第17話 ボーデンプラッテ

 1945年は寒さと混乱で幕を開けた。

 雪がやみ、冬の遅い夜明けを待ちながらゼウスたちは基地で出撃の準備を進めていた。太陽が出てすぐの離陸を計画しているところに、大陸の連合軍の基地が相次いで攻撃されていることが報告された。天候の回復を待っていたのはドイツ軍も同じだった。

 すでに決まっている出撃時刻をこの時点ではいくらも早めることはできない。状況は理解したと伝令に来た基地の兵士に告げ、ゼウスはライトニングの主翼の後ろから降ろした梯子を登った。梯子は翼の上から胴体に畳むことができた。

 頭の上は乱れた雲がゆっくりと東に動いていた。それでも地上はまだ穏やかで、基地は静けさにつつまれていた。ゼウスは雲の流れる先――大陸の様子を考えつつ、操縦席に足から乗り込んだ。

 ベルギーのアルデンヌ地方に突出したドイツ軍を、連合軍はまだ完全に撃退できていなかった。当面は天候が許す限り地上部隊の支援が任務となり、爆撃機の護衛任務はなかった。

 追加のP-38は予想通り、年明けには間に合わなかった。エプロンに並ぶ2機のP-38だけが、ゼウスが完全に掌握している戦力だった。やや離れたところで、機首を上に向けてP-51の銀色の翼が並んでいた。

 地上員の合図でゼウスはエンジンの始動を開始した。P-51もプロペラが回りだした。静まり返った基地に轟音が響きはじめた。

 状況は急を要する。そう判断したゼウスは、エンジンの暖機運転が完了次第、2機のP-38を先行させて発進することにした。三車輪式のライトニングは、地上でも前方をクリアに見ることができ、P-51より速く、安全に地上を移動できる。P-51の後ろをゆっくりついていく必要はなかった。

 飛行場の風下側につくと、頭の上を雲が横切って動いていくのが見えた。上空はある程度風があるが、飛行場の吹き流しはまだ弱々しく揺れるだけだった。着陸するときは横風を気にしなければいけない。そんなことを思いつつゼウスはスロットルを全開にし、離陸を開始した。左後ろはユングの機体が寄り添っていた。2機で編隊離陸を終えると、進路を東に向け、後続の機体を待たずに彼らは大陸に向かった。


「雲の底を目安に進む。敵を常に下に探ようにする」

「了解です」

 天候が回復し、雲の底はきれいな平面からかなり崩れた形に変わった。その凹凸のある雲の底を、できるだけ高い位置を選んで彼らは進んだ。

 わずかに生じた雲の切れ間から、朝焼けから青に変わりつつある空が一瞬だけ見えた。雲の切れ間はすぐ塞がれ、雲の厚みに応じた濃淡の灰色の世界が周囲を包んだ。分厚い雲しかなかったときと違いいくらか地上は明るかった。

 眼下には黒々とした北海が波打ち、いくつかの小さい雲のかけらが後ろへと流れ去った。やがて海を渡り、足元は雪に覆われた大地となった。

 2機はフランスとベルギーの国境をアルデンヌの森を目指して飛んだ。遠くの大地に、雲まで崩れながら伸びる黒煙が何本か見えた。ドイツ軍に奇襲された連合軍の基地だと推測された。

 高度を一旦落とし、雲の中から完全に出ると、ゼウスは周囲の様子を伺った。

 森の上空にいくつもの飛行機の影が見えた。機種までは分からないが、その小さく黒い点のいくつかはドイツ本土から連合軍の基地を目指し、いくつかはアルデンヌのドイツ軍を目指しているように見えた。

 敵も味方も入り乱れて飛んでいた。森からはたびたび機関銃の曳光弾が空に向かって飛んだ。雪が積もった深い森に、慌ただしい一日が始まっていた。

「2時の方向、フランス国内を西に向かうフォッケウルフだ」

 ゼウスは無線を飛行隊の周波数に合わせて伝えた。

「ショーティ、聞こえるか」

「聞こえます。ですが、中佐はこの周波数でいいんですか?」

「私の『獲物』でない場合はそちらに譲る。随時状況を伝える」

「はあ」 

「私の右横を8機のFw190が西に向かっている。後続がフランスに到達したなら、前方に見えるはずだ」

「こちらは海を超えました。了解です。前方を探してみます」

「周波数を戻す。何かあったらユングに連絡してくれ」

 ゼウスの耳にプチプチと無線の送信ボタンを2回押すノイズが聞こえた。「了解」を意味する合図だ。

 部下のP-51は16機が後に続いていた。悪天候が続いて整備の時間がたっぷりあり、多数の機体が出撃していた。

 ゼウスは、『ジョーカー』ではないと明確に分かる敵は相手にしないことにしていた。後続のP-51が間に合う敵ならば積極的に譲る考えだった。

 交信を終えると周波数を通報用のものに変えた。

――ザーーーー――

 耳障りなノイズがヘッドフォンから聞こえ、ゼウスはゴーグルの下で顔をしかめた。

「ユング!」

 ゼウスは飛行隊の周波数に戻してウイングマンを呼び出した。

「はい」

 左後方を飛ぶ機体からすぐ返信がきた。

「君はずっとこちらの周波数だったな?」

「はい。飛行隊からの連絡は僕が中継する役割ですから」

「分かった」

「何かあったんですか?」

「後で確認してくれ。妨害されてる」

「妨害ですか」

「いつかこの日が来るとは思っていたが…」

 しばらくユングから返信がなかった。

「今確認しました。ノイズが連続していますね」

「誰かが無線の送信ボタンを押したままならいいのだが」

「いえ、これは妨害でしょう。ドイツはもう目と鼻の先です」

「偽の交信をよこしてこないだけマシか」

「流暢な英語を話す要員も限られているでしょうからね」

「まったくだ…。ショーティ、聞こえたな? 通報用の周波数はもうダメだ。敵に知られてる」

「了解です」

 後続のP-51に事情を話すと、すぐショーティの声で簡潔な答えが来た。


 視界を確保するため、2機のP-38はまた高度を一時的に下げた。

「9時の方向、タイフーンが16機です」

 ユングが見張りを担当する方位について情報を寄せてきた。ゼウスは北の方角をちらと見た。森の上に白黒の帯を巻いた複数の単発機が飛んでいた。次にゼウスは南に目を転じた。

「4時の方向。109が8機。タイフーンを狙ってる」

「視認しました」

「背後を頼む。タイフーンを見殺しにはできない」

「了解です」

 ゼウスは機体を上昇させ、雲の底すれすれで反転して敵の戦闘機に向かった。

「くそ、あっさり見つかった」

 降下に転じて敵を正面に見据えたとき、4機が自分の方に翼を翻すのを認めた。

「こちらに勝つ気でいますね」

「ライトニングは目立ちすぎる。数も2機だけだ。敵の小隊長は妥当な判断をしている」

 エンジンの出力を上げ、機体を右に傾け、流れゆく森の上に敵の4機編隊を見ながらゼウスは飛行を続けた。

「速度を殺さないようにする。1撃かけたら上に逃げる。『ダイブ&ズーム』、ライトニングの基本で行く。ユングは上をキープして敵の2番機と第2ロッテの警戒を続けろ」

「了解」

 敵の4機編隊は2機と2機に別れ、先頭の2機もさらに1機ずつに別れた。小隊長らしき1番機は森のすぐ上の高度をゆるいカーブで旋回を続けていた。速度が乗ったゼウスのP-38が追いつくのはごく容易に見えた。

「ユング、2番機はどこか?」

「隊長の後下方半マイルですね。死角から狙ってます」

「了解。第2ロッテも気をつけろ。妙な動きがあったら教えてくれ。即上空に逃げる」

「動き次第では僕が2番機を叩きます」

「かまわないが、落とされないことを第一にな」

「了解」

 ユングの話で敵の1番機が今囮として動いていることが確実になった。まだ照準器の中の小さい点でしかない敵。それが確実に弾丸が命中する距離になるまで追跡を続ければ、腹の下から敵の2番機に撃たれる。

「横滑りが巧いな…」

 この前のように遠距離射撃を図り、敵の機首の方向と進路との『ずれ』に気がついた。

「ここから1撃かけて上に離脱する。深追いは禁物だ」

 ゼウスは照準器の中心から敵の機影を下にずらし、想定される未来位置に狙いを定めた。敵の機体は照準器からはみ出し、計器板のフードに隠れるほど下にずれた。ゼウスは火器の発射ボタンを押した。

 ダダダッ。

 操縦席が震え、硝煙が視界を覆い、曳光弾がまっすぐ前方に伸びていった。ほんの一瞬の間を置いて、遠心力で下に湾曲した曳光弾の先がMe109をとらえた。機体から部品がぱっと飛び散ると、次に白い煙を吹いて109はぐらりとゆらめいた。

「1機撃破。2番機はどうだ?」

 敵から一度目を離し、機体を上昇に入れてゼウスは聞いた。

「今追っています」

「一撃で上に逃げろ。戦果は気にするな。生きていれば次を狙える」

 ゼウスは上昇する機体から頭をめぐらし、部下と敵の機体の位置を探った。

「撃ちます!」

 視界の隅で曳光弾が森の上を横切った。

「当たりませんでした。上に退避します」

「上出来だ」

 ユングのP-38が雲に向けて刺さるように上昇するのをゼウスは見つけた。彼もそれを追って飛び、ユングの位置を把握した上で、眼下に新たな敵の影を探った。

「11時の方向、109が2機」

 ゼウスは見つけた敵の様子を告げると、同時に、機体を左に傾けた。森の上で2機が集合しつつあるように見えた。先程攻撃した小隊の第1ロッテだろう。自分が撃破した隊長機と、ユングが攻撃したウイングマンだ。第2ロッテはどこか。旋回する左の翼の先に見える森の上空に、彼はさらに視線をめぐらし敵を追った。

 ガンガンガン!

 突然、機体を激しい振動が襲った。

 ――被弾? まさか!――

 自分としたことが、背後の見張りを怠った。はっとしてバックミラーを覗いたが、もう敵の影は見えなかった。後の祭り。

 衝撃は機体の右側から襲ってきた。ミラーの次に右のエンジンナセに目をやった。右エンジンの下を、Me109が2機、斜めによりそった編隊を組み、こちらに腹を向けて雲の下を遠くへ飛び去っていった。

「あいつだ!」

 機体そのものはメッサーシュミットMe109でこれといって特徴はない。しかし、敵の隙を突いて襲い、的確に命中弾を送る手慣れた攻撃は間違いようがなかった。彼が追っている敵、『ジョーカー』そのものだ。

 敵も自分と同じように雲に隠れて敵を伺い、チャンスを見つけて襲ってきた。そうに違いなかった。

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