11-2 紫水晶の向こうに


「フィラ・フィアは……いつからわかっていたの?」

 フィレルの問いに、悲しみを噛み殺すような顔をしながらもフィラ・フィアが言う。

「フォルトゥーン戦からよ。ロアが死者蘇生について言及した。その時、全てのピースが繋がったの」

「オレは……失ったノアを蘇らせる、ためにッ!」

 まだ辛うじて正気を保っているロアが、ぎらつく瞳で答える。

「生死の境を……破壊……しようと……ッ!」

 だからこそあの発言。ロアが古代文字を読めたのも、彼が昔に誕生した神だったからだ。彼が他の神々と繋がりがあるのも……。

 全て繋がった先、あったのは残酷すぎる現実。

 嘘だ、とフィレルは呟く。縋るような瞳でロアを見た。緑の瞳いっぱいにたたえられたのは、涙。

「ロアはロアだよ、アークロアなんかじゃない! お願いだロア、元に戻って! 僕らと一緒に帰るんでしょ!? ねぇっ!」

 不可能だ、とロアは首を振る。その腕が持ち上がり、剣を引き抜きフィレルに向ける。

 これまで、絶対に自分を裏切らないと信じていたロアが、自分に剣を向ける。

 フィレルは現実に打ちのめされた。

 封じろ、と異形の闇の殻を身に纏いながらもロアは言う。

「オレに正気が……残っている、内に!」

 剣を握った腕が震えている。だがその黒の瞳は闇に、侵されていく。冒されて――いく。

 闇の亜神アークロアは、弟を失ったことにより狂い、死者蘇生の方法を求めて地上を荒らした。アークロアは、弟さえ蘇れば地上がどうなろうと構わなかった。その横暴によって「荒ぶる神」認定を受けたのだ。アークロアには死んだ弟以外に優先すべき存在など、ない。

「ロア、ロア、目を……覚ましてぇっ!」

「無駄よ!」

 叫ぶフィレルをフィラ・フィアが制す。

 フィラ・フィアの赤い瞳の奥に宿る決意は、一瞬足りとも揺らぐことがなく。

 彼女は舞い始める。そんな彼女を倒さんとロアの剣が迫る。反射的に受けた。受けたそれは、二人で何度も特訓して、よく知っているロアの剣術。金属音。フィレルはロアの剣を防ぐことは出来たが、どうしてもロアを攻撃することが出来なかった。迷いに剣が滑る。隙が生まれる。ロアはフィレルを無視し、フィラ・フィアの無防備な胴体に一撃を叩き込、

「させないよッ!」

 烈風。イルキスの生み出した風が辛うじてロアの剣筋を逸らす。

 フィレルたちに剣を向けながらも、ロアは懇願するように叫んだ。

「フィレルッ!」

 瞳から流れ出した涙は血の色をしていた。

「お前に心があるというのなら、オレをオレのままでいさせてくれ。オレがアークロアに完全になり果てる前にッ! オレを止めてくれ封じてくれッ!」

 その瞳から急速に失われていく正気。振るわれる剣に、明確な殺意が宿っていく。“ロア”が失われ、“アークロア”が彼の中に広がっていく。

 失いたくない、ずっと一緒にいたい、と誰よりも強く思い、願った人だった。そんなロアが、大切な人が、フィレルが初めて本気を出す原因を作った人が、失われていく。いなくなっていく。闇に溶けて、消えていく。

 心の中、広がっていくのは絶望。果てしなく。

 どうすれば良いというのだろう。誰よりもずっと一緒にいた人が、封じなければならない人だっただなんて。

「きゃあっ!」

 悲鳴。ロアの闇に吹き飛ばされたフィラ・フィアが宙を舞う。そのまま地面に叩きつけられた彼女は身動きをしない。それを見ても、凍りついたように身体は動かない。

 希望の子フィラ・フィア。彼女が死んだら、この長い旅の全ては意味のないものになるのに。

 わかっているのに、動けなかった。ただロアだったモノを、見ていることしか出来なかった。

しっかりしなさい、とイルキスが叫びを上げる。

「フィレルッ! もうあいつはロアじゃないんだ、倒すべき相手なんだよ!? 呆けている場合じゃないッ!」

 そんなイルキスに迫る刃。魔法専門の彼に、剣をかわす反射神経なんてない。斬撃。盛大に血飛沫を上げて倒れるイルキス。それでも身体は動かない。動けない。

 気が付いたら、フィレルはロアと二人きりになっていた。完全にアークロアとなったその瞳が、無感情にフィレルを見つめる。その剣が持ち上げられ、無防備なフィレルに振るわれ――


「……わかったよ、ロア」


 なかった。

 すんでのところでロアの剣は、フィレルの剣に受け止められていた。

 泣きそうな顔で、フィレルは剣を構えた。瞳に宿るのは静かな決意。

「ロアの悪夢は僕が終わらせるよ。僕しかいないんだ、僕しかいないんだろ。なら……」

 叫んだ。あまりにも残酷な運命に対し、叫んだ。

「――僕がやるしか、ないじゃないかッ!」

 迷いはない、惑いはない。目の前にいるのがアークロアであるならば、ただ封じればいいだけ。しかし封じの王女はもう動けない。だが、封じる手段は一つしかないわけじゃない。

 フィレルの手が神速で動く。肩に掛けたキャンバスに、ひとつの絵を描き出す。神のごとき早業で、一枚の絵が仕上がっていく。描かれたそれは、

 一本の槍。

 遠い昔、ある英雄が、神を封じるために作ったという伝説の武器。神封じの槍ヴェルムヴェルテ。

 フィレルの手が翠に輝き、キャンバスに触れる。描かれた絵が引き出される。長い時を経て再現された神封じの槍は、ぴったりとフィレルの手に収まった。

 フィレルは泣きながらそれをロアに、否、ロアだったモノに、アークロアに、向ける。

 思いのたけをぶっつけた。

「ロア、ロア! 僕はさ……ロアのこと、大好きだよっ!」

 泣いて叫んでひたすらに泣いて。それでもフィレルはもう折れない。

 輝く緑の瞳には、強い強い覚悟の光が灯っていた。

「だからさ――ロア」

 槍を構え、ロアに向かいながらも言葉を紡ぐ。

「――もう苦しまなくっても、いいんだよッ!」

 一閃。閃いた槍の先。防がれる。勢いのまま突き進み反撃を回避。ロアの動きを見る。見慣れた動き、見慣れた剣術。何度も何度も試合しあったがために、誰よりもよくわかっているその動き。

 狙い澄まし、槍を放つ。今この瞬間しかない、というタイミングで放たれた神封じの槍は、

「フィ……レ……ル」

 最期に漏れた声。

 槍は的確にアークロアの胸を貫いていた。その胸から鮮血が溢れ、溢れるそばから結晶化していく。その様は美しかったが、同時に永遠の喪失を表してもいた。

 そしてその瞬間だけ、戻った正気。

 ロアは、笑った。アークロアなんかじゃなくて、ロアの顔で。

 最高に綺麗な、笑顔で。

 血まみれの唇が紡ぎだした言葉。

「終わらせてくれて……ありがと……な……」

 紫色の光が弾けた。フィレルは目を灼くような光の中でも目を閉じず、最後までロアを見届けていた。ロアの身体が結晶に覆われていき、ロアの形をした紫水晶になるのを見届けていた。ロアは紫水晶に完全に覆われて、もう二度と動くことはない。

「あ、ああ……」

 地に膝をつく。漏れたのは、慟哭。

 こんな悲しみを、これまで味わったことなんて、なかった。

 目の前の無機質な結晶が、フィレルに残酷な現実を突き付ける。

 ロアはもういない。

 クールで格好良くて、文句を言いながらも結局いつもフィレルを守ってくれたロアは。

 もう、いない。

 もう、いないのだ――。

 フィレルの胸の中で、何かが砕けて散った。代わりに生まれたのは喪失感。果てのない闇のようなそれがフィレルを覆い尽くし、思わず自分を見失い掛けた、時。

 しゃん、と澄み渡った音がした。

 凛、とした声が響く。


「――ここに全ての荒ぶる神々は封じられた。わたしたちの使命は、成ったのよ」


 振り返れば。錫杖により掛かるようにして辛うじて立っている、満足げな表情のフィラ・フィアがいた。

 彼女はフィレルに頭を下げた。

「ありがとうフィレル。あなたのお陰で――」

「……ふざけるな」

 フィラ・フィアの言葉を遮ったフィレルの瞳は、激しい怒りに燃えていた。

 フィレルは憎悪の言葉を叩きつける。

「お前のせいで……お前の旅につきあったせいで、ロアは、ロアは……ッ!」

「その原因を作ったのはあなたでしょう、フィレル。わたしはずっと眠っているはずだったのに」

 言い返されて、押し黙る。やりきれない思いが、その心を支配していた。

 誰も悪い人なんていなかった。この悲劇は、起こるべくして起こったのだ。

 フィレルは紫水晶になったロアを見る。改めて、もうロアはいないのだと思い知って、

「ロア……ロアぁ……ッ!」

 溢れだす涙が、止まらなかった。

 フィレルは紫水晶に駆け寄って、その拳で殴った。何度も、何度も。拳が切れて血が出ても、何度も殴り続けた。そうすれば紫水晶が割れて、ロアが戻ってくるとでも思っているかのように。それが無理だとわかったフィレルは、地面に膝をついてただひたすらに泣き続けた。

「……喪失の痛みは、誰よりもわかっているわ」

 その背に、静かにフィラ・フィアが声を掛けた。

 彼女は優しい声音で、言う。

「とりあえず、今は泣きなさい。泣いて泣いて泣いて――自分が空っぽになるまで泣いたら、いつか時がその空白を、その喪失感を、埋めてくれるから」

 痛ましげな表情をして、フィラ・フィアはそっと両手を組む。

 まるで祈るかのように。


  ◇


「……さようなら、ロア」

 それから、どれだけ時が経ったろう。

 ひたすらに泣いてようやく激情の静まったフィレルは、紫水晶に声を掛ける。

「今まで本当にありがとう。僕……ロアのこと、忘れない。絶対に忘れられない」

 紫水晶は、沈黙したままだけれど。

 フィレルは静かに決意を述べる、覚悟を述べる。

「僕……立ち直るから。悲しみに停滞なんて、しないから」

 だから、と紫水晶を愛おしげに撫でた。


「……安心して、眠ってね!」


 その緑の瞳からは、何も知らなかった頃のような無邪気さは消えていた。

 もうフィレルはこれまでのフィレルではない。悲しみを知らなかったあの頃には、戻れない。

 瞳に灯った炎は、燃え上がる強い想いの証。

 大切な人の喪失を経て、涙の代わりに空白を抱えて、フィレルはようやく英雄の顔になった。

「……帰ろう、みんな」

 言って、返事も待たずにその場を去る。

 彼はもう、振り返らなかった。

 その背中には、海の底よりも深い悲しみがあった。


  ◇

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