第18話 脱出
「『ジョーカー』だ!」
ゼウスは無線機に叫んだ。
「死角を突いて来やがった!」
右のエンジンは明らかに出力が落ち、機体は右に首を振られそうになった。ゼウスは左に回していた操縦輪を右に回し、傾いていた機体を水平にした。さらに左のラダーペダルを踏みこんで機首の振れを押さえた。
右のエンジンは上面のパネルが剥がされ、オイルや冷却液が漏れてひどく損傷していた。プロペラはまだ回っていたが、風圧で回っているだけのようだった。
「ユング、右エンジンをやられた。敵が来ないか援護を頼む!」
「了解…。火が出ています!」
銃弾で穴が空いた主翼からガソリンが漏れていることは気づいていたが、ユングが言うのと同時に、炎が主翼の上面に回り込み、ほどなく右の翼がエンジンを中心に燃え上がった。
「くそっ!」
P-38はエンジンから内側の主翼はほとんどが燃料タンクになっている。防弾タンクにはなっていたが多数の機関銃、それと20mm機関砲の弾丸が当たれば無事では済まない。
「機体を捨てて脱出する」
ゼウスは無線に告げると、ユングの返事を聞かずに無線機のコードと酸素マスクのホースを抜いた。
右頬に炎の熱気を感じるようになってきた。一刻の猶予もない。
昇降舵のトリムを目一杯下げ舵になるように操作した。視界の端の炎の影を見つつ、じりじりと時間が過ぎた。トリムを操作するのに応じて、水平飛行を続けるために操縦輪を徐々に手前に引いた。
右手は操縦輪を掴んだまま、左手で操作して頭上のキャノピーを投棄した。炎の熱を冷ますように、外気が操縦席にどっと入った。
次に、両手で操縦輪を右に回し、機体は燃える翼を下にぐるりと反転した。油圧サーボはまだ有効で、上下が完全に逆になってから当て舵をとって横転を止めた。そして、引いていた操縦輪は奥に押し込んだ。
P-38は完全に背面飛行になり、ゼウスは座席から縛帯で吊り下げられた。床のホコリや砂粒がゼウスの周囲を落ちていった。彼は縛帯にかかる自分の重さを確認し、ハーネスにパラシュートがかかっているのもチェックした後、縛帯の留め金を外した。
重力に引かれるままにゼウスは操縦席から落下した。すぐ足元をP-38の水平尾翼が飛び去っていった。
「助かった…」
落下を続けながらゼウスはつぶやいた。パイロットを失ったP-38はしばらく飛んでから、炎が中央胴体も包み、黒煙を引きながら落ちはじた。
高度は数百m。脱出した機体に接触する不安はもはやないため、ゼウスはパラシュートの開傘コードを引いた。ほどなく、両肩と、両股のハーネスにガツンと力がかかった。自由落下から落下傘降下に無事移行した。
ゼウスは改めて眼下を見回した。見渡す限り黒い森が広がっていた。遠方に黒煙が立ち、自分が乗ってきたP-38はあの辺だろうかと考えた。その他にも、黒煙が何本か立ち昇っていた。
見上げるとパラシュートが正常に開いていた。ゼウスは両手を上に伸ばし、方向を制御するためのコードを探った。同じ上方向の視界に、ユングのP-38が見えた。主翼を傾け、こちらが見えるように角度を保ってゆるく旋回していた。
こんどは真下を見た。斜めから見ると黒い木に覆われているような地面も、真下では雪が積もった白い地面が見えた。木に引っかからずに地面に直接降りることが可能か、パラシュートの操作を行いながらゼウスは考えをめぐらした。
パラシュートは風のせいで意外な速さで横に移動していた。徐々に近づいてくる森は横方向に流れ去った。
「よかった、畑だ…」
足元の木立が途切れ、開けた雪原に変わった。農家の家屋や納屋がもう足元スレスレの高さだった。ゼウスは風に流されてゆく前方を確認し、確かに畑に降りられるということを理解した。
やや起伏のある土地が雪に覆われていた。土地は区画ごとに粗末な木の柵で区切られていた。一つの柵が足元をかすめて過ぎ、次にゼウスの体は雪の上に落ちた。体を丸め、腕で頭を保護した格好で、ゼウスは畑の上を転げた。
土の上に落ちたため、さしたる苦痛もなく地面に降りた。彼はそう感じた。
しかし、直後にパラシュートが風に孕み、ゼウスを背中から風下側に引きずっていった。彼にはとても抵抗できなかった。
「ああっ!」
背中を思い切り木柵の柱にぶつけ、たまらず大声を上げた。パラシュートも柵にからまった状態ではためいていた。風に引きずられた状態からようやく停止した。
しばらく痛みにもだえた後、ゼウスはパラシュートコードをハーネスから外し、ようやく自由の身になった。上体を起こし、周囲を見渡した。間違いなく地面の上だった。
頭上を低くP-38が通過した。旋回してパイロットがこちらを見られるようになった頃合いで、ゼウスは右手を大きく降った。
ユングのP-38は彼を中心に大きく3回旋回し、翼を3度左右に降って飛び去った。
ユングの機体が畑を囲む森の向こうに消えたのを見送り、それからゼウスは立ち上がろうと試みた。
左足に力が入らず、右足に力を入れてみて、どうやら片足で立てそうだと分かった。右足に体重を載せ、木の柵に腕を回し、両手と片足でよろよろと立ち上がった。
今の所、頭上には敵も味方も飛行機が飛んでいなかった。畑の周囲も人がいるような気配はなかった。雪が積もった畑は、彼が引きずられた部分だけ黒く土が見えていた。
「どこだ、ここは…」
ようやく立ち上がった姿勢になり、柵によりかかったまま、畑の周囲を彼は見渡した。ベルギーの東部まで来て、風でさらに東に流されていたのは確実らしかった。視界が狭く、ゴーグルをずっとかけたままだったことに気がついた。目からゴーグルを外すと、邪魔にならないよう飛行帽の上にずらした。
「ドイツか、それともまだベルギーか…」
彼は胸元の
足元はまだ安定していなかったが、移動はできそうな気がした。柵を片手で掴みながら、左足を引きずって、ゼウスは歩き出した。
畑と道路の境界の柵までどうにか進み、柵の角部で体を安定させ、そこで彼はホルスターの拳銃を抜いた。そして、左手でスライドを引き、1発目を薬室に装填した。ハンマーが起きたままであることを改めて眺め、暴発しないよう恐る恐るセーフティをかけた。
「ダー・ピロート!」
大声で呼びかける男の声が聞こえた。ゼウスは柵によりかかったまま、道路の方を見た。遠くに3人の男の姿があった。格好から全員が農夫のようだった。
「ドイツ語? 民間人が3人か…」
ゼウスは拳銃を顔の横に掲げ、引き金に指をかけながら、男たちが大股で進んでくるのを待った。
男は2人が手にピッチフォークを持っていた。ゼウスを串刺しにするには十分な装備だ。
「農具が相手ならなんとかなるが…」
真ん中の初老の男は、手に短機関銃を持っていた。MP40、ドイツ軍の装備だ。
ゼウスは改めて自分の拳銃を見た。続け様に撃てば7発を叩き込むことができる。しかし、相手の短機関銃はその間に弾倉いっぱい――おそらく30発の弾丸を打ち込んでくるだろう。こちらは身動きが十分にできず、身を隠せるものはこの粗末な木の柵だけだ。
「アメリカ人だ!」
彼は右手に拳銃を持ったまま、両手を上げて叫んだ。
「アメリカーナー?!」
「そうだ!」
「銃を離せ!」
中央の男から訛りのある英語が発せられた。男たちはもうゼウスの前10mほどの距離にいた。
「分かった」
ゼウスは右手を横に伸ばし、銃口の向きに注意しながら、柔らかそうな雪の地面に拳銃を放った。特に暴発することなく、銃は雪に沈んだ。
「ドイツ人じゃないな?」
「ドイツ人じゃない!」
ゼウスの英語を聞き、3人は互いに目を合わせた。中央の男がうなずくと、左右の2人が早足でゼウスのそばに来た。ピッチフォークは刃先を上に持ってきて、近くの地面に刺して置いた。
1人は柵をくぐってゼウスのそばに来て、彼の体を探った。ゼウスは両手を上げてなすにまかせた。
もう1人はかがむと拳銃を拾い上げた。慣れた手付きで弾倉を抜き、スライドを引いて薬室から実包を排出した。再び彼はかがみ実包を拾うと、左手の弾倉に戻した。拳銃の方はスライドを前進させ、弾倉をグリップに挿した。結果、コルトM1911はゼウスが装填する前の状態に戻された。
「ヴォー・イスト・ダス?」
ゼウスはドイツ語でここがどこか聞いた。
「ドイツの国境はすぐ近くだ。ベルギーに降りられてよかったな」
所持品検査を終えた男が英語で答えた。
「それは助かった」
「昨日までドイツ軍がいた。1日早ければ今頃は檻の中だ」
彼はそう言って口角を上げた。2人も中央の男と同程度に歳がいっていると分かった。若い男はどこも不足している。
「とりあえず家に来て休んでくれ、近くのアメリカ軍を呼ぶ。どこか怪我をしているなら応急手当しよう」
初老の男は胸元のMP40を横向きに持ったまま、にこやかに彼に話した。
「感謝する。このままここにいたら凍えそうだ」
ゼウスの拳銃を拾った男が、拳銃を左手に持ったまま、ゼウスに右の肩を貸した。道路に出ると、2人の男が両側からゼウスの肩を支えた。ゼウスは背中をはじめ体のあちこちが痛んだものの、特にひどい怪我をしたようではなかった。見たところ血も出ていなかった。
初老の男がMP40を構えた。そして銃口を視線の方向に向けた。そうした彼の警護を受けながら、両側の男にぶら下がるようにして、ゼウスは森の中の道を進んだ。
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