵、だから、女の人は、嬉しい、ですよ、ね」
「でっしょー。今のやつって、とりあえず腹に入ればいいやって感じでさ、あれならコンビニのがマシ」
「高村さーん。望月ちゃんも賛成だって」
控室の賑わいに、葵はドキドキする。お喋りな人達が多いし、昼時の賑わいに負けない声を出すせいか、声の大きい人もたくさんいる。
そんな中、小さく細切れに話す葵は、周囲に埋もれがちで、それを苦に感じたことは特にはないけれど、臆せず話しかけてくれることは、やっぱり嬉しいと思う。
「デザートも欲しいよねー」
「シュークリームとか、プリンとか」
「社食は女性の要望も聞くべき!」
「そうは言っても、生菓子は管理が難しいから」
食堂班のトップである高村が、暴走を止めようと声をかけるが、走りだした会話はそうそう簡単に止まらないのが女性というものだ。
「大丈夫。余ったら貰ってあげるし」
「タダで手に入れようとか、あんたセコすぎ」
「や、タダとか言ってないじゃん。お金ぐらい払うって」
「値引きしてくれたら、でしょ」
「え、してくれないの?」
「それ見越して発注かけそうで、あんたに仕入れは任せらんないわ」
「望月さんもそう思わない?」
「え? あ、えっと」
「遠慮しなくていい。言ってやんなって」
「望月ちゃんとじゃ、身体の大きさ倍ぐらい違うもんね、あんた」
「倍はひどくない?」
「でも、小さいよね、望月さん。――あ、ごめんね。低いの気にしてたら。悪い意味じゃないの。可愛いなーって思ってるだけだから」
「そうそう。お人形さんみたいな子キターって、みんなのテンション上がったんだから」
「持って帰りたい可愛さだよね」
「そんな、ことは、ない、です……」
恥ずかしい。誉め言葉は嫌味に感じられることも多いが、食堂にいる人達のそれは、いつもとても暖かい。
伯父が紹介してくれたこの場所は、葵にとって居心地の良い職場で、初めての勤め先がこんな良い所でいいのだろうかと思ってしまう。
今の立場は三ヶ月ごとの契約社員だ。正規雇用されるためには、推薦と面談が必要になるが、面談は、葵にとって一番高いハードルだ。超える自信は、まだ持っていない。
今の葵に出来ることは、伯父の顔をつぶさないように、与えられた仕事を
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