第6話 離陸

 遠く、雲の上に黒い影となって敵の双発爆撃機が見えた。ゼウスは8機の列機を引き連れ、慎重にその背後へと近づいていった。白い綿雲の上を飛ぶ、敵の6機の爆撃機。その梯団のうち、最後尾左端の機体に狙いをつけ、照準器に捉えるべくさらに距離を詰めた。しかし、不意に彼の視界を、曳光弾が横切って塞いだ。

 ゼウスはラダーペダルを蹴って近づいてくる射線をギリギリでかわし、直後に右に急旋回して背後の敵の戦闘機を探した。

 座席ベルトで縛り付けられた上体をできるだけ大きく動かし、左後ろ、右後ろ、頭の上、とにかく見えるところを探した。機体がだいぶ大きく回ったところで、頭上の視界の隅に白っぽい敵の機体を確認した。

 青空を背景にピンと翼を広げた、カモメのような白い戦闘機。その翼の端の赤いしるしがやけに鮮やかに見えた。

「こちら『ハリー』。1機のゼロがケツについてきた!」

 無線で列機ウイングマンに状況を伝えた。しかし応答はなかった。

 ゼウスは出来る限り上体を反らし、頭の上を見続け、敵を見失わないように旋回を続けた。しかし、敵の位置はじりじりと自機の背後に回り、ついに視界の上端に消え、見えなくなった。

(このまま旋回を続けているとやられる!)

 ゼウスは右に踏み込んでいたラダーを反対側に蹴り、機体の揺れに合わせて操縦桿を左に倒すと、機体の進路を大きく変えた。目の前で地平線がぐるりと回り、彼のP-40は右旋回からS字を描いて左に向きを変えた。

 ゼウスは再び後ろを見た。

 ガンガンガン!

 敵の姿を視認する前に、背後の防弾板に敵の機関銃の弾丸が命中した。激しい振動に全身の毛がよだつ感覚が走った。

 P-40に可能な最大限の機動を行ったつもりでいた。しかし、ゼロはこともなげに追随していた。

 再び向きを変えれば、旋回がゆるくなった隙を敵に確実に突かれるだろう。ゼウスは力を込めて操縦桿を引き、この機体に可能な最大限の急旋回を行った。

 旋回で体にかかる荷重は体重の3〜4倍になるかと思われた。それでもゼロは離せない。視界の隅を時折曳光弾が飛んでいった。さらにもっと鋭く回らなければいけない。ゼウスは操縦桿を力任せにさらに引いた。すると、すっと遠心力の荷重が自分の体から抜けた。

 P-40は急旋回の最中に失速した。機体がありえないほど上を向いたと思うと、右の翼がガクンと落ち、左旋回の外側に放り出されるように飛び、続いて制御できないスピンに陥った。

 一度抜けた下向きの遠心力は、スピンの回転運動のため、機体の横方向にかかるようになった。ゼウスは失速状態の機首を下に戻すよう操縦桿を押し、スピンの向きと逆に機首が向くようにラダーペダルを踏み込んだ。

 しかし、P-40のスピンはなかなか収まらなかった。

 目まぐるしくうごめく外の世界では、白い零戦の影が現れては過ぎていった。この制御不能の機体に舌なめずりして、攻撃するチャンスを伺っているように思えた。

 ガンガンガン!

 そしてふたたび、乗機が被弾した。衝撃は翼から伝わってきた。スピンが収まらないため、敵弾がどの方向から来るか知りようがなかった。

 ガツン!

 最後の最後に激しい衝撃が走った。

「くそ! 20mmか!」

 ゼウスの視界の片隅に、折れてひしゃげるP-40の主翼が映った。

 彼の機は操縦を取り戻すことはかなわず、翼をもがれた状態で、一層激しく回転し、急速に高度を失っていった。


 はっ!

 目を開けた彼は、朝が近づく薄明かりがのぞく窓と、それに照らされた板張りの天井を見つめた。

「夢か…」

 それはゼウスが初めて体験した、アジアでの空中戦の記憶だった。背後の防弾板に機銃弾が当たったのは事実だ。しかし、機体を急降下に入れ、離脱に成功した。20mmが命中したことはなかった。零戦の7.7mmと20mmは弾道特性がかなり違う。初速が遅い20mmは動きの速い戦闘機にそうそう当たらない。

 秋の肌寒い朝なのに、毛布の下で彼はぐっしょりと汗をかいていた。上体を起こすと、右手で額を拭った。

 ベッドから立ち上がり、机の上に置いた家族の写真を手にした。


 クリスマスには帰ってきてね!

                            ダイアナ


 妻と娘が並んで立つ姿を見ながら、ついこの前、娘が送ってきた手紙の一文を思い出した。戦争の慌ただしさなど少しもうかがえない、無垢な笑顔にゼウスは目を細めた。

 心の平安を取り戻すにはいつも、この写真が有効だった。


 コンコン。

 迎えの当番兵がドアを叩く音がした。英国空軍の既婚者用宿舎の一室がジェイコブソン中佐の居室となっていた。

「おはよう。今日もご苦労さん」

 革のフライトジャケットを着込み、髭を剃り、油で髪を整えたゼウスは、ドアを開けると当番兵に気さくに挨拶した。


 英国にしては爽やかな朝だった。東の空に昇る朝日は、ドイツの方角の良好な天候を教えてくれた。アメリカ陸軍の第8空軍は今日もB-17とB-24の爆撃機、合計800機の離陸の準備を進めていた。

 ゼウスの率いる飛行隊は先頭の梯団の往路の護衛が割り当てられた。そのためのブリーフィングは夜明けの時間に行われた。エプロンでは12機の銀色のP-51が並んでいた。各4機でホワイト、イエロー、ブルーの3個小隊を編成する。

 ゼウスはホワイト小隊のリーダーとして、飛行隊の先頭にたって機体を発進させた。

 塗装が行われていない銀色の胴体。主翼も銀色の塗装。鋭く長い機首を空に向けたP-51Dは、ところどころ鉄板が敷いてある泥の飛行場をゆっくりと進んだ。エンジンの音は轟々とイングランドの田園地帯に響いた。機体はある程度まっすぐ進むと、少し向きを変え、予め安全が確認されていた方向にまたまっすぐ進んだ。パイロットはキャノピーを開けて周囲の確認を怠らなかったが、そびえ立つ機首のために真正面はどうしても見えなかった。

 P-51Dの胴体や翼は白と黒の目立つ縞模様が描かれていた。「インベイション・ストライプ」と呼ばれる、連合軍の識別塗装だ。この模様では迷彩もなにもない。それならばと、1944年の夏以降、新しい機体は塗装の工程が省略されて英国に送られてきた。

 銀色の機体は機首の上面が太陽の反射を防ぐよう黒く塗られていた。ゼウスの率いる飛行隊はその黒塗装の下の、機首の前半分を赤と白のチェッカー模様に塗っていた。プロペラスピナーも赤に塗った。目立たないようにするという配慮はかけらもなかった。輝く金属の地肌に太い白黒の縞模様では隠れようがない。ならば、出来る限り派手に塗り、パイロットの士気を高める方がよい。

 どの機体も垂直尾翼や胴体に識別のための数字や文字が描かれていた。また、機首の左側に、各機体に固有の名前が書き込まれていた。そして、キャノピー枠の左にはその機体に主に乗るパイロットの名が書かれていた。

 全ての機体がそれぞれ名前を持つ、かけがえのない戦力だった。

 『ダイヤモンドA』、『ユングフラウ』、『ブラウン・メアリー』、『ブラック・ホース』。この4機が先日の戦闘で失われた。

 ゼウスはその仇をとりたいと思った。しかしそれよりも、なぜ4機が不意打ちを受けたのかが知りたかった。その手練の敵にこの任務で必ず遭遇すると限らないことは理解しているつもりでいた。しかし、敗色が濃厚となってゆくドイツ空軍で、まだ高い技量と統率力を有する戦闘機隊がいるのなら、ぜひこの目で確かめたいと願っていた。


 『ヘラ・オールマイティ』

 ゼウスのP-51はこう名付けられていた。中佐に昇任し、基地司令から『ゼウス』の名をもらったとき、飛行隊に到着した新品の機体にその名が書き込まれた。機首の左側に白いペンキの筆記体で書かれ、赤で影がつけられていた。

 自分の機体にどんな名前をつけるか、それを考えているときに、整備隊の機付の軍曹がにこやかにこの機体を披露した。この忙しいときに塗り替えろとはとても言えなかった。

 ギリシャ神話の神ゼウス。その2番目の妻の名がつけられたP-51は、彼が他の任務で飛べないときは、固有の機を持たない他のパイロットが乗った。名前のついた機体も、必ずその持ち主が乗るとは限らなかった。できるだけパイロットと機体の組み合わせは変わらないようにしたが、どうしても整備の都合などで組み合わせが変わることがあった。そういう意味では、キャノピー枠の左側のパイロットの名前は、必ずその人が乗るというわけではなかった。一方、右側に書かれた機付き長の名は偽りがなく、彼が機体の整備の全責任を負った。


「管制塔より『レッドチェッカー』のホワイトリーダーへ、離陸を許可する」

 草地の滑走路の風下側の端に到着し、機首を向かい風の側に向けると、程なく管制塔からの通信が入った。『レッドチェッカー』はこの飛行隊のコールサインだ。

「こちら『ゼウス』、ホワイト小隊離陸する」

 しまった。

 彼は思った。

 つい『ゼウス』というこの前返上したニックネームを使ってしまった。

「こちらホワイト・ツー、了解、『ゼウス』」

 僚機から次々と了解の通信が入った。

 まあいいか。

 全能の神の名も悪くないかもしれない。彼はそう感じつつあった。

 計器盤中央下のレバーを引きタイヤのブレーキをかけた状態のまま、彼はスロットルを押し込み、エンジンの出力を上げた。足の間の燃料切り替えコックが『サドルタンク』にあることも一瞥した。轟音と振動が彼をゆさぶった。計器を一通り確認し、特に異常はなかった。操縦桿を横に倒すと倒したとおりに補助翼が動いた。主翼も特に異常なし。

 ゼウスは再び前を向くと、レバーを戻してブレーキをリリースした。

 12機のP-51は2機ずつペアを組みんで走り出し、次々と滑走をはじめた。

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