第5話 ゼウス

 ハロルド・H・ジェイコブソン中佐は我慢できないことが二つあった。煙草のヤニと、自分についた「ゼウス」というニックネームだ。

「メッサーシュミットが1個飛行隊。B-17ではなく、護衛の『ムスタング』を襲ったと。大尉の見解もそういうわけだな」

 ブリーフィングルームに集まった飛行服の男たちの間で、カーキグリーンの糊の効いた制服に身を包んだゼウスは、その日の戦況について話を聞いていた。彼らが囲む机の上には地図が広げられていた。

 秋の日没は早い。窓の外の夕日が室内を赤く染め、ほどなく薄暗くなっていった。そして、地図はほとんど読めなくなった。

「イエロー小隊の見解では109は24機と言っていますが、そんなに多いとは思えません。多くて16機。私の認識では12機ですね」

 ホワイト小隊の小隊長、つまり本日襲われたP-51の飛行隊の長機として飛んだゲイリー・R・ショート大尉が、煙草を持った手で口髭をしごきながら答えた。

「しかし、第一に、今のドイツ軍にそれだけまとまった数の109を気前よく飛ばす燃料があるのか。第二に、爆撃機ではなく戦闘機に堂々と戦いを挑むほど、経験豊富なパイロットが揃っているのか。ショーティ、それについてどう思う?」

 ぜウスはショート大尉をニックネームで呼びながら訊いた。名前に似合わず183cm(6フィート)を軽く超える身長の男だ。顔にはまだ酸素マスクの跡が残っていた。

「元から護衛を撹乱するのが狙いだったのでしょう。部下が3機を落としています。『エクスペルテ』はそれを率いる隊長機だけだったんじゃないすかね。むしろ部下の教育が狙いなんですよ。爆撃機なら銃座から返り討ちにあいますが、戦闘機は後ろに撃ってこない。一撃をかけて雲に逃げ込めば、B-17を狙うより生き延びる確率は高いでしょう」

 「エクスペルテ」とはエキスパートのドイツ語だ。熟練の操縦手をドイツ空軍ルフトヴァッフェではそう呼ぶ。その言葉には「エース」の意味合いも含まれている。連合軍では敵を5機以上撃墜した「エース」がそう多くなかった。それに対し、ドイツでは数百人のエースがいた。100機を超える真の撃墜王も、ドイツの広報を信じるなら相当数いる。つまり「エース」と「エキスパート」はほぼイコールとなる。

「君の見解も頭から否定はしないでおくが、ならなぜ君たちは、1個飛行隊の109が背後に忍び寄るまで気がつかなかったのかな?」

 ぜウスは片方の頬を引きつらせながら、できるだけ穏やかに話した。


 大尉はしばらく下を向いて考えをめぐらし、その際にジッポのフリントホイールを弾いて煙草に火を点けた。

「太陽を背にして、不意を突かれた。これは認めましょう。あなどっていました。爆撃機ならともかく、護衛の戦闘機が真っ先に狙われるという考えが正直ありませんでした」

 大尉はごまかさずに見解を話し、吸い込んだ煙を大きく吐き出した。薄暗い部屋に青白い煙が漂った。

 ぜウスはあからさまに顔を歪め、煙の塊が自分に向かってくるのを避けた。

「君の落ち度は認めるわけだな。いいだろう。ならばまず、その煙草をやめることだ。高度3万3千フィートの薄い空気でももっと酸素を脳に取り込めるようにな」

 彼は喫煙者が理解できなかった。あんな煙を吸ったところで何もいいことはない。むしろ、ひどい臭いを身にまとい、窓や天井をヤニで汚す。彼らのヤニが詰まった肺では、3万どころか、1万フィートでも判断力が低下するだろう。パイロットは最も煙草を吸ってはいけない職業だ。彼はそう信じていた。

「ゼウス中佐どの、ですが、地上で思考をシャープに保つには、この煙は効果的なのであります。サー!」

 ショーティ大尉はかしこまってそう答えた。禁煙など耳を貸すつもりはないという堂々とした答えだ。陸軍航空軍にあっては、中佐が一人訴えたところで煙草の禁止など不可能。そういう自信が伺えた。面白い返答ではないが、ぜウスにはもっと頭を振り向けるべき重要なことがあり、部下の禁煙など二の次のため聞き流した。

「ともかく、だ。今日の護衛任務で君の飛行隊は4機が未帰還になった。スプリングの話で、ユングがベルギーに不時着して無事だというのは分かった。だが、小隊長のラディッシュ、バットレス、そして新人のホッパー。この3人は絶望的だ。戦争に犠牲はつきものとは言え、一個小隊が一度に全滅したというのは、イングランドで護衛任務に就いて初めてのことなんだよ」

 ぜウスはそう話して、ほぼ真っ暗になったブリーフィングルームを見渡した。

 任務終了後のデブリーフィングだった。戦果を報告し、任務の達成度を評価する。また、作戦で明らかになったことを挙げ、話し合い、次の任務にそれを反映する。

 まだ飛行服を着たままの12人の男たちがそれぞれ適当に椅子に座り、飛行隊長のショーティは最前列の席の前で立って話をしていた。座っているパイロットも何人かが煙草をふかしていた。闇に沈んで分かりにくいが、いくつかの空席があった。それが朝より4席多くなっていることは間違いなかった。


「私は、ルフトヴァッフェはそんなに多くの109を上げていないと思う。2個飛行隊ということはまずない」

 ぜウスは自説を述べた。

「ロンドンに野暮用がなければ私が先頭に立って率いるべきだった。嫌な予感がしたよ。どの機も戻ってくるのが早すぎる。いつもなら基地に戻ってアフタヌーンティーを楽しむ時間がたっぷりあるはずなのに、まずスプリングが帰ってきた。第一声が『ユングが不時着した』だ。それから1時間も空けずに、戻ってこられる機体は全部戻ってきた」

 話す相手が自分だけでないと分かると、ショーティは椅子に座り、腕を組んで煙草の先を揺らした。

「燃料タンクを捨てた時点で敵の狙いは達成したんだ。B-17の編隊に先行して露払いをするP-51を燃料不足に追い込む。これを成し遂げるだけなら、自分がドイツの指揮官なら4機以上は出さない。1飛行隊が8機か12機か分からないが、これでも多いくらいだ。だが、一応君たちの報告は信じることにしよう。P-51が109に似ているからといって、そうそう誤認することもないだろう。3機の撃墜報告に対して、こちらの損害は最初に墜落した3機と不時着した1機、つまりレッド小隊のみだ。これがドイツの戦果だということははっきりしている。多少の誤認があっても味方に損害を与えなければ、そんなことは戦場ではありふれたうっかりミスの一つだ」

 ぜウスは皮肉を込めて、遠回しに味方の誤認の可能性に言及した。同士討ちで犠牲が出ていなかったことには心からほっとしていた。

「そして君たちともう1つの飛行隊は、目標の100マイル手前で引き返して帰ってきた。護衛の2個飛行隊を失ったB-17には、ベルリン近郊で待ち構えていたMe262の編隊が襲いかかった。真打登場が敵のシナリオだったんだよ」

 ほぼ真っ暗になったブリーフィングルームでいくつもタバコの火が揺れていた。

 窓際の何人かが気がついてカーテンを閉めた。遮光カーテンが完全に窓を塞いだのを確認して、ゼウスは自分で壁のスイッチまで歩き、電灯を点けた。温かい色の光が、煙った部屋に座る男たちを照らした。


「しかし中佐。『ジェット』が相手では、どのみち我々の存在など…」

 イエロー小隊の小隊長が異議を唱えた。

「もし燃料が満タンのP-51に乗っていたら君たちはどうした? 往路の任を解かれた君たちは着陸間際の262を何機か落とせたはずだ。ドイツ軍は虎の子のジェットがかかえる弱点を守ることができた。恐ろしく効率的な一撃だったんだよ。…まあ、どこまで262の飛行隊との連携を意図していたかはわからないがね」

 ゼウスは彼の目を見つめてそう説いた。

「君たちの護衛対象だった80機のB-17は、12機が被弾し、うち8機が撃墜された。我々の1個小隊と、この12機が本日の我々の損害の全てだ」

 ふたたび全員の方を向き、彼は損害について語った。デブリーフィングの前に確認しておいた数字だ。電話の向こうの爆撃機基地の悲痛な声を彼は思い出していた。

「今日一日で出撃したB-17は全てを合計すると750機ほどだ。それに対してはわずか1.5%の損害に過ぎない。他の部隊の被害を集計すればもう少し損害の規模は大きくなるだろうが」

 護衛対象だった部隊の損害は基地に電話してすぐ把握できたが、英国に展開している第8空軍の全ての損害が分かるのはずっと先のことだった。

「とにかく、8機のB-17の犠牲は小さくない。80機で出撃した航空群にとっては10%だ。命からがら戻ってきた4機を加えるなら15%。死者は10機の80人は絶望的だろう。戻った機体も機上で戦死した者がいる。負傷者も合わせれば死傷者は100人を超えるはずだ。これは爆撃機の部隊が許容できる数ではない。3人を失った我々もその気持は分かるな?」

 ブリーフィングルームに重い沈黙が流れた。さすがに彼も、このタイミングで煙草をやめろとは言う気にならなかった。

「ドイツの敗北は時間の問題だ。我々が戦わなくても、ロシアがやがてベルリンを飲み込むだろう。だが、少しでも気を緩めれば、我々も多くの血を流すことになる。ドイツにまだまだ戦える飛行機と、戦えるパイロットがいることを忘れないことだ」

 ぜウスは改めて、彼らを襲った熟練パイロットについて注意を促した。

「ユングの状況は今英軍に問い合わせている。できるだけ早く戻れるよう手配する。私も彼から話を詳しく聞きたい。とにかく敵の出方を分析しなければならない」

 そして一呼吸置いて強調した。

「それから、次の出撃は、私も必ず出る。もうつまらない仕事はきっぱり断ることにする。自分のこの目で敵を見極める。あと、『ぜウス』という呼び名も返上だ。今日の惨憺たる結果ではとうてい『全能神』の名は受け取れない。次からは以前のように『ハリー』と呼ぶように」

 ぜウスは二つ目の許せない事柄を追加した。ギリシャ神話の全能の神など、元から望んでいた名前ではない。名付け親が基地司令なので断われなかっただけだ。

 そして、味方の犠牲はもっと許せなかった。命に変えても爆撃機を守るのが護衛の戦闘機隊の役割だ。今日のような不手際が二度とないよう、彼はしなければならないことを数え始めていた。

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