第一部 旅立ちのイグニシィン
一章 絵心師が起こしたは禍か否か
1-1 イグニシィンの問題児
【第一部 旅立ちのイグニシィン】
【第一章 絵心師が起こしたは禍か否か】
◇
「わぁわぁ逃げろ逃げろーっ!」
「おいコラ待て、走り回るなーっ!」
逃げ回る茶髪の少年を、呆れたように黒髪の少年が追いかけ回す。
イグニシィン城は今日も平和だ。いつも通りの風景の中、あっはっはと茶髪の青年が笑い声を上げる。
そんな青年に、黒髪の少年は文句を垂れた。
「ファレル様も笑ってないで、弟の教育くらいしっかりして下さいよっ!」
「無邪気なのはいいことじゃないか。うん、子供はそれくらい元気にしていないとね」
「ファレル様はあいつに甘すぎますっ!」
憤慨する黒髪の少年を見て、青年は面白そうに笑う。
そんな二人を眺め、茶髪の少年は元気よく飛び跳ねた。
「やっほぅ、兄さんはそれでいいって言ってるよ! だからロアもそんなに怒っちゃ駄目なんだよーっ!」
「……何だろう。フィレル、貴様に言われるとすっごく腹立つのだが」
ロアは、この日何度目かになる溜め息をついた。
大陸国家シエランディアの辺境に、イグニシィンという土地がある。そこを代々治めるのがイグニシィン家で、ファレルはイグニシィンの領主、フィレルはその弟にあたる。ロアは城の前に倒れていたのをファレルが拾い、以来、イグニシィンの一員としてこの城に住まうことになった。
かつてはイグニシィンもそれなりの貴族の家だったらしい。正確に言えば三千年前の英雄の、その子孫の家である。けれどここ三百年ずっと起きている戦乱のせいで少しずつ勢力を失っていき、今は「落ち目のイグニシィン家」と呼ばれるほどの貧乏っぷり、城を保つために働いているメイドもたった二人になり果てた。
隆盛を誇っていた時代に小さかった城は大きく改築されたが、衰退の一途をたどっていくうちに城のあちこちが崩れ落ち、今まともに人が住めるのは、一部の生活空間だけという有様。二人のメイドも、たった二人だけではこの広すぎる城を維持することなどできず、辛うじて城の住人に必要最低限の世話だけをする、という事態に。そんな彼女らに貧乏領主ファレルはなけなしのお金を払って、辛うじて城に留まってもらっている。広かった領土も今や猫の額ほどになってしまい、そこからは大した収益など望めやしない。
そんな「落ち目のイグニシィン家」だけれど、漂う空気は意外にも明るく、楽しげだ。イグニシィンの次男坊フィレルは明るく無邪気な性格で、頻繁に問題を起こす割には可愛がられていた。その明るさや無邪気さによって、城の中にまで彼の楽しげな空気が伝わってくるのだ。だからこの次男坊のことを、悪く言う人物は少なかった。
その数少ない例外の一人がロアである。戦災に巻き込まれて孤児となり、記憶を無くし、ファレルに拾われ、ファレルに忠誠を誓うようになったこの少年は、なんとフィレルのお目付け役に任命された。ファレルの命令なので当然逆らうわけがないロアだったが、お目付け役となった初日でフィレルの腕白ぶりに閉口することになった。家の中を走り回っては花瓶を倒し水をぶちまけ、町を走り回っては何か問題を起こして人や動物に追いかけられ、泥まみれで帰ってくる。それでロアに怒られればその日はしゅんとしてこそいるが、次の日にはまた同じことをやっている。極めつけは、彼の生まれ持った天才的魔法の才、「
「ねぇねぇ、ロア! 僕ってば、すごいんだよーっ!」
そう言って、訝しがるロアの前で絵を描いてみせた十歳のフィレル。彼は絵の具と絵筆を巧みに使い、キャンバスに瞬く間につやつやと美味しそうなリンゴを描いてみせた。それだけでも大したものだとロアは感心したが、それだけでは終わらなかった。
フィレルはキャンバスに描いたリンゴに手を触れた。悪戯っぽい緑の瞳がきらきらと輝く。
そして、その次の瞬間。
キャンバスが光を放ち、描かれた絵が実体化したのだ。
先程までリンゴの絵が描かれていたキャンバスは真っ白になり、その上には描かれた通りの、つやつやした美味しそうなリンゴが現れていたのだ。
驚きとともに、ロアは問うた。
「……これ、本物か?」
「もっちろーん! 疑うならば食べてみなよ。おいしいよーっ!」
笑ったフィレル。
半信半疑で、ロアはリンゴを手に取りかぶりつく。リンゴの果汁が彼の顎を垂れた。
彼は目を見開いて、フィレルを見た。
「どう? おいしい?」
にこにこと笑うフィレルに、
「……うまい」
ロアは目を見開いたまま、そう答えたのだった。
以来、フィレルはこの力を自由に使い、様々なことをしでかすようになる。
わかったのは、彼は自分の描いた絵を実体化するが、自分ではない誰かの描いた絵や、印刷物ですら実体化できるということ。そして彼が絵を実体化させると、実体化させた対象があった部分は真っ白になり、残された絵は一部分がまるで穴でも空いたかの様に真っ白になること。そして当然、そうなってしまった絵に絵としての価値などなくなる。フィレルは城にある絵画から勝手に絵を取り出してあちこち“白く”し、流石のファレルもそれにたまりかねて、フィレルを叱ったものだった。貴重な絵もあるのだ、当然のことだろう。
家で怒られてもフィレルはめげない。すると今度は町に出かけて、食べ物屋の看板を“白く”する。そして気づいた人に怒られて追いかけられる。一応謝るが反省はしない。そんな毎日の繰り返しだった。
そんなフィレルに武術を教え、勉強を教えるロアの苦労は計り知れない。ロアは一部記憶喪失だったが、武術の才と勉学はあった。彼はファレルにお願いされてフィレルにそれらを教えていったが、それのなんと難しいこと! 教えられている時に勝手に船を漕ぎだす、隙を見てすぐに逃げ出す、武術の為の木剣を渡せば、気が付いたらそれを持って鶏を追い掛けて笑っている。その腕白さにロアは辟易した。だが、恩人の頼みとあっては断るわけにもいかず。
「……オレの教えたことが、全て馬の耳に念仏状態になっている気がするのだが」
ロアの言葉も最もであろう。
さてさてそんなフィレルであったが、絵の才能だけは文句なしにうまかった。彼は問題を起こすと必ず自分の描いた絵をお詫びに差し出した。それのクオリティたるや、本物かと見まごうほどである。絵を台無しにされた人はそれを見て、フィレルへの怒りを収めるのであった。
ロアはフィレルに歴史も教えた。フィレルは普段、ロアの授業などまるで聞いていないのである。けれど一つだけ、よく聞いていた話があった。それは三千年前の英雄の話だった。
物語の名は、「封神綺譚」。神々を封じるために旅立ち、旅の果てに命を散らした王女と六人の仲間の物語。それはあまりにも悲しい結末で終わり、シエランディア歳大の英雄譚にして最大の悲劇として知られている。その話をロアがした時、フィレルは珍しく真面目に聞いていた。
話が終わった後、ぽつりと呟かれた一言。
「……王女さまは、幸せだったのかなぁ」
その言葉が、印象的だったとロアは思った。
◇
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