先輩だって慌てることはある

 保健室に運ばれたその日、ぼくは弁当箱を持って帰った。


 月海先輩は友人から仕事を頼まれたり、遊びにつきあったりと放課後はあちこちから引っ張りだこだ。なかなか一緒に帰る機会がない。


 クラスメイトのみんなと挨拶を交わして、ぼくはまっすぐ学校を出ていく。


 同じ方向に帰る友達がいないのもさみしいものだ。みんなとしょうもない話をしながら帰ることに、少し憧れがある。


 校庭からは野球部の練習している音が聞こえた。ソフトボール後頭部直撃の件で、山浦君には何度も謝られた。彼のせいではまったくないのに、律儀な人だ。


     †


 保健の先生からは、一応今日は安静にと言われている。

 帰宅したぼくは、夜勤の用意をしている母さんに声をかけて仮眠をとることにした。


     †


 次に目が覚めた時、家の中はもう真っ暗になっていた。母さんはもう出かけたあとのようで、ひどく静かだ。

 カーテンを開けると、月明かりが差し込んでくる。

 暖かくて過ごしやすい夜だった。


 ……そうだ、今から弁当箱を返しにいってもいいかな。


 スクールバッグから弁当箱を取り出す。部屋着から軽めの外出着に着替えて家を出た。


 ……ちゃんと理由があるし、大丈夫だよね?


 この年になって、一人で月海先輩の家を訪ねるのは初めてだ。


 今夜はいつになく月が明るい。門に打ちつけられた〈月心館道場〉という文字が淡い光の中に浮き上がっている。


「お邪魔します……」


 門扉のない入り口を抜けて庭へ入る。


 正面の障子戸から明かりが漏れている。右手にある玄関から呼びかけるか、縁側から直接声をかけるか……。


 迷っていた時、どん、と重い音が聞こえた。続いて甲高い音。左手の道場からだ。


 鍛練の最中か?


 さっそく覗きに行った。

 道場の戸は開けっ放しだ。すのこの前で靴を脱ぎ、道場へ顔だけ出してみる。


 月海先輩が長い木の棒を振るっていた。それを頼清さんが木刀で受けている。


 両者が離れる。棒の真ん中あたりを持った先輩が仕掛けた。


 踏み込み。

 だんっ、と凄まじい音が響いた。

 振り下ろし、半身はんみからの突き、一回転して相手の攻撃を誘いながらの横払い。


 ポニーテールを閃かせながら動く月海先輩の姿は優雅さと気迫を見事に同居させていた。あの人のかっこよさは天井を知らないな。


 それをすべてさばく頼清さんも恐ろしい。

 武術の鍛練では上手い人が受けると聞いたことがある。月海先輩の変幻自在な攻撃を前にしても、頼清さんの動きにはどこか余裕があった。


 ピタリと二人が止まった。二つの視線が同時に飛んでくる。


「……景国君か。誰かと思ったよ」

「こんばんは。突然すみません」

「景国くん、どうしたの?」


 激しい動きをしていたはずなのに、二人ともまったく息が上がっていない。


「あの、お弁当箱を返さなきゃと思って」


 洗った弁当箱を見せる。


「無理に今日じゃなくてもよかったのに」


 月海先輩が肩をすくめ、こちらへ歩いてくる。……足音がない。聞こえたのは袴がこすれる音だけだ。


「わざわざありがとう」


 弁当箱を渡す。

 先輩の背後に、やはり音もなく頼清さんがやってきた。


「景国君、今のがうちの棒術さ。持つ位置をちょこちょこ変えて、間合いを常に変化させながら戦うんだ」

「棒術もやるんですね」

「うちは総合武術の流派だから、体術を主体に、剣、槍、棒と色々使う。その辺にあるあらゆるものを武器に応用できるようにな」

「息を忘れるくらいすごかったです」

「それは嬉しいね。光の棒術、見事なもんだろ」

「ちょ、ちょっとお父さん……」


 めずらしく月海先輩が焦ったような声を出した。


「とっても迫力ありました。全然目がついてかないくらいで、とにかくかっこよかったです!」

「待って景国くん、今日はあまり調子がよくないの。いつもならもう少し勢いが……」

「不調でもあれだけできちゃうんですね! もっとすごいことじゃないですか!」

「う、そんな、景国くんってば……私はその……だから、なんていうか……うぅ……」


 あれ? 月海先輩が言葉に詰まっている。あわあわする先輩はめずらしい、というかすごく新鮮だな……。


「うわははは」と頼清さんが豪快に笑った。


「こいつは景国君に技の腕前を誉めてもらいたかったんだ。ついに念願叶って慌ててるってわけさ」

「お、お父さん!? 私はそんなこと一度も……」

「いや、かなりわかりやすいぞお前。ここしばらく、ずっと入り口を気にしてるじゃねえか。景国君が訪ねてくるかもって期待してたんだな」

「し、してないっ」

「だから調子も上がらないんだろ? 目の前だけに集中できねえから」


「くっ……!」っと月海先輩が呻く。


「か、景国くんっ」

「は、はい!?」

「わざわざありがとね! 私は顔を洗ってくるから!」


 どたどたと先輩は道場の奥へ行ってしまった。


「な、なんかキレ気味でしたね……」

「照れ隠しだよ。俺にはよーくわかる」

「あんな先輩、初めて見ました」

「望んでたことがいざ現実になってみると、人間はかえって動揺しちまうもんなんだよなあ」


 それはすごくよくわかる。

 ぼくだって月海先輩に頭を撫でられた時は思考が止まったものな。


「まあ、あれだ」


 頼清さんがつぶやく。


「光には二日に一回、稽古をつけてるんだ。よかったらときどき見に来てやってくれ。その方があいつの集中力は上がるかもしれん」

「先輩が気にしないなら、ぜひ……」

「おう。いやぁ、楽しみが増えたな!」


 ……頼清さん、自分だけで楽しんでないか?


「この道場も俺の代で畳もうかと思ってたのさ」


 不意に頼清さんが言った。


「だが光は、自分が後を継ぐって言ってくれてな。それに見合うだけの素質もある。その分、色んなものを犠牲にさせてるってのはわかってはいるんだ」

「何事にも真剣ですもんね」

「一度やるって決めたことはやり通す主義だからな。もうちょい気楽に構えてほしいもんだ。誰に似たんかねえ」


 頼清さんの笑みから自嘲を感じた。


「ま、そんなあいつもやっと自分のやりたいことをやれるようになった。これで景国君が近くに居続けてくれりゃ最高さ」

「ぼくは、先輩に嫌われない限り近くにいたいです」

「ははっ、そういうのは本人に言ってやってくれよ。俺なんかに告白したってしょうがねえだろうに」

「そうなんですけど……」


 いざ先輩を目の前にすると急激に勇気がなくなっていくんだよな。


 ……さて。

 頼清さんとこんな話をしているうちに先輩が戻ってきたら大変だ。

 今日はそろそろ帰ろう。


「それじゃ、もう戻ります」

「あいよ。鍛練、見に来てくれよな」

「またそのうち来ます」

「おう、そんで褒め倒してやれ。たぶん顔真っ赤にして悶えまくるぜ。俺もちょっと見てみたい」

「いや、それはどうかと……」


 ぼくも見たくないわけじゃないけど……。


     †


 頼清さんに頭を下げて道場を出た。

 家の前の道路へ出ると、大きく息を吐き出した。


 武術は月海先輩にとって人生を構成する重要なパーツ。

 弁当の味を絶賛しても少し嬉しそうにするだけだったけど、今日の反応はまったく違うものだった。それだけ、武術のことで褒められるのは特別なんだ。


 先輩の家の門を越えるのには勇気がいる。

 でも、見学はちゃんと行こう。

 憧れた人の姿をこの目に焼きつけるために。


 決意を固めると、ぼくは、月光の降り注ぐ道をゆっくり歩いた。柔らかな月明かりが、今夜はとても心地いい。


     †     †


「行っちまったぜ。もう一言くらいしゃべればよかったのに」

「いいの、今日はもう」

「そうか。でも、どうせ聞いてたんだろ?」

「べ、別に……」

「声が裏返ってんぞ。あの部分、しっかり聞いてたな。『先輩に嫌われない限り近くにいたいです』ってところ」

「き、聞いてたら何か悪いの?」

「そんなムキになるなよ。ったく、ホント見てると胸焼けしそうだぜ。なんなのお前ら、俺をやきもきさせて殺したいの?」

「お父さんが勝手に盛り上がってるだけでしょ」

「娘の将来を心配してるんだよ。小学校の初恋を引きずったまま高校3年にまでなっちまったんだし」

「い、いいじゃない! そのくらい私の好きにさせて!」

「文句を言ってるわけじゃねえぞ」

「……はぁ、今日は終わりでしょ? 片づけておくから先に戻ってて」

「へいへい」

「……おせっかいもほどほどにしてほしいわ」

「わかったわかった。――でも、後悔だけはするなよ」

「……うん」

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