静かな保健室に、二人きり

 芯を食った手応え!

 これは行った――!


「アウト!」


「あぁ……」


 ぼくはとぼとぼベンチに戻った。

 4時間目。

 体育の授業である。


 春のクラスマッチが近づいている。

 男子はソフトボールとバレーボール。みんなで割り振りした結果、ぼくはソフトボールの方へ出ることになった。

 が、なにせ非力なのでバットの芯を食ってもボールが飛ばないのだ。今も会心の当たりだと思ったのに、ショートのやや後ろへ上がっただけのフライに終わった。


「そんな落ち込むなよ」


 ベンチでは山浦君が励ましてくれた。彼は当たり前のように長打を連発している。やっぱり野球部の主力選手だけあってスイングの速さが一人だけおかしい。


「戸森、次の打席でちょっとやってほしいことあるんだけど」

「うん、どんな?」

「お前にもヒットが打てるかもしれない方法」


 耳打ちされ、ぼくはうなずいた。


     †


 かくして本日3打席目。

 ぼくが打席に向かうと、3塁側とつながっている渡り廊下を3年生がぞろぞろ歩いてきた。

 その中に月海先輩もいた。

 目が合う。

 先輩が軽く左手を挙げてくれた。


 なんというタイミングだ。

 好プレーを披露して、やればできるところを見せられる大チャンスじゃないか。


 ぼくは意気込んで打席に入った。

 ピッチャーの初球。外れてボール。


 ……ストライクをくれ!


 早くしないと先輩が行ってしまう。限られた時間の中で結果を出さなきゃいけないんだ!


 2球目。

 ど真ん中にストレート。


 よーし来たっ!


 ぼくは膝を落とし、セーフティーバントの構えを取る。

 バットの先端にボールを当てて勢いを殺す。打球がピッチャーとサードの中間点にうまく転がった。

 確かにこれなら、パワーのないぼくでもヒットにできる!

 あとは全力で1塁ベースを駆け抜けるだけ――


 ゴンッ。


「うっ……」


 後頭部に衝撃が走り、目の前が真っ暗になった。


 何が、起きた……?


 …………。

 ……。


     †     †


「うーん……」


 目を開けると、真っ白な天井が映った。見慣れない模様がついている。

 教室じゃない。

 ベッドに寝かされているようだ。

 いったい何があったんだっけ……。


「おはよう、景国くん」

「へあっ!?」


 跳ね起きた。

 聞き覚えのありすぎるアルトボイス。

 ベッドの左側にイスを置いて、月海先輩が座っていた。


「具合はどう?」

「えーっと、実はよくわからないんですが……ここ保健室で合ってますか?」

「そうよ。倒れた景国くんをクラスのみんなが運んでくれたの」

「倒れた……そういえば、なんか後頭部がズキズキする……」

「景国くんの転がしたボールをキャッチャーが捕って1塁に投げたの。でも送球が逸れて、走ってる景国くんの頭に当たっちゃったのよ」


 ああ、後ろから食らったのか。

 授業じゃヘルメットは使わないし、あの大きさのボールがむきだしの頭に当たったらそりゃ倒れるよなあ。ぼくみたいな貧弱人間は特に。


「今、何時ですか?」

「1時を過ぎたところ。まだお昼休みだから安心して」


 そっか。ちょうど4時間目だったもんな。


「私が手を振ったの、見えた?」

「はい、ばっちりと」

「授業中にパソコン室へ移動することになって、歩いてたらちょうど景国くんの打順だったのよ。せっかくだから打つところだけ見たらみんなを追いかけようと思ったんだけど」

「情けないところを見せてしまいました……」

「あれは避けようがないでしょ。気にしちゃ駄目」

「というか、なぜ先輩がここに?」

「その一部始終を見てたから、たぶん保健室に運ばれただろうなって思って来てみたの。そしたら先生にちょっとここを任せるって言われちゃって」

「すみません、お昼の時間なのに」

「いいじゃない。たまにはこういう場所も、ね?」


 月海先輩が上目づかいで微笑みかけてくる。

 ドクッと心臓が強く脈打った。

 保健室のイスが低いから、いつもと目線が違うんだ。今日はぼくの方が、ほんの少しだけ高いところにいる。


 保健室に、先輩と二人きり。

 確かに……いいかも。


 風の音もしない、静かな空間。いつもとは違う雰囲気。

 あ、まずい。

 意識したら急にドキドキしてきた。

 なんだか顔が熱い。赤くなってないだろうか?


 ふふっ、と月海先輩が笑った。吐息に混じったような声が、ぼくの緊張を加速させる。


「景国くん、顔が赤くなってきた」

「そ、それ以上は言わないでください……」

「もともと色白だものね。すごくわかりやすい」

「うあー」


 ごまかすように髪の毛をぐしゃぐしゃやった。死ぬほど恥ずかしい。しかも言われるたびにもっと顔が熱くなっていくのが自分でもわかる。たぶんもう顔は真っ赤だ。


「あら、ごめんなさい。あんまりからかいすぎるのはよくなかったわね」


 先輩は微笑んだまま立ち上がった。


「お弁当、上着と一緒にカゴの中に入れておいたから」


 そういえばぼく、ジャージの上を脱がされてシャツ一枚じゃないか。今頃気づいたよ。夏でもないのにこんな薄着で先輩と向き合っているなんて……とにかく恥ずかしい以外の言葉が出てこない!


 返事できずにいると、先輩がぼくの腕あたりに目を向けていた。


「腕、細いわね」

「いや、その……あんまり見られると……」


 なぜぼくの方が恥ずかしがってばかりなんだ?

 威厳も何もあったもんじゃない。


「こうして見ていると……不思議と守ってあげたくなるのよね」

「え?」


 月海先輩の手がぼくの頭に触れた。ボールの当たったところを、優しく撫でてくれる。一瞬、ゾクッとした。


 カラカラと音がして、保健室の戸が開いた。


「月海さん、留守番ありがとうね。戸森君は起きた?」


 保健の先生の声だ。


「ええ、起きました。大丈夫そうです」


 先輩がぼくから離れた。


「じゃあまたね、景国くん。お弁当箱は今度返してくれればいいわ」


 小さく手を振ると、先輩はぼくが返事をする前にカーテンの間を抜けていってしまった。


 戸が開いて、すぐに閉まる音。


 わずか数分の出来事だった。

 けれど月海先輩の声が、手の感触が、かつてないほどに焼きついていた。


 普通に会えるのが一番いいけれど、たまには違った形になるのも悪くない。

 だってこんなにも胸が弾むのだから。


 よし。

 もうちょっとだけ休んだら教室に戻ろう。

 家に帰ったら、先輩に弁当箱を返しに行こう。

 無事だということを伝えて、また明日から、いつものように屋上へ行くんだ。

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