名もなき「あなた」に届く声

彩瀬あいり

第1話 月のかたち

 月が綺麗ですね


 チカチカと点滅するスマートフォンに表示されたメッセージにあったのは、そんな文言だった。

 電話帳に登録されていれば名前が出るはずだが、電話番号だけということは、知らない人だろう。

 誤送信。

 そう判断した望月もちづきあおいは、どう対処するべきか悩んだ。

 もともと人付き合いが苦手な葵である。気軽にやり取りが出来る友人は近くにはいないし、こんな風にメッセージを受け取ることも稀だ。お世話になっている伯父さんは、用事がある際にはメールをくれる。SMSは、携帯電話の機能として備わっていることは知っているけれど、使いこなせるほど葵は器用ではなかった。

(どうしよう……。返事とか、した方がいいのかな……)

 宛先を間違えてますよ、と返しておいた方がいいのか、それとも知らない振りを貫いておくべきか。

 おまえはトロくさいんだから、用心に用心を重ねるぐらいでいいんだ、と従兄いとこに忠告された言葉が頭をよぎる。これは「用心」の範疇だろうか。

 スマホの画面を見ながらグルグルと考えていた葵は、ふと立ち上がりカーテンを開けた。

 送り主が伝えるところの「月」について、現状確認をしておこうと考えたのだ。今日の天気は良好だったので、月が顔を出しているのかもしれない。

 マンションの三階から見える空は、周囲の建物に阻まれてお世辞にも綺麗とはいえない。陽当たりが格段にいいわけではないけれど、その分、夏場の直射日光も遮られているので、良し悪しだと思っている。

 視線を上げると、ぽっかりと浮かぶ月が見えて、葵は息を呑む。

(まんまるお月様だ……)

 雲のない夜空に、くっきりとした輪郭を持って見える満月がそこにあった。

 なるほど、これはたしかに綺麗だ。

 思わず、誰かに話し聞かせたくなるほど。

 気持ちを共有したくなるぐらいに、美しい。

 こんなものに気づかせてくれたからには、メッセージの先にいる「誰か」を無視してしまうのは、なんだか悪いような気がしてくる。名前も性別も知らないけれど、今、この瞬間。同じ月を見て、感嘆の溜息を洩らした人と自分は繋がっている。

 そう思うと、ドキドキした。

 葵は、おそるおそる画面をタッチする。

 しかし、返信の仕方がよくわからない。どこに入力して、どこを押せばよいのだろう。

 便利だからと言われて機種変更したスマホだが、未だ全貌がつかめない未知の機械を、葵は持て余している。そうこうしているうちに、どこかに触れてしまったらしく、メッセージ画面が消え、壁紙と幾つかのアイコンが並ぶ見慣れたホーム画面が現れた。

「え、あああ、消え、消えちゃったっ」

 さっきのあれは、どこにあるのだろう。メールであれば、メールアイコンを押せばいいけれど、どうもそうではないらしい。

 慌てついでにスマホを床に落としてしまい、葵は再度悲鳴をあげた。



   〇



 昼食時間に向け、今はもっとも忙しい時間帯だ。調理にかかわっていない葵は、何枚かのダスターを持って、テーブルを拭いてまわっている。汚れがついた面を裏返し、そこが汚れるとダスターを広げて折り返して使う。両面を使ってしまえば、新しいダスターと取り替えて、同じ作業を繰り返す。

 テキパキ動いているとはいえないけれど、テーブル全体を満遍なく丁寧に拭いていく葵の仕事は、上司である高村にとって満足のいくものだ。以前雇っていた女性は、作業は早いけれど、テーブルの中央を丸く拭いて終わらせることが多く、四角いテーブルの角部分やふちに汚れがたまり、蓄積した汚れはなかなか落ちなかった。

 爪を長く伸ばし、何度注意しても切ろうとしない。長い髪をゆるく結わえ、所々で垂らしているところも不衛生極まりない。業務外なら好きにすればいいが、食べ物を扱っている場における髪型ではない。

 当然、厨房には立ち入らせず、主な業務は清算役。とはいえ、社内食堂は社員用のカードが支給されている為、現金払いをする人はごくわずかだ。結局はただ「立っているだけ」の状態で、主に男性社員に愛想を振りまくということで、評判がすこぶる悪かった。

 契約の更新はせず辞めてもらい、新しく雇われたのが、望月葵だ。縁故採用ということではじめは心配されていたが、なかなかどうして悪くない。大人しい気質で、黙々と仕事をこなす。事故に巻き込まれた際の後遺症で声が出しにくく、そのせいもあるのか、面接で不採用になってばかりだったという。採用側の気持ちも分かるだけに、高村としては居心地が悪い思いがしたものだ。

 声が細く、つっかえつっかえ話す様子は少々子供じみているが、それが嫌味にならない程度に品があるのが救いだろう。

 食堂班内の評判も悪くはなく、葵自身もそれなりに周囲に溶け込んでいるように見えて、高村は安堵していた。




 十二時半を回り、食堂の賑わいも薄れてきた。わざと時間をずらしてやってくる人もいるが、波は引いたといってもいいだろう。

 カウンターの中も一段落といったところで、葵の洗う食器類も数が減ってきている。乾いたトレーを棚に収納するついでに、食堂の様子を覗いてみる。もう少ししたら、テーブルの掃除に行こうと、決めた。

「葵、調子はどうよ」

「どうって、普通、かな」

 カウンター越しに声をかけられた葵は、おずおずと答える。

 刈り込んだ頭とガタイの大きさからスポーツ選手を思わせる人物は、葵の従兄、陣内じんないひとし。この会社で、営業として働いている三十歳の男だ。働き始めた葵を気にかけ、こうして声をかけてくる。

「そこはおまえ、モリモリ元気だよ、とか言っとけよ」

「ジンくんに、かかれば、人類みんな、元気だよ……」

「そうか? じゃあ、葵も元気ってことだな!」

「そうか、な」

「頑張る葵にご褒美をやろう」

 ひとしはニカリと笑うと、握りこぶしを突き出した。その下に手を伸ばすと、ぽとりと飴が落とされる。ミルクキャンディー。葵が好きな飴だ。「じゃあなー」と手を振って出て行く姿を見送っていると、葵の背後から同僚女性が声をかけてきた。

「陣内さんだっけ、あの人」

「はい、そうです」

「随分、仲がいいんだねぇ」

「お互い、一人っ子、なので」

「私にも兄がいるけど、あそこまで可愛がってはくれなかったなー」

「……構われ、すぎるのも、大変、です」

「そりゃ、そうだ」

 つい零すと、彼女は笑った。二十歳の葵より、五つほど上だという女性の兄となれば、仁と同じぐらいかもしれない。世間でいうところの「兄」がどんな位置にあるかはわからないけれど、仁の態度は少々度を越していると葵も思っている。

(しょうがないのかもしれないけど、やっぱりちょっと、過保護だよね、ジンくん)

 中学の頃、旅行先の事故で両親を亡くし、葵自身も怪我を負った。仁にとっては、その頃のイメージが消えないのだろう。

 ということはつまり、自分は当時から成長していないのだろうか。

 そうも思えて、葵は少し落ちこんでしまう。独り暮らしを決めた時も、随分と引き止められた。葵の肩を持ってくれたのは仁の母親である京子きょうこの方で、彼女の後押しがなければ、葵は未だに陣内の家で暮らしていたかもしれない。

 伯父の博史ひろしが選定したマンションに越して、半年ほど。陣内一家の誰かしらがちょくちょく様子を見に来るので、あまり寂しさは感じていない。葵自身も陣内の家にご飯を食べにいくこともしょっちゅうで、「やっぱり家に戻ってくれば」と博史が呟き、そのたびに京子が夫を叱責するのが、お決まりのパターンだ。

 それでも、戻る気はない。いつまでも、甘えてばかりでは駄目だと思うからだ。

 声が詰まるのは、精神的な影響もあるのだろうと、医者にも言われている。事故を忘れることは出来ないけれど、そこに囚われていれば、先へは進めない。

 そう思ったから家を出たし、伯父一家もそんな葵の気持ちを知っているから、自由にさせてくれている。

 少しずつ、前へ行こう。伯父の紹介というのが少しズルをしているけれど、やっと得た就職先だ。

 葵は小さく握りこぶしを作り、厨房内へ戻った。



   ●



「締め切りはきちんと守っていただかないと困ります」

「でも……」

「先月も同じことを申し上げたと思うんですが」

「…………」

 憮然とした表情を浮かべる女性の内心は、「私のせいじゃないのに」といったところだろう。申請を怠ったのは別の男性社員で、彼女は課内の書類や申請を取りまとめて、総務へ回す立場の人間でしかない。だが、それが彼女の「仕事」なのだから、期限までに間に合わせる努力をするべきだろう。くだんの社員に対して直接声をかけるとか、やり方はあるはずだというのが、総務部経理、氷上ひかみ朔也さくやの考えだ。

 すみませんでしたーと語尾を伸ばして背を向けた彼女は、あとで周囲の同僚女性に愚痴を吐くのだろう。またアイツに文句言われた――と。

 一日の遅れも許してくれない、締切マニアの経理の鬼。氷の心を持つ男。

 それが、氷上朔也にひそかに付けられた渾名であることを、彼自身も知っている。

 社内の人間関係は、バレていないと思っても、意外と総務に集約されてくる。人事に直接かかわっているわけではなかったが、そちらの担当である陣内博史が、心配して声をかけてくれたのだ。

 おまえは正しい。正論ばかりを言う奴は、煙たがられるもんだ。あまり気にするな――と。

 人事グループのリーダーだけあって、彼は相当に面倒見のいい社員だ。朔也も入社時には世話になったし、今も同様に気にかけてくれていると思う。

 だが、彼が自分によく声をかけてくれるのは、同じ部の仲間であるというだけではないのだろうとも感じている。表立って言うわけにはいかないだろうが(人事に私情を挟んではいけないだろう)、陣内博史の息子であるひとしが、朔也と同期入社であることに起因していると思われた。

 陣内仁は、明るいムードメーカーで、朔也とは真逆の性質を持つ男だ。燃えたぎる炎のような仁は、誰からも好かれる性質たちで、自分には縁がないタイプの人間だと思っていたが、何故か気に入られてしまっている。彼のように陽気な人間は、時に人の心に土足で踏み込んでくるような真似をするが、仁にはそれがない。引き際をわきまえているところがある。

 だからこそ、一緒にいることが苦ではなく、いつの間にか周囲には「親友」と認定されてしまっており、朔也としても頑なに否定するのも面倒なので、適当に濁している状態だ。実際のところ、社内で友人と呼べるのは、仁しかいないのだから。



 定時を過ぎ、明日の処理に間に合うように前準備をしてから、帰宅の途につく。

 会社を出ると、襟元から冷気が忍び込んでくる。朝晩は冷え込むようになってきたが、今日は特に気温が低いように感じられた。

 肩を震わせて、足早にバス停へ向かう。最寄りのバス乗り場には、周辺オフィスのビジネスマンに加え、スカート丈の短い女子高生が「寒い寒い」と足踏みをして騒いでいる。

 寒いのならば、そのスカート丈を伸ばせばいいだろう。

 などというのは、無粋なのだろう。中学生の姪には「朔也くんは乙女心をわかってない」と言われている。お洒落とは、我慢をすることから始まるらしい。男の朔也にはまるで理解できない考え方だが、そこを追及すれば倍になって文句が返ってくるのもわかっている。まったく女というのは文句だけは一人前だ。

 世の女性が聞けば非難されるようなことを考えながら、朔也はバスに乗り込んだ。

 車内に入ると冷気は遮断されて、強張っていた肩から力が抜けたが、バスを降りた時、冷ややかな空気に再び身体が強張る。そのうち寒波がやってくるのだろう。

 歩きながら考える。今年は暖冬だと、毎年のように言われているが、それを実感することはほとんどないのではないだろうか。気象庁の言うことは当てにならない。

 先が思いやられるな――。

 独りごちて視線を上に向けた時、朔也は足を止めてその場に立ち尽くした。

(――満月だ)

 視線の先は、たまたま開けた空間が広がっていた。建物と建物の間がちょうど空いていて、そこに月が浮かんでいる。今日は雲もなく、はっきりとした形をもって、夜空に満月が浮かんでいる様子は、どこか絵画的でもあった。

 朔也はふと、祖母の事を思い出した。

 何年も前に亡くなった祖母は、月を見るのがとても好きな人だった。

 星空ではなく、月を愛でることが好きな人であり、朔也が生まれた日は新月――朔日だったらしく、そこから朔也の名前を祖母が付けたと聞いている。

 常に矍鑠かくしゃくとした態度で、年齢を感じさせない人であり、そして誰に対しても丁寧に言葉を話す人だった。孫に対しても、ですます調を崩さなかった為、祖母に話しかける時は常に敬語を使っていたものである。目上に対する言葉遣いは、祖母のおかげで身についたといえるだろう。


 月が綺麗ですね


 朔也は鞄からスマートフォンを取り出して、そんなメッセージを打ち込んだ。亡くなってもなお、消さずに残したままだった祖母の番号に向けて、送信する。

 あの世にいる祖母も、同じ月を見ていればいいと思いながら、朔也は再び歩き出した。

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