10-3 第七の封印


 翌朝。朝食の席に揃った一同。これが戦いの前、皆で食べる最後のご飯だ。特に話すこともなく、黙々と食べ終わった。

 イグニシィン城から出る時、ファレルが声を掛けた。

「約束しておくれよ。死なないと。僕はもう……家族を失いたくはないんだからね」

「うん! 約束、するよ!」

 頷いたフィレル。

 そして一行は、戦神の神殿へと向かう。


「戦神の神殿は、わたしが一番よくわかってる」

 フィラ・フィアが指し示したその場所は、幼い頃、フィレルとロアがよく一緒に遊んでいた森だった。フィレルは思い出す。遠い日の夏のことだった。ロアと一緒に遊んでいたら、突如目の前に、謎の建物が現れたこと。そしてそれからは、とても怖い空気が流れていたこと。嫌な予感を感じて、慌てて逃げ出したこと。それ以来、森で遊ぶのはやめたのだ。あれには絶対に近づいてはならないと、本能が告げていた。

 今、歩いているのはその森だった。いつかのあの森だった。あの日見た恐怖が、得体の知れない嫌な予感が背筋を這い上がる。だがもう、あの日のように逃げ出そうとは思えなかった。それが倒すべき相手であるならば、怖がってはいられない。

 誰も立ち入らなくなった森の中を無言で歩く。一歩一歩が重く感じた。この先にあるのは戦神の神殿なのだ。だがそんな空気を、しゃん、しゃん、と鳴るフィラ・フィアの錫杖の鈴が打ち消していく。彼女の鈴の音が、心を落ち着かせてくれる。

 そうやってしばらく歩いただろうか。深い森の奥、一部だけ木がなくなって、光が差している場所があった。そこにそれがあった。

 あちこち苔むして、ひび割ればかりの建物。感じる禍々しい気配。戦神の神殿だ。

 今はもう、人を捧げる儀式は行われなくなったらしい。しかし過去の儀式の痕なのだろうか、苔むした石の奥、確かに見える赤錆色。あれは遠い昔、戦神に捧げられた生贄の血の痕だ。

 長い時を経て、苔に覆われて。その神殿は、どこか荘厳で神秘的な空気をたたえていた。

「行くわよ」

 覚悟を決めたフィラ・フィアが先立って歩き出す。

 まるで地獄の底へ案内するかのような真っ暗な入口。その最初の石を、フィラ・フィアのサンダルがかつんと叩いた。


  ◇


 かつん、かつん。それぞれの足音が鳴る。暗い神殿を無言で進む。聞こえる音は足音とどこからか流れる水音、フィラ・フィアの錫杖の鈴の音だけ。神殿はところどころが崩壊しており、そこから外の光が見えた。神殿の中に目を凝らせば、人間の骸骨や衣服、武器の残骸が転がっているのが時折見えた。

 何も話すことが出来ない。重苦しい空気は、進むにつれて深くなっていく。

 やがて、辿り着いた大きな広間に、

 “それ”はいた。

 頭から血を被ったような、赤いボサボサの髪。血のように赤い瞳。漆黒のマントに、幾重にも交差する漆黒のベルト。深紅のマフラーが、風もないのに揺れる。その男の傍では、翼の生えた純白の獅子が羽ばたいている。

 フィラ・フィアらを見て、“それ”の口が、動く。

「再び来たか、人間よ」

 遠い昔のあの日と、同じように。

 放たれた声は低く響く。

 フィレルはキャンバスを用意し、絵筆を構えた。その隣でロアが剣を引き抜き、イルキスが魔法を唱える準備をし、蝶王が相手を鋭く睨みつける。

 大きく息を吸い込んで、錫杖を構えながら、フィラ・フィアは言った。

「戦神、ゼウデラ」

 その声は震えることはない。旅の中、様々なトラウマを乗り越えた彼女はもう弱くはない。

「わたしはあなたを、封じに来た」

 くつくつと面白そうに戦神は笑う。

「何度来たって結果は同じだ。人間が神に勝てるわけがない。幾らお前たちが蘇ろうと、我を倒せるなどとは思うなよ?」

「思うわッ!」

 叫ぶ。これまでの旅で得てきた全てを声に乗せて。

「わたしはもう違う、シルークの死に振り回されてきたわたしではないの。わたしは変わったわ、ゼウデラ。そして今度こそ――」

 構えた錫杖が、しゃん、とひときわ澄み渡った音を鳴らす。

「おまえを、封じるッ!」

 そして彼女は舞い始める。朽ち果てた神殿の中、天井から差し込む光の中で舞う彼女の姿は神のようでもあった。『崇高たる舞神』。いつか人は彼女のことをそう呼んだが、今の彼女はその二つ名にも負けず劣らずの神聖さだった。

 戦神は、吼えた。

「何度舞おうが同じことッ! 行けアウラ、神の偉さを思い知らせてやるが良いッ!」

 彼の声に応じ、白獅子アウラが跳躍、舞うフィラ・フィアに迫る。

「させるか戦神ッ!」

 金属音。飛んできた爪をロアが悠々と弾く。その後ろから、

「僕だって……戦えるんだぁーっ!」

 服の中から取り出した剣を片手にフィレルが跳躍、戦神に迫る。宙に浮いている戦神に、フィレルの剣は届かない。だがそこへイルキスの風。風はフィレルの身体を押し上げて、戦神へその剣を届かせる。

「やるなッ! 確かに強くなった。考えるようにもなった! だが……神の力、舐めてくれるなッ!」

 戦神の取り出した漆黒の剣がフィレルを弾く。転がされたフィレルを追撃するかのように迫った白獅子。だが、させまいとばかりにロアの剣がそれを防ぐ。

 かつての戦いで、戦神は剣を抜かなかった。彼は長槍しか使わなかった。彼にとって、剣は本気を出す時以外は使わない武器なのだ。その剣を使ったということは。

 フィレルも本気だが、戦神も今、本気を出しているということなのだ。つまり、それぐらい、戦神が本気を出さなければならなくなった程に、フィレルたちは強くなったという証。

「フィレル、受け取りなさい!」

 イルキスが寄越したのは、風の魔法で編まれた翼。これがあれば空を飛ぶ相手とも対等に戦える。翼を操るのはイルキスなので、フィレルの運命は全てイルキスに掛かっていることになるが。

 フィレルはイルキスを見た。イルキスの瞳が真摯な輝きを帯びる。任せてくれ、信じてくれとその瞳は訴える。フィレルは頷き、

 跳躍。戦神になんとかその刃を届かせんと腕を振る。追風。イルキスの風がフィレルを運ぶ。高いところ、宙に浮かぶ戦神へ。フィレルの瞳に迷いはない、恐怖もない、躊躇いも諦めも一切ない。握った刃はただ、相手を切り裂くためだけに。

 誰ひとり欠けさせないで、帰り着くと誓った。だから、その約束を守るために。

 フィレルの振るった刃。戦神が回避動作を見せる。イルキスの風による強化を受けて、防御できないような勢いがその刃には込められていた。ぎらり、輝く緑の瞳はいつか、仲間たちを逃がして命を散らしたレ・ラウィの、あの日の瞳と同じものだった。フィレルは確かに、英雄の子孫だった。

 回避する戦神に追撃。服から取り出したもう一本の剣が相手の逃げ場所を奪う。確かに感じた手ごたえ。斬撃。見えたのは、戦神の身体に刻まれた確かな傷。

「やりおるなッ! 人間風情がッ!」

 戦神の手に生み出された赤黒い魔力。感じたのは嫌な予感。

「イルキス!」

 声を掛ければ、その身体は引き戻される。先程までフィレルのいた場所に、赤黒い長槍が突き立っていた。それはいつしか、シルークとフィラ。フィアの命を奪ったものだった。だが、同じ轍は踏まない!

 重なり合う心が、確かな信頼によってつながった想いが、最悪の未来を回避する。

 フィレルは見る。風の翼を操るのに精いっぱいだったイルキスに迫る、白獅子の尾を。ロアはフィラ・フィアに迫る爪を防ぐので手一杯でイルキスを守れない。だが、今フィレルは地上に降りている。フィレルならば、死の一撃を防ぐことができる。

「させないって、っば!」

 様々な事態を想定し、服の中に仕込んだ数多の武器。その中に飛び道具がないわけではない。

 緑に輝く手が取りだしたのは、淡く輝く一本の槍。

「とど――けぇぇぇーッ!」

 勢いよく投げられたそれは、すんでのところでイルキスの命を繋ぎ止める。蝶王が翼をはばたかせた。彼の周囲で白い魔法陣が幾重にも浮かび、光を散らす。

「絵心師! ここは我に任せて、お前は戦神を!」

 白い魔法陣から生み出されたのは光条。幾重にも交差しながらそれは、白獅子の身体を貫いた。白獅子が苦鳴の声を上げ、蝶王に向かっていく。させんとばかりにロアの剣が割って入る。

 ロアの視線とフィレルの視線が交錯した。フィレルはロアの瞳から言いたいことを悟り、イルキスに頷いて再び、

 跳躍。三度目の空。迎え撃つ戦神。直接攻撃しても回避され、反撃されるだけだと理解する。だからあえて剣を構えず、

「馬鹿か? 自殺する気か人間ッ!」

 相手の剣の中、自らその身を飛びこませる。相手の剣がフィレルの身を切り裂くが、その瞬間、確かに生まれた隙を突く。肉を切らせて骨を断つ。古典的な戦い方だが、最も効果のある戦い方でもある。

 相手に腹を刺されながらも、フィレルはその剣をさらに深く、自分の中に押し込んだ。

「何ッ!?」

 初めて聞いた、戦神の焦った声。

 フィレルと戦神の距離が、ゼロになる。苦痛に顔を歪めながらも、フィレルは握った双つの剣で相手を切り裂いた――深く、深く。

 そしてフィレルは相手の身体を蹴り飛ばして自分に刺さった剣を抜く。傷口から溢れる血、急速に冷えていく身体、感じた死の予感。それでも、相手の負った傷も尋常の傷ではない。戦神は宙でよろけていた。押え切れない傷口から、どくどくと溢れだすは戦神の血。三千年前は傷ひとつつけられなかった戦神が、今、血を流してよろけている。

 蒼白になっていくフィレルの顔。イルキスが彼を降ろして傷の治療をしようとしたその瞬間、

「封じられなさい!」

 凛、とした声がひとつ。

 振り向いたそこでは虹色の鎖が完成し、希望の王女の周囲を取り巻いていた。

 裂帛の声が、これまで抱えてきた全てを乗せた声が、その喉の奥から放たれる。

「わたしたちは、人間だけの世界をこの地上に作るんだから! 戦神――ゼウデラッ!」

 逃れられない。大きな傷を負った戦神は、その顔に笑みを浮かべてフィラ・フィアを見た。

「そうか……これが、人間の力だと……言うのか」

 満足げに放たれた言葉を最後に。

 虹色の鎖が巻きついていく。封じの鎖は白獅子アウラだって逃しはしない。

 爆発するような光が、溢れて。

 次の瞬間、そこにあったのは、

 ゼウデラの形をしたガーネットと、白獅子ラウラの形をした水晶だった。

 終わったのだ、と悟る。最大の敵の封印は、終わったのだ。

 くずおれるフィレル、駆け寄った仲間たち。負った傷は深かったが、

「天の神アンダルシャに願うなり! 我、我らが蝶を天に捧げん!」

 蝶王が詠唱を口にした瞬間、その傷はみるみるうちに塞がっていった。

 しかし代わりのように、薄れゆく蝶王の姿。

「蝶王さま……もしかして」

 フィレルは悟る。

 代償なしに、傷を完治させる魔法など存在しないのだ。そして蝶王がフィレルを直す代わりに払った代償は、

「そうだ、我の命だ!」

 叫んだ蝶王は、どこか誇らしげだった。

「悲しむな絵心師よ! 我は伝説の生まれる瞬間に立ち会えた。それだけで十分満足なのだ! それにな、我は蝶王、何度も生まれ変わりを繰り返す普遍の存在なのだ。だから……」

 いつかまた会おう、そう最期に言い残し、蝶王の姿は消えていった。無数の小さな蝶となって砕けて、神殿から差し込む光の中に溶けていった。

「……ありがとう」

 呟き、立ち上がる。

 フィレルは皆を見た。フィラ・フィアは涙をこぼしていた。

「みんな……わたしは、出来たよ……!」

 三千年の昔、この地で彼女たちは死んだ。その無念が、長い時を経てついに晴らされたのだ。

 瞳に光る涙は、とても綺麗な色をしていた。

 そしてフィレルたちは神殿を出る。ゼウデラを封じたからと言って、全ての旅が終わったわけではない。

 最後に残された神、生死の境を破壊する闇、アークロア。その名前が、不吉な響きを帯びてフィレルたちに重くのしかかっていた。


  ◇

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