第三幕:水神の御子
そこは森の奥深く、人里から離れた常に陽が入らない常闇の城。誰一人そこには寄り付かず、そこにいる住人も外に出ることはなかった。
転々とした明かりの下、木の板が丁寧に張られた廊下を渡る。その先の一番広い荘厳な部屋で蝋燭に囲まれた場にいるのは白髪の巫女、それが私。巫女装束に身を纏い、ただそこに座って祈りを捧げていた。
私から離れ、囲うように周りに座っている女たちは皆一様に艷やかな黒髪を白の紙で縛り、顔には白い布を掛けている。
部屋に静かに入ってきた女の一人がそそ、と私に寄り小さな声で囁く。
「巫女様、医師様が参りました」
小さな声なのに静かな部屋にその声は響く。否、その声が響いたように聞こえたのは恐らく私がその言葉を待っていたからだ。一度目を閉じて心を落ち着かせる。大丈夫だ。
「お通ししろ、私もすぐに行く」
そう言って女たちを下がらせたあと、私はふぅとゆっくり息を吐いた。医師が待つ部屋に向かう襖を睨んだ。
私が襖を開けると、いつも通りにその人は、そこに横たわっていた。その人はもうずっと原因不明の病にかかりずっと床に伏せている。その布団の傍には城付きの医師はすでに控えていた。
「どうじゃ」
私の放つ言葉は一言だけ。このやり取りもまるで儀式の様に毎日続いていた。
「巫女様、申し訳ないのですが手の施しようがありません。脈拍も心拍も正常ですが、理由がわからない為まったく目を覚ます手立てがないのです」
誰も随分前からその人の目が開いた姿は見ていない。医師の隣、やはり白の布で顔を覆われている大切な人の傍に座る。規則的に上下する胸を見てほっとする。
私にはもう顔も憶えていないその人は私にとって、とても大切な人。ただ、大切と云うことしか憶えていないけれど、とても大切な人だということは分かる。
この城にいる人間は巫女に顔を見せてはならない。穢れが巫女に移るからだと皆が口を揃えて言う。
そして、その人はもう目を覚まさないのだとも医師からは何度も言われている。
「……まだじゃ」
医師は痛ましそうに私を見ると、「また明日来ます」と席を立った。続いて女達もそれに続き私は大切な人と二人きりになる。
私は、否、私だけにはその人を救う手立てはまだひとつ残されていると感じていた。
大切な人と私を繋ぐ夢。ただの夢だと言われても毎日見る湖の上に浮かぶ小舟の夢。靄がかったあの夢に出てくる彼は目の前の大切な人だと確信していた。
私達以外誰もいない部屋。外からは今日もざぁざぁと強く窓を叩く音がした。
────……
そこは暗く、何もない広い湖に浮かぶ小さな木船の上に私はいる。
私にそっくりな白髪の少年がまるで鏡のように向かい合って私と手を合わせて座っていた。
見上げる空は奇妙なほどに満天の星空とそれをかき消すような陽の光が交互にずっと繰り返している。
それはいつか見た、彼はいつか見た。あの時の……。
大切な何かがわかりそうになった瞬間、気が狂いそうな、不協和音な歌が世界を震わせる。
どこから聴こえてくるのか、誰か歌っているのか、彼は何なのか、私は何なのか、何もわからなくならないよう、私達はいつもお互いの耳を塞ぐ。
「ごめんなさい」
────……
いつもそこで目を覚ます。
私は、彼は、あの記憶は、あの場所は。悲痛なあの声は。何かが分かりそうなのに何も分からない。何かが分かりそうなところでいつもあの歌が邪魔をする。
まるで私達を割くように。
そこまで考えてから私はふぅ、と息を吐く。今日も一日、いつもと変わらない日が待っているのだ。
その日の晩もいつもと変わらない夢だった。その次の日も、その次の日も、そしてその次の日はなんだか少し違っていた。
ぱちゃ、と云う音で私は覚醒した。私はどうやら横になっていたようだ。起き上がってみるとそこはいつもの小舟の中だった。今のは舟の下の水の音。いつもよりも風を感じ、湖の匂いを感じ、まるで現実のようにそれは私を撫でる。
そして、いつもと同じ白の羽織ではなく、私は紅の、目の前の彼は蒼の羽織を着ていた。
絹のような白の髪をそのままに下ろし、目の前の少し大人びた蒼の瞳がまっすぐにこちらを見ていた。
何故今まで気づかなかったのかもわからない。彼は鏡のようではない、瞳の色がまったく違う真逆の色だった。
しかし、今がどこなのかが分かってホッとした。ここはいつもの夢の中だ。
「いよいよだね」
覚えのある耳障りのいい軽やかな声が聞こえる。懐かしくて優しくて、私は何故だか胸が苦しくなった。
私は相手が誰だか知りたくて口を開く。
「そろそろおいでになる」
しかし、それより先に彼が声を発した。
何が来るというのだろう?
私は聞こうとした。しかし同時にとても嫌な気持ちになる。ざわざわして目線を膝や船の縁などに落ち着き無く動かす。これは、恐怖というものではないか。そう思ったとき、目が空を映すし、私は目が離せなくなる。
空は気味が悪い程に、あの時見たのと同じ満天の星空だった。それは私の失われた過去を呼び覚ますに十分だった。
『いよいよだね』
『そうだね【 】』
『もうすぐおいでになる』
『おいでになったら儀式が始まるんだね』
『そうさ、だから間違ってはいけないよ』
『わかってるよ、ちゃんとご挨拶できる』
『今からおいでになるのは僕達の……』
「嫌じゃ!!」
私は拒絶した。過去の記憶は無理矢理襲いかかるように脳裏に浮かんだが、大声を出して遮断する。
現実に帰った今も恐怖で身体が震えていて「そろそろおいでになる」という言葉で、私は今まで思い出せなかった記憶の片鱗を思い出したのだ。目の前の少年と私との会話、けれどその先を聞くのは恐ろしかった。
取り乱して首を激しく振れば、頬に髪が当たる。先程から敏感に感じる風も、感触も到底夢などとは言えなかった。
目の前の彼は私をじっと見ている。彼はきっと先程と同じ、変わらず記憶の中の言葉を紡ぐのだろうと私は耳を塞ごうとした。
「だいじょうぶ」
彼は耳を塞ごうとするその手を優しく取ってそのまま自分の指と絡ませた。
「私が一緒にいるだろう?」
記憶の中の、あの頃とは違う言葉だった。けれどそれを聞いて、私の体の震えはストンと収まった。
そうだ、一緒にいるんだ。だから大丈夫だ。
そう私が安心した時、湖から轟音が聞こえ始めた。
水が渦巻いている、何もないところから大きな穴に向けてどんどん水が吸い込まれ、それは次第に盛り上がってくる。
船はピクリとも動かない。優しく彼は絡めた指を離した。思わず追ってしまいそうになる手をぎゅっと握り込んで、私は盛り上がった湖へ体ごと向き直る。
今までずっと見ていた夢は過去に行った失態。それにより彼……私の大切な『兄』は、意識を失った。意識を取り戻した兄は再び儀式を行う為、私をここに連れてきたのだろう。
そう、だからもう私はその光景に『前回』のように怯えることはなかった。
盛り上がった水の中からギラリと鋭い大きな目が見えた。その目の持ち主を残し纏った水は湖に波紋を残して静か戻っていく。
その目の持ち主、それは白く美しい龍だった。突然現れた巨大な龍の姿を前に私が錯乱することは、もうない。
「『お母様』」
私はそう言って手を広げた。それに龍は静かに頭を寄せる。その鋭く見えた瞳の中にあるのは怯えだった。
この美しい母に私は拒絶して、傷つけてしまった。
「もう、私は貴女を忘れません。大切な『お母様』。だからもう泣かないで良いのです。ごめんなさい」
すり、と私は龍に頬ずりをした。母は戸惑うように目線を泳がしたあと、静かに眼を閉じた。あの何も分からなくなる、恐ろしいと思った歌はこの母の嘆きの歌。
母は龍となっても私達を想い、嘆き、歌っていたのだ。
「交代の儀を始めましょう。『水神』様、どうか『神子』をお受け取りください」
そして私ははっきりと言葉を紡ぐ。龍は嫌がるように私から離れ悲しく鳴いた。
龍の姿を見て、私は全てを思い出した。
全ては私が、私が自分の役割や現実を受け入れることの出来なかった我儘。
私は水神の家系に産まれた。その力を濃く受け継いだ者は白髪で産まれ、眼が紅であれば巫女となり蒼であれば神子となる。
先代の御子であった母は外で産まれ、ここに戻ってきた時にはもう身篭っていた。子を産んだ後に先代の巫女の儀式により水神となる。しかし、子を産んだ成体の人間からの龍の変体は心身共に母に大きな負担をかけた。
人間であった時間が長すぎたせいもあり、母の精神は不安定。到底数百年も近隣を護る水神としてやっていける筈がなかった。
湖で独りで子を想い続け、更にその子達が次の巫女と神子。それだけでも身が切られる想いであったろうに、子達の儀式の際その子である巫女に否定される事に耐えられず、水神は泣きながら毎夜子達に子守唄を歌った。
水神の嘆きの子守唄によって、自らの子達である妹の『巫女』の記憶と兄の『神子』を眠らせたのだ。
これ以上の悲しみを与えない為に、これ以上の悲しみを受けない為に、自分がこれからもずっと水神でいる為に。
水神の嘆きは大雨となり降り注ぐ。外の界には顕著に現れ水害、そのまま水没等の被害になると教えられた。
彼女は『母』であり、『水神』として続けてはならない。この母をもう苦しめない為に、兄は私をここに連れてきたのだ。
「私は『巫女』。本来の子守唄を歌う者。
『水神』を眠りに誘い、『神子』を『水神』に誘う者。私、ちゃんと今度こそ謳います」
これから私がする事を思うと私は衣をぎゅっと握る。ようやく思い出したのに、母も、兄も。視界が滲む。
ふわりと手が包まれる。気付くと私より少し背の高い兄が私の手を上から優しく握り込んでいた。優しく手を開かせると優しい瞳で頭を撫でて抱き込んだ。頭に頬を寄せる兄の胸をじんわり濡らしていく。
「辛い思いをさせてすまない。けれどだいじょうぶ。私はいつだってここにあるし、お前の側にいよう。あと少し、私達の為に頑張って欲しい」
体を離して目線を合わせた兄に、私が頷くと満足そうに横に座った。
兄と向かい合わせに座り、お互いの手を合わせた。ととめどなく涙を拭うこともせず、私は大きく息を吸い祈るように謳う。
湖には無数の星の光が降り注ぎ、常闇の湖はまるで真昼の太陽のような光を放つ。
星と陽が交わり、龍は人として還り、神子は人から龍へ孵る。
最後に見えた二人は笑っていて、涙を流しながらもハッキリと謳う私を残し、それぞれの場所へとかえっていった。
━━…
あれから、『お母様』は無事天に召され、私は湖にいる『お兄様』とたまに会う。
この森の中に、封じられた私達だけが入れる湖で。
今日もまた、美しい白龍と一緒にただただ広がる満天の星空を見上げるの。
短編集 timary @kisara-mizuno
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