十一章 握った絵筆に魂を込めて

11-1 記憶の霧が晴れる時

【十一章 握った絵筆に魂を込めて】


「やあ、久し振りだね」

 神殿を出たところで、冷たい霧の気配。霧の向こう、忌々しい影と出会った。

 白の、ボサボサの長髪、冷たく澄みきった印象を与える蜜色の瞳。白のローブを身に纏い、足には白のサンダルを履いた青年。

 ロアの記憶を握る者、霧の神セインリエス。

 嫌な予感が吹き荒れる。決して出会ってはならない存在と、ぶつかってしまったような気がする。

 セインリエスの唇が、動いた。

「ありがとう。君たちのお陰で邪魔な戦神は排除された。後は私が好きに出来る! やっとだ、やっと! 私の世界が幕を開ける!」

 セインリエスは笑う。心底、楽しそうに。

「なぁ、私を……殺しておくれよっ!」

 放たれた霧の刃。容赦なく。真っ先に対応したのはロアだった。させるかとばかりに弾く。霧の神はうすら笑いを浮かべた。

「そうだよ、そうだよ。私はねぇ、ロア。君と戦いたかったんだッ!」

 勝手に斬られた戦いの火蓋。最悪の予感がフィレルの中を動き回る。

 まずい、と本能的に思った。この男とロアを戦わせてはいけない、とフィレルの心が必死で叫ぶ。しかし戦神との戦いで疲れ果てたフィレルには、ただ戦いを見ていることしか出来なくて。

「ぼくだって……まだ戦えるさッ!」

 イルキスが風を吹かせて霧を吹き払う。その向こう、見えた霧の神。ロアは目をぎらつかせ、その身体に向かって刃を叩き込んだ。

 ごぼり、溢れた血。防げたはずなのに、霧の神は防がなかった。

「……どうして防がなかった」

 問うたロアに、霧の神は歪んだ笑みを浮かべた。

「だって私は……言っただろう? 殺しておくれよ、と」

 話をしようか、と彼は言う。

 語られたのは、遠い悲劇の物語だった。

 昔、彼は傲慢だった。彼はその傲慢さによって一番上の兄に酷い怪我を負わせ、二番目の兄の怒りを買って、神の力を奪われ人間同然にされた上で地上に追放された。

 本来ならば、そのまま野垂れ死ぬはずだった。だがそんな彼を救った人物がいた。

 機織りの娘ティア。彼女に救われ、その優しさに触れるうち、彼の心の氷は融けていった。

 ある日、彼女が危機に陥った時、彼は彼女を守った。その瞬間、彼の追放は解け、神としての力を取り戻した彼は天界へ帰還、兄神たちと和解するが、天界にて発覚した事実。彼女は重い病を背負っており、もうほとんど生きられないこと。彼は彼女の最後の願いを叶える為に地上に降り、極北の地の極光を見せてやったが彼女はそのまま死んでしまった。

 霧の神は言う。

「彼女が死んで以来、私の心は凍ったままだ。だから私は……殺してもらいたかったのさ」

 そこまで言って、彼は盛大に血を吐きだした。命の終わりが、近い。

 その顔が、孤独に歪んだ霧の神の顔が、ぐしゃりと歪な笑みを作った。

「そして! ただ死ぬだけなんてつまらないだろう! だから私は置き土産をすることにしたんだ……」

 その蜜色の瞳は、ロアを見ていた。狂ったような輝きがロアを射抜く。

 霧の神は、笑っていた。嗤っていた。嘲笑わらっていた。ただ、どこまでも可笑しそうに、わらっていた。

「さようなら地上! 私はあの子に会いに行くんだ! さようなら哀れな人形たちよ! 全ての記憶を君に返そう。そしてその記憶に狂うが良い!」

「やめろぉぉぉーッ!」

 叫び、飛びつこうとしたがもう遅い。霧の神の身体は砕け散り、そこから溢れた霧が、ロアを包み込んだ。フィレルはただ、それを見ていることしか出来なかった。

 霧が晴れた時、そこにいたのはロアだった。だが、それはロアであってロアではない存在だった。

「思い出した……」

 漏れたのは、絶望に染まった声。

「ノア……闇神ヴァイルハイネン……古代文字……ああ、オレはッ!」

「駄目だよロアぁっ!」

 叫んでも、その声は届かない。

 呆然と立ち尽くすロアの周囲から闇が溢れて、ロアの全身を覆い尽くしていく。その闇の深さは、神にも匹敵するものだった。

――神?

 はっとなる。

「そうよ」

 フィラ・フィアの声が、凛、と響く。

 彼女は悲しみを心の底に押し殺したような顔をしていた。

 その錫杖が、ロアに向けられる。仲間である、ロアに。

 まるで、彼が、敵であるかのように。

「ロアは」

 闇が晴れた時、そこにいたのは完全に、ロアではないモノだった。

 深い闇と絶望を宿した漆黒のソレの正体を、フィラ・フィアは暴く。


「生死の境を暴く闇、アークロア――それこそが、ロアの正体だったのよ」


 思わず、嘘だ、と呟いた。

 言葉が、出なかった。


  ◇

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