第19話 翼を失くした男
厚く垂れ込めた雲の下を車列が移動していた。森の中の細い道。ジープならすれ違えるがトラックは道幅いっぱいだった。
ジープの助手席で、ゼウスはちらつく雪を眺めた。寒空の下幌もなく、落ちた雪は音もなく溶け、羽織ったポンチョを濡らした。
アメリカ軍の野営地に収容されてから3日。燃えるP-38から脱出してから一週間ほどが経っていた。まだ体のあちこちに痛みはあるが、「負傷兵」というほどではないため、輸送部隊の帰りに便乗することにした。曇り空で空襲の恐れは低いとみなし、夜明けとともに部隊は出発した。車列は10台近いジープが機関銃を搭載して護衛し、十数台のトラックもそれぞれに機関銃が搭載されていた。
まだ雪が残る道を、スパイクタイヤのジャリジャリという音とともに車列は進んだ。最後尾に近い一台のジープの助手席がゼウスの場所だった。運転手は護衛を担当する小隊の伍長だった。入隊して初めて車のハンドルを握ったという。しかし、上陸作戦から半年も大陸を走り回り、もはや十分に運転に慣れた様子だった。後ろの荷台では、二等兵が荷台に腰掛けていた。M2重機関銃は荷台から伸びた架台に据えられていた。
「中佐殿、燃えている戦闘機から脱出したと聞きましたが、本当でありますか?」
「まあな。ヘマをした。あと、そんなに固くならなくていい」
羽織ったポンチョのフードを顔の前に降ろし、冷たい風を少しでも防ごうとしながらゼウスは答えた。ポンチョの下は脱出したときの飛行服のままだった。救命胴衣は邪魔だったが、少しでも寒さを防ごうと捨てないで身につけていた。胸のホルスターにはM1911があった。防寒着は野営地で余っているものを分けてもらった。タグにドイツ語が書かれていて、鹵獲品だと後で分かった。
「一歩間違えればあっちで帰ることになっていた」
ゼウスはジープの前を走るトラックの荷台に目をやった。ジープの高さからは見えないが、一見空に見える荷台の床に、何体かの遺体袋が置かれているのを確認済みだった。
「生き延びたのは中佐の腕前があったからですよ。どんな戦闘機に乗ってたんですか?」
「P-38だ」
「『ライトニング』ですか! すごい!」
伍長は機種を聞いて声のトーンが一段高くなった。
「後ろの見張りを油断して、このザマさ」
「そんなことは気にしないでくださいよ、無事脱出できたんですから、また戦闘機でドイツ軍をどんどん落としてください」
「善処する」
ゼウスは椅子に深く体を沈めながら答えた。ダッシュボードのすぐ前なら、ヒーターの暖かい風が感じられると分かった。野営地のテントは隙間風が気になったが、まともなストーブがあり、吹きさらしのジープよりマシだったと考え直した。
車列はいつしか森を抜け、畑の中の田舎道を進んだ。雪がやんだことにゼウスは気づいた。それについて話をしようと思ったところ、車列が突然動かなくなった。
車はしばらく動いては止まり、動いては止まりを繰り返し、その動きから、前方に障害物があってそれを避けて進んでいると察せられた。
「タイガー戦車ですよ。昨日通ったときも邪魔でした」
伍長が道路の右端を指差して言った。道端にいくつか破片が落ちていて、その前の方で、黒焦げになった戦車が横たわっていた。力なく下を向いた砲塔は、あきらかにこの戦車が死んでいることを示していた。
「M4戦車が何台いてもダメだったんですが、空から攻撃したら簡単にやられたそうです」
道の半分を塞ぐ鉄の塊を避けて走りながら、伍長が説明した。戦車を避けて通れるよう、畑にはみ出して道路が応急的に整備されていた。
その先も、路上に装甲車が何台も放置されていた。道端にトラックの残骸が押しのけられていることも少なくなかった。
「ドイツ軍はせいぜいここまでしか来られませんでした。噂じゃアントワープを占領するつもりだったそうですが、ガソリンがこのあたりで尽きたそうです」
「それでは、この付近はもう安全と考えていいのかな?」
「ええ。天気によりますがね」
そう言いながら伍長は首をぐるりとめぐらして、外の様子を確認した。雪はやみ、雲も切れ間が目につくようになっていた。
「来やがった!」
ゼウスは、空の様子に油断できないと自覚し、伍長や二等兵と同じく、周囲の空の警戒を始めた。そして、右後ろを見たとき、小型機の緩い4機編隊を遠くの雲の下に見つけた。まだ敵は小さく、こちらに向かっているかどうかも不明だった。
「4時の方向だ! 109が4機!」
「ドイツ軍です!」
荷台の伍長も後ろを仰ぎ見、ゼウスが見つけた戦闘機を視認した。
「こちら3号車、ドイツ軍です! 右後方!」
伍長が無線で車列に情報を送った。トラックが一瞬震えたかと思うと、黒煙を吹き上げて加速を始めた。伍長も合わせてアクセルを踏んだ。
「まいったな。もうこんなに晴れていたのか」
曇り空は朝より明らかに明るくなっていて、伍長が少し後悔を込めてつぶやいた。雲の切れ間から青空が覗くこともあった。
「109はこの車列を狙ってるわけではないな」
戦闘機の進行方向がこちらに向いていないことを確認して、ゼウスが伍長に告げた。
「前方からフォッケウルフが来ます!」
二等兵が手袋をした手で前を指差し叫んだ。
「くそ、190が8機か!」
ゼウスは、その方向に空冷エンジンの戦闘機を認めた。
「爆弾積んでます!」
「よく見つけた!」
――パンパンパンパン!――
前のトラックに据えられたM2重機関銃が発砲を始めた。
「狙いはこの車列だろうか?」
まだ敵は機関銃の射程より遠いように思え、ゼウスは聞いた。
「分かりません。しかし、無抵抗だとわかれば確実に襲ってくるでしょう」
速度を上げたトラックに追随しながら伍長が答えた。
二等兵はM2重機関銃の装填を終え、前方の敵に向け発泡した。
――パンパン!――パンパン!――
間近で聞く50口径の銃声は耳を圧倒した。
「中佐、これを!」
伍長は片手で荷台を探ると、ヘルメットを叩いた。
「分かった。前に注意だ」
ゼウスは2つのヘルメットを持ち上げると、片方を伍長の頭に載せ、もう一方を自分でかぶった。伍長は運転しながら器用に顎紐を締めた。
Fw190は4機が輸送部隊を取り巻くように旋回を始めた。ほどなく2機と2機に別れ、先行する2機が翼を傾けて降下を始めた。時間差をつけて2機ずつ襲ってくるようだった。残りの4機は上空の援護だろう。
「本当に爆弾を落とすようだな…」
「姿勢を低くしてください!」
二等兵が上からそう叫ぶと、降下に入ったF190に銃口を向けて本格的に撃ち始めた。爆弾を抱えて緩く降下してくる2機に、何本かの曳光弾が伸びていった。
ゼウスは頭上のヘルメットの位置をしっかり定めると、姿勢を低くしたまま、ホルスターからM1911を抜き、スライドを引いて装填した。
「狙いはトラックか!?」
「そのようですね!」
ヘルメットを片手で抑えながら伍長が答えた。敵の進路がこのジープから明らかにそれていた。
「機関銃は当てられそうか?」
「数が頼りですよ!」
発砲の合間に二等兵が応じた。
「十字砲火で撃てば、当たらなくても、狙いが逸れます!」
――パン!――パン!――
ゼウスは先頭のFw190を狙ってM1911の引き金を引いた。M2と比べてささやかな銃声が聞こえた。薬莢がジープのボンネットで跳ねた。
Fw190は爆弾を投下し、トラックの上をすり抜けて退避した。グレーの塗装に黒い十字の国籍マークがくっきりと見えた。
――ズーン!!!――
腹に響く轟音とともに、右手の畑で煙が上がり、土のかけらがバタバタと落ちてきた。
「なるほど、2発とも外れか!」
ヘルメットについた泥を払いながらゼウスは、背中を見せて上昇し、退避してゆくFw190を見送った。
「次の2機が来ますよ!」
視線を戻すと、別の2機が降下に入るところだった。上空を旋回して地上攻撃の援護に当たっている4機も確認できた。
――ズーン!!!――
次の2発は、道の左の脇に落ちた。
二等兵の言う通り、多数の機関銃が敵の攻撃を妨げたことになる。おそらく、敵のパイロットも経験が足りないのだろうとゼウスは思った。
「ピストルは無意味だな!」
「まあそうですね」
弾倉が空になったM1911のスライドを前に戻しながらゼウスは話した。伍長は特に感情を込めずに答えた。空襲に怯えて拳銃を打ちまくった中佐、と馬鹿にした気配はなかったが、彼の内心は知りようがなかった。
「中佐なら、あれを追いかけて落とせるんでしょう?」
「戦闘機があればな!」
「パイロットは飛行機に乗ってこそですよ。今は死なないことを考えてください!」
「ああ、そうする!」
M1911をホルスターに戻しながらゼウスは答えた。
姿勢を低くして次の爆撃に備えたが、Fw190は8機すべてが動きを変え、爆撃をあきらめて去っていった。
程なく、P-51の編隊がその後を追って、輸送部隊の上空を飛んでいった。
車列は危機を脱し、各車がアクセルを緩めた。車の騒音がいくらか小さくなった頃、遠くの雷のように機関銃の音が響き、低い爆発音が聞こえた。
「『ムスタング』が1機撃墜、かな?」
どちらの戦果か思案しながら空を見ると、P-51の2機編隊がさらなる敵を追って、輸送部隊の上空で鋭い旋回をしながら去っていった。翼端から2本の細い雲の筋が見えた。
「アメリカ軍が負けるわけはありません。ドイツはもうお終いですよ」
速度を落とし、空を見る余裕のできた伍長がゼウスの言葉に答えた。
――全体の趨勢はな――
ゼウスは心のなかでそう返した。
問題は、稀に手痛い反撃をするエキスパートがいることだ。
彼の機を撃墜した『ジョーカー』について、次はどうすれば勝てるかと、考えをめぐらした。
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