第2話 まほうのコトバ
インターネットは便利だ。知りたいことを検索窓に打ち込むと、たちどころに答えを拾い出して提示してくれるのだから。辞書や百科事典を作る会社はきっと大変だろう。
恩恵にあずかりながら、
写真付きで解説があることに感謝しながら、手元のスマートフォンを操作して、目的の場所へ辿り着く。
昨日、受け取ったメッセージ。どこかに隠れてしまったあの言葉をようやっと発掘し、安堵の息をついた。
月が綺麗ですね
夏目漱石が意訳した愛の告白文として知られる言葉であり、それを加味して返事をするとしたら「死んでもいいわ」だろうか。
画面上のキーボードを押して文字を打ち込んだ後、葵の手は止まった。
果たして、これを送信してもいいのだろうか。相手がどんな意図をもって送ってきたのかもわからないのに、いきなり返信をするのは失礼かもしれない。
考え込んだ葵だったが、スマホを持ち換えようとした時に指先が画面に触れたせいで、無情にもそれは送信されてしまう。もっと最悪なことに、よく見ると打ち込まれた言葉には文字が抜けており「死んでいい」になってしまっている。
葵は、震えあがった。
(ど、どどどど、どうしようっっ)
綺麗な月夜を教えてくれた人に対し、死んでいい、なんて。
匿名ネット社会にありがちな攻撃的な言葉は、不特定多数に向けられているからこそ許容されるものだろう。けれど、今回のそれは、受け取る人はたった一人なのだ。
胸が痛い。手が震えてくる。
追従するように、もう一度言葉を送っていいのだろうか。伝えなければ、今の言葉はそのまま相手に伝わり、そして少なからず相手を傷つける。
"ごめんなさい"
どう言葉を返すべきかわからなくて、葵はその一言を送信した。
相手がどう思い、どう返してくるのか。緊張しながら待っていたが、結局、なにも返ってくることもないまま夜は更け、葵は眠りについた。
翌朝の目覚めは当然良いものではなく、食欲も湧かないまま職場に向かう。
葵は短時間勤務の為、出勤・退勤時間は通常の会社員とは違っている。おかげで、混雑したバスとは無縁で助かっているが、いずれ他の人同様に朝から仕事に行くことになれば、緊張を強いられるかもしれない。少しずつ慣らしていけばいいと伯父の
葵が出勤すると、すでに調理は始まっている。厨房の隣にある従業員用の控室にあるパソコンから、日替わりメニュー案内を印刷し、入口に貼りだすのは葵の仕事だ。掲示物をチェックしたり、季節によってディスプレイを変更したりするのも葵に与えられた業務なので、入れ替わりのある月初はいつもよりは忙しい。
今日から十一月仕様へ変更となる。といっても、まだ秋っぽい雰囲気を保ったままで、紅葉を感じさせるものを配置していくだけだ。十月はお月見ということで、ウサギと満月だった。それを撤去しながら、葵は再びメッセージのことを思い出す。
(……どうすればいいんだろう。すごく怒ってるのかな)
謝罪の言葉は送ったけれど、単に「ごめんなさい」だけでは意味がわからないだろう。
かといって、死んでもいいわと打ち込んだつもりが、文字が抜けていました、と送ったところで、一度送られた言葉の衝撃は消えない。それ以前に、月が綺麗ですねという言葉が、本当にただ純粋に、見上げた月の美しさに感動しただけだったとすれば、葵の言葉は的外れであり、結果的に葵は相手を不必要に傷つけただけになってしまう。
(返事なんて、しなきゃよかった……)
知らない相手から送られた言葉なんて、最初から無視しておけばよかったのだ。
あるいは、上手い切り替えしなど考えず、「そうですね」と同意する言葉を送っておけば、何の問題もなかったに違いない。ちょっと洒落た返事をしてみようなどと思ったことが、そもそもの間違いだったのだ。
社内の食堂は、カウンターで注文品を受け取り、専用カードで精算を行う。厨房内で作られているもの以外に、パンやお菓子も並んでおり、こちらは基本レジ清算だ。いずれカードでの支払いを考えているが、パンは外部から仕入れたものである為、伝票上の処理が少々面倒であるらしい。
売り上げが高いわけではないが「あったら便利」という声は少なくない為、止めてしまうわけにもいかず、売り続けている。買っておいて夕方食べる人も多く、お昼を食べた帰りに購入していく社員が多かった。
葵は清算係として立つ機会はほぼないといっていいが、人手が足りない時などは応援に回ることもある。今日もたまたまそんな時で、カウンターにいる女性たちが注文対応にかかっているタイミングで、パンを持った男性がレジ前に立った為、葵はそこへ駆け寄った。
値札シールの数字を打ち込み、金額を告げる。内税価格を表示しているので、十円単位で端数は出ない。
「四百、五十円、です」
「え? なに?」
葵の出した声は、隣で行われている注文の声にまぎれて、相手の耳に届かなかったのか、聞き返される。
「よ、よんひゃくっ」
咄嗟のことで息が詰まり、出す声が裏返る。財布を持った男性社員は、怪訝な顔で葵を見つめ、葵はさらに泣きそうになった。
「四百五十円」
「あ?」
「端数も出ない単純な足し算だ。悩む必要もないだろう。ここにも表示されている」
後続の男性が口を挟み、長い指がレジの電光表示を叩いた。指摘されたことが不満だったのか、男性社員は舌打ちをして、設置しているトレーに小銭を投げ入れ、二種類のパンを入れた袋を掴んで、去っていった。
呆然と見送る葵に、新たに現れた男性は、自身のパンを台へ置く。そして、ちょうどの金額をトレーへ置いた。
我に返り金額を打ち込むと、開いたレジに小銭を投入し、レシートを差し出した。
「袋はいらない。どうもありがとう」
「あ、はい。ありが、とう、ございまし、た」
ペコリとお辞儀をして見送る。間を置かず次の客が来て、葵が「いらっしゃいませ」と向き直る。そこにいたのは女性で、かつ見知った顔だった。
「葵ちゃん、大丈夫?」
「はい。あの、平気、です。失敗、しちゃいました」
苦笑いを浮かべる葵に、女性――
「さっきの二人、どっちもどっちっていうか、極端なのよね」
「さっき、の?」
「最初の奴、
「はい。怒ってる、とは、思ってない、です」
「あらそう?」
「ジンくんと、仲良い人、ですよね?」
仁と一緒にいるところは、食堂でもたまに見かける。陽気な仁とは裏腹に、とても静かで理知的な印象の氷上は、銀フレームの眼鏡も相まって、どこか冷たい印象もある。経理を担当している為、食堂班のメンバーには馴染み深い人なのだが、淡々と業務をこなす彼の内情を、誰も深く知らないらしい。陣内家の二人から話を聞いていなければ、葵だって苦手意識を持ったかもしれない。
「そうだ。今度、ケーキバイキング行こうよ」
「行きたい、です」
「美味しいとこがあるっぽいのよ。詳しく聞いとくから楽しみにしといて」
「はい」
「じゃあ、頑張ってね」
「はい。仁美さん、ありがとう、ございます」
●
「サク、なんか失敗でもしたのか?」
「ミスはしていないと思うが」
「や、仕事の話じゃなくてさ、プライベートな話」
昼食が終わり、休憩スペースの端に座っている
「スマホ睨みつけてっからさ、やばいことでもしでかしたのかと思って」
「やばいこと……」
仁に指摘され、朔也は口をつぐんだ。
やばいといえば、やばいかもしれない。だが、どう説明したものか――
考えながら、朔也は口を開いた。
「死んでくれと言われた」
「はあ? 誰にだよ」
「誰、というか――」
祖母の電話番号に向けて、うっかりメッセージを送ってしまったこと。
受け取った相手がいるとは思っていなかったが、昨晩返事が来たこと。
そこに書かれていたのが「死んでいい」だったこと。
「――そして、間をおかずに、ごめんなさいという言葉が届いた」
「はー。おまえ、それは相当怒ってたんじゃね? 知らない相手からいきなりメッセージが届くとか、ホラーだろ」
「そうだな」
「で、思わず、死ねって返しちゃって。そんで、やっぱちょっとキツかったかなーって思って、ごめんなさいだ。さっきはごめんなさいであり、もう関わりたくないという意味での、ごめんなさい。二重の意味だろ」
「……どう返すべきだろう」
「おまえ、チャレンジャーだな。この上さらに送るとか、マゾか」
「最初に礼を欠いたのはこっちなんだから、俺からも謝罪すべきだろ」
「それも一理あるけど、どうだろうな。あ、おい、こっち、ヘルプ! ヘルプミー!」
仁はそこで急に立ち上がって誰かを呼び止めた。朔也がその方向に視線をやると、仁の彼女である坪内仁美の姿がある。整った顔を歪め、それでも無視せずにこちらにやって来るあたり、彼女の人の良さがうかがえた。
「ジン、うるさい」
「仁美、助けろ、ヘルプヘルプ」
「うっさい。勝手にやってろ」
「俺じゃなくて、こっち。サクを助けてやって」
「はあ?」
そこで仁美は朔也に顔を向け、幾分表情を和らげて問いかけた。
「氷上くん、ジンにどんな難題吹っ掛けられたわけ?」
「どっちかというと、俺が問題を出した方なんだけど……」
先ほど、仁にしたのと同じ内容を、仁美にも伝える。すると、彼女は目を閉じて、こめかみに指を当てて考え込んだ。
「な、追撃はしない方がいいっておまえも思うだろ?」
「このままにする方がよくないだろ」
「でもさ、死ねって言われるぐらいだぞ。嫌われてるとかいうレベルじゃねーだろ」
「だからこそ、不愉快な思いをさせたことをお詫びすべきであって――」
「あー、ごめん。ちょっと待って。たぶん、だけど、二人とも勘違いしてると思う」
仁美は二人を手の平で制すると、朔也に向けて訊ねる。
「氷上くんさ、月が綺麗ですねって言葉の意味、知ってる?」
「意味?」
「あー、わかった。知らないんだね」
仁には聞きもせず、仁美は己のスマートフォンを取り出すと、ブラウザを立ち上げて検索をかける。
「月が綺麗ですねっていうのはね、夏目漱石がI Love Youを日本語に訳した言い回しなんだよね」
「なんだ、それ」
「日本人は、欧米人みたいにストレートに愛を口にする民族じゃないでしょう? もっと、遠回しな表現をするんじゃないかってことで、そういう表現を考えたんだって。綺麗な月を一緒に見たいと思うのは、大切な人でしょう?」
検索画面を朔也の前に差し出し、指で該当箇所を示す。
「で、月が綺麗ですね、に対する返礼として、二葉亭四迷が翻訳した言葉が使われたりするらしいのよ。それが、死んでもいいわ」
たぶん、それを真似て返そうとして、中途半端に覚えていた人が間違えちゃったんじゃないの?
冷静に考えて、死を交えた言葉を返すのは失礼かもって思って、ごめんなさいって謝ってきた、とか。
仁美はそう結論づけて、朔也の言葉を待つように黙った。大声を上げそうな仁は、一睨みして黙らせておくあたり、流石といったところか。よく飼いならしている。
どちらの考えが正しいのかはわからないが、仁美が言ったような考えもあることを知り、朔也は決めた。
「ありがとう。そっちの可能性も考慮して、やっぱり謝罪は送っておくことにするよ」
「意外と恋が生まれるかもしれんぞ」
「あんた、ついさっきまで、ストーカーだのキモイだの言ってたじゃないの……」
「サクほど真面目な奴はいないだろ」
「氷上くんが真面目なのは同意するけど、調子に乗ってけしかけるのはやめなさいよね」
仲のいい二人を見つつ、朔也は返す言葉を考え始めた。
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