あの人の手は少し冷たい
ゴールデンウィーク最終日。
特に課題も出ていないので、本当にだらだら過ごしてしまった。
高校野球の地区予選の結果を見たら、我らが浅川高校は準優勝で県大会進出が決まっていた。山浦君もきっと勝利に貢献しまくったことだろう。
スポーツが苦手なわけではないけれど、部活に入ろうという気持ちは起きなかった。ぼくは帰宅部のままがいい。
「かげーくーにー」
下から母さんの呼ぶ声がした。
「どうかした?」
「赤飯炊いたから、今から月海さんとこ行くよ」
「なんで赤飯……」
「あんたと
「あれは誤解だって説明したよね!?」
あっはっは、と母さんが大げさに笑う。
「冗談よ冗談。このまえ職場の人からもち米を譲ってもらったんだよね。で、試しにやってみたらいい感じに炊けたの! これをあたしら二人だけで食べるのもむなしいじゃん?」
「むなしくはないと思うけど……」
「まあまあまあ! 光ちゃんともまた話すようになったんでしょ? だったらこっちから攻め込もうじゃないの」
「う、うん……」
思わずうなずいてしまった。
そうだよな。
月海先輩の家に入る口実ができたのだから、チャンスと考えるべきだろう。
†
「やー、すいませんね」
「いえいえ、せっかくですから」
月海家の縁側にぼくらは座っていた。
春の午後。
暖かい風が吹いて、これ以上ないほど心地いい。
先輩の家は凹の上下を逆にしたような形をしていて、庭に面した部分にはすべて縁側がついている。
ぼくと母さん、頼清さんの三人で東側の縁側に腰かけている。母さんと頼清さんは赤飯を食べていた。謎の光景である。
「お父さん、片づけ終わりました」
「おう、ご苦労さん」
縁側を渡って月海先輩がやってきた。
黒の道着。袴姿だ。
先輩の稽古を見たことがないので、勝手に柔道着のようなものをイメージしていたが違った。
髪はいつものようにポニーテールだ。
全身黒の和装、細目と長いまつげ。
本当に凛々しくて美しい。
高嶺の花ここに極まれり、なんてね。
四人でしばらくのんびりしたが、そのうち頼清さんが口を開いた。
「そういえば、景国君は武術に興味ないのかい?」
「ぼくは、あんまり……」
「そっか、せっかくだから稽古つけてあげようと思ったんだけどな」
「お父さん、無理強いは駄目よ」
「いいじゃない光ちゃん、景国はひ弱だからちょっと鍛えてもらった方がいいと思うんだけどな」
「景国くんは強くならなくてもいいんです」
いいのか……。
そう言われるとかえってやる気になってくる。
「あの、初歩的なものだけなら……」
「お、やるかい?」
「ほんのちょっと」
「よしきた! 光、お前が相手してやれ」
先輩は困った顔をしている。
「本気なの?」
「軽く、お願いします」
「うむ、頑張りたまえ」
「お父さんは来ないの?」
「お前も人に教えられるようになってほしいからな。俺はあえて行かないでおくよ」
「自分で言い出したくせに……」
月海先輩がため息をついて立ち上がった。
その一瞬の隙に、頼清さんがぼくに笑いかけてきた。
……まさか、二人きりの時間を作ってくれたのか?
ありがたい。ものにしてみせます!
――というわけで、家の西側にある道場へ移動した。
板張りの道場でぼくと先輩が正対する。
「普段着のままでいいんですか?」
「いいわ。カツアゲされた時、相手をひねれるくらいの技を教えてあげる」
「…………」
先輩はまだあの出来事を気にしていたらしい。
「この前されたように、胸元を掴まれた場合だけど……景国くん、ちょっと私を掴んでみて」
「えっ……」
「道着の
いいのか?
合法的に、双方の合意ありに?
し、しかもほぼ胸元だし、すぐそこには生白い鎖骨が!
でも先輩がやれと言うんだからやるしかない。ハプニングが起こってもぼくのせいではないぞ。巨乳とも貧乳とも違う、絶妙にもほどがある膨らみに手が当たっても知らないぞ!
「じゃあ、いきます」
ぼくは一歩前に出て、先輩の襟を掴もうと右手を伸ばした――瞬間に手首を押さえられた。ぐいんっとものすごい力で手首を引っ張られて、
「うっわ――――っっ!!」
ぼくはすさまじい勢いで吹っ飛んでいた。胸からいった。ずざーっと滑った。……床を舐めさせられるとはこのことか。
「か、景国くん大丈夫!?」
先輩が焦ったように近づいてきた。
「へ、平気です」
「ごめんなさい。ちょっと、想像以上に軽くて……」
うう。
軽すぎるのもコンプレックスの一つなのだ。それをこんな形で露呈してしまうなんて。
「本当はもっと違う形になるはずだったんですか?」
「ええ。景国くん、体重何キロ?」
「43キロです」
「……ちゃんと食べてる? 飢えてない?」
「あ、当たり前じゃないですか!」
思わず大声を出してしまった。
小食なことについてはよく言われるけど、「飢えてない?」って訊き方されたのは初めてだよ。
「食べても体重が増えないんですよ」
「その数字だとうらやましいとは言えないわね」
「ちなみに先輩は――」
ってこれはまずい。女性に体重を訊くのはタブーだった。
「私は55。技をかけるにはある程度こっちにも重さがないといけないから、50キロは割らないように意識しているの」
あっさり答えをいただいてしまった。
「月海先輩、身長はどのくらいあるんですか?」
「ええと、前に測った時は167って言われた気がするわ。景国くんは見た感じ、160ちょうどくらい?」
「……159です」
身長も体重も完敗か……。
これってかなり深刻な問題では?
発育がどうとかじゃなくて、やっぱり並んだ時の見栄えが悪すぎる。でもたくさん食べようとしてもすぐ苦しくなるからなあ。
「ちなみに、さっきのって本当はどうなるはずだったんですか?」
「まず、相手が出してきた方の手の外側にずれるの。かわしながら手首を取って引っ張る。自分は背中側に回り込みつつ、前のめりになっている相手に、背後からスッと左手を入れて喉仏を――」
「初心者に教えるにはガチすぎやしませんか!? 下手したら相手殺しちゃうやつ!」
「いいじゃない。景国くんにひどいことする相手なんか死んだって」
「よくないですよ!? 誰も幸せになれない!」
「そうよね。やっぱり景国くんがこれを覚える必要はないわ。私が荒事を引き受ければ、どんな相手だって穏便に退いてくれるはずだもの」
「穏便という言葉が不穏に聞こえるのはなぜなんでしょうか……」
月海先輩が手を差し出してきた。
「立てる?」
「だ、大丈夫です」
手を掴んで立ち上がる。ちょっと冷たくて、硬い手だった。
「さ、やったことにして戻りましょ。このまま続けるのは危険な気がするから」
「ぼくも、自分には向いてないってよくわかりました……」
縁側では相変わらず頼清さんと母さんが話をしていた。
「おう、どうだった?」
「やっぱり習うのはやめておきます……」
「でも、悪くなかっただろ?」
頼清さんはとても楽しそうな表情をしていた。
「まあ、そうですね……」
はあ、と背後からため息が聞こえた。
「お父さんはすぐ余計なことを言い出すんだから。私だってまだ修練中の身なんだし、もし景国くんに怪我をさせちゃったら大変じゃない」
「わかったわかった、今後は気をつける。――まあ二人とも座って赤飯を食え。もう冷めてるけどな!」
うわはははは、と頼清さんはとにかく機嫌良さそうにしていた。それと比例するように月海先輩のテンションは下がっていくようだった。
みんなでやや遅めのお昼ご飯をとる。
ぼくらが縁側に足を垂らしている中、先輩だけは板の上に正座して赤飯を食べていた。
落ち着きある所作。
気品に溢れた姿が本当に魅力的だ。
やっぱりぼくは、普通に先輩と過ごせればそれでいい、とあらためて思った。
立ち上がる時に握った手の感触がずっと残っている。
少し冷たい手。
自分との温度差が、より相手の存在を強く感じさせてくれる。
こういう形じゃなくて、いつか自然に、何気ない時間に手を握れたらいいな。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます