第3話 低空飛行

 バットレス中尉はレッド小隊の3番機、第2エレメントのリーダーとして、第1エレメントに続いて東に向かった。右後方をちらりと見ると、新人のホッパー少尉が順調についてきていた。彼にとって往路の護衛任務はこれが初めてだ。

 足元に厚く積み重なる雲は、東のはるか前方では薄くなってきているような気がした。目標まで飛べばいくらかでも地上が見えるかもしれない。

 1000mほど上を、幾筋もの飛行機雲を引いて仲間の機体が飛んでいた。あの高さならもう爆撃目標の天候は分かるだろうか。

 南方向となる右横に真昼の太陽が輝いていた。敵が太陽の方向からの攻撃を好むことは彼の今までの経験で熟知していた。したがって、一瞬で彼は異常に気づいた。右上の4本の飛行機雲が突然下方向に曲がっている。

 すぐその下を目で追った。空中にピカピカと光る火焔に気づいた。

「太陽からドイツ機!」

 報告すると同時に、第1エレメントに注意を向けた。そして、先頭の小隊長機のキャノピーが砕ける瞬間を目撃した。粉々になった破片は太陽にキラキラ輝きながら、彼の機体の下を後方に流れていった。

 操縦桿のボタンを押し、主翼の落下タンクを投棄すると、一瞬浮き上がった機体のすぐ横を曳光弾が幾筋も流れていった。

「ホッパー、右ロール!」

 おそらく同様に攻撃されているであろう部下に、退避の機動を指示した。自身も鋭く右に機体を倒すと、敵弾は1発も当たることなく左方向に逸れていった。

 操縦桿を切り返すと、敵の編隊が降下してゆくのを目撃した。第1エレメントの方では、小隊長期らしい1機がタンクを抱いたままゆらゆらと降下を始めていた。2番機のウイングマンは白い煙を吹いていたが、まだまっすぐ飛んでいた。

 上空では、彼の通信を聞いた『ムスタング』が落とした落下タンクが、漏れあふれるガソリンとともにキラキラと輝きながら青空を舞っていた。


 バットレス中尉は敵を追い、雲をめがけて急降下を行った。左後方をちらりと見て、ホッパー少尉もついてくるのを確認した。

「計器から目を離すなよ!」

 部下と、そして自分にも言い聞かせるつもりで、通信の最後に彼はそう足した。

 次の一瞬で雲に突入し、視界を失った。

 雲の中で彼は人工水平儀を確認した。雲の中の乱気流に対し操縦桿で姿勢を正していたが、いつのまにか30度も左に機体が傾いていた。降下率も高すぎる。スロットルを引き戻し、操縦桿を押す力を緩めると、高度計の針の動きが徐々に穏やかになった。

「ホッパー、お前が見えない。そちらは俺が見えているか?!」

 姿が見えない部下に対して彼はそう告げた。

 送信ボタンを離したが、部下の返事はなかった。

「ホッパー! 計器を見ろ、姿勢を確認しろ!」

 そしてまた、送信ボタンを離した。聞こえる仲間の声から、通信が部下に伝わることが困難だということを理解した。

「『ハン』の後続部隊を探せ!」

「見つけました、500フィート下にいます!」

「こちらストーン、『ハン』がケツにつきやがった!」

「小隊長! 109の後ろをとりました」

「パワーズ中尉! 撃ってきています!」

「そいつは『ムスタング』だ! この大馬鹿者!」

 雲の上で味方の戦闘機隊は大混乱となっていた。無線は輻輳し、もはや部下一人に的確に情報を送るすべはなかった。


 フランク・S・マクドナルド中尉は、雲の中で歯を食いしばり、自らの感覚と計器との矛盾を相手に戦っていた。

 彼は英国の基地に着任して半年になる。しかし、どうして自分のニックネームが「バットレス」なのか、いまだに理解できなかった。

「『ムスタング』に乗ったバットレス、『フライング・バットレス』だ!」

 メスで酔っ払った同僚が突然そう叫んだ。彼は意味がわからなかった。

 操縦席で納得行かない状況に直面し、そんな駆け出しの頃の経験を思い出していた。

 彼は自分が右90°、つまり真横になって飛んでいると感じていた。しかし、計器は『ムスタング』が翼を水平にし、30°の角度で降下を続けていると示していた。

 コンパスが示す方位は南東方向、磁北に対して上から時計回りに135°だ。

 小隊長の仇を取るつもりで雲に突入したが、雲の中で敵がどの方向に飛んだのか、全くわからなくなっていた。南東に飛べばドイツの奥地に入り込む。敵が退避するならその方向だろう。

 彼は伝聞や経験から、急降下で攻撃をしかけたメッサーシュミットMe109が雲の中で上昇し、再度の攻撃を行うなど稀だと理解していた。特に「エクスペルテ」と呼ばれる上級の操縦者なら間違いなく、一撃で敵を仕留めたあと、第二の獲物を欲張ったりはしない。


 自分が真っ逆さまになっているという感覚が彼を襲い、計器盤を注視するバットレス中尉の違和感が最高潮に達したとき、機体はついに雲を抜けた。背面飛行のまま雲の上に飛び出したと一瞬感じたが、機体の下方向に大地が見えた。計器は終始正しく、彼の感覚のほうが間違っているとようやく身をもって知ることができた。

 眼下には黒々とした針葉樹の森が広がっていた。彼は地面にぶつからないよう降下の角度を緩めつつ、周囲を見渡した。

「ホッパー! こちらバットレス! 雲を抜けた。そちらの位置を知らせ!」

 無線機はだいぶ前から落ち着きを取り戻していた。しかしまだ、彼の部下からの通信はこなかった。

「ホッパー! 聞こえるか!? ホッパー!」

 送信しながら、再度周囲を見渡したとき、彼は雲の下に黒い影が動くのを目撃した。それは窓ガラスにとまるハエのように、黒く、小さく、しかし俊敏に動いていた。そして、そのズングリした機体の前面でオレンジの火焔が輝いた。

「レーダーで待ち構えてやがった!」

 彼は操縦桿を右に倒し、敵の正面方向に急旋回し、その腹の下を抜けた。

 太い機首。ずんぐりした胴体に小さい翼。フォッケウルフFw190だ。空冷エンジンを搭載したドイツのもう一つの主力戦闘機。

 敵をかわしたと思った瞬間に、左方向から曳光弾が前方に飛んだ。敵小隊の別の機体だ。

 こんどは左に切り返し、ふたたび銃撃をかわすと、彼の周囲に4機のFw190が飛んでいることを彼は把握した。敵は1個小隊でただ1機の米軍機を攻撃している。


 多勢に無勢の場合、敵をかわす第一の手は雲に飛び込み、急に向きを変えることだ。彼は頭上500mほどに見える雲の天井を目指そうと上昇を始めた。

 しかし、2機のFw190が急な角度で機首を上げて上昇し、瞬く間に雲の下縁に到達した。帰りの燃料を抱えたP-51が、低空の上昇力でかなう相手ではなかった。

 別の方向でも2機が雲の下ぎりぎりまで高度を上げ、こちらに向かっていた。

 残る手はこれしかない。

 彼は機体を真下に向け、一気に高度を落とした。それから操縦桿を力いっぱい引き、森の梢スレスレで水平飛行に移った。遠心力の重圧が解除されると、彼はキャノピーフレームの鏡で後ろ上方をちらちら見ながら、地面すれすれの低空飛行に移った。スロットルは最前まで押し、操縦桿を押して機体の浮き上がりを押さえて速度を増した。

 低空飛行は第二の選択肢だった。地上スレスレに飛べば下から攻撃されることはない。また、敵も地面との激突を恐れて、深い角度での攻撃ができなくなる。このまま敵の攻撃を次々かわし、できるだけ西へ飛べば、P-51ならいずれドイツから逃れることができる。

 彼は4機のFw190が2機と2機のペアに別れ、彼の右上と左上を飛ぶのを見た。2機のペア=エレメント、ドイツではそれを『ロッテ』と呼ぶことを彼は思い出した。左のロッテが降下を開始し、彼に鼻先を向けようとしたとき、彼は機体を左に切り返してその鼻の下に突っ込んだ。これで射撃の機会はないはずだ。

 第1のロッテをかわしたと思った直後、右方向から来た曳光弾が目の前を斜めによぎった。第2ロッテの攻撃だ。すかさず右に切り返し、敵の射弾を横切った。彼の頭上を、Fw190のズングリした胴体が高速ですれ違った。

 敵の第1ロッテはどこに行ったか。2個のロッテで挟撃しているなら、次は左だろう。そう予測し、挟撃を避けるため右旋回を続けた。そして、敵がいるであろう左の空を仰いだ。しかし、敵の姿は見えなかった。

 反対方向か? 首を右に向けたとき、まさに右斜め前方で、Fw190の丸い機首がこちらを向いていた。彼の機は敵の真正面に自分から突入した。次の瞬間、敵の機首と両翼の機関銃・機関砲が一斉に火を吹いた。『ムスタング』のキャノピーが粉々に飛び散り、風防の防弾ガラスは砕け、20mmの徹甲弾が彼の頭蓋骨を貫通した。

 高度を落として梢に接触したP-51は、バラバラに砕け散りながら森の中を転がった。続いて、オレンジの炎が列をなして燃え上がった。

 Fw190の4機は炎を見下ろしながら左にゆるく旋回し、旋回しながら集合して編隊を組むと、機首を東に転じて自分たちの基地を目指した。

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