第2話 バーティゴ

「あれがもしも敵だったら嫌だなあ」

 ホッパー少尉は目を細めて、飛行機雲を曳きながら太陽の中に隠れつつある4機の小隊を見てつぶやいた。


 エドワード・H・ホプキンス少尉は、これが3度目の爆撃機護衛任務だった。

 ちょうど一ヶ月前、大西洋の船旅を終え、イングランドの基地に配属となった。そこで早々に、先輩のパイロット達から「ホッパー」とニックネームをつけられた。バッタは作物を食い荒らす害虫だが、彼は農場の息子であると同時に、普通に虫取りが好きな少年だったので、別に悪い気分ではなかった。

 一週間前、それまで訓練に明け暮れていたホッパー少尉に初陣の日が来た。他の新人パイロット同様、小隊の最後尾、4番機を任ぜられ、エレメントリーダーの3番機とともに基地を離陸した。

 戦闘機は2機がペアなって「エレメント」を構成する。エレメントはリーダーと、それを援護するウイングマンからなる。2組のエレメントを組み合わせ、エレメント同士で援護し合うよう4機で1個小隊(フライト)となる。リーダーとウイングマンの二重構造が、戦闘機の作戦の基本単位だった。

 出撃前のブリーフィングで彼は、「エレメントリーダーから離れるな。敵を攻撃することは考えず、とにかくリーダー機を見失わないことを第一に考えろ」と厳命されていた。

 基地を離陸した『ムスタング』の飛行隊(スコードロン)は北海を超え、フランス、ベルギーを越えて第三帝国の空に進んだ。

 訓練で教え込まれたとおり胴体タンクの燃料から消費し、これを半分ほど使ってから主翼の落下式燃料タンクに切り替えた。落下タンクの燃料も尽きかけた頃に、東の方から来たB-17爆撃機と合流した。初陣の任務は爆撃機が英国に戻る復路の護衛だった。

 ドイツ機と交戦する機会はなかった。また、機体の故障や対空砲火に襲われることもなく、彼は無事にイングランドに帰還した。爆撃機も、高射砲で2機を失った他は英国に無事着陸した。

 翌々日にも同様の任務を彼は飛んだ。2度目は幾分か気持がほぐれ、欧州大陸の景色を見る余裕も出てきた。彼の小隊は、対空砲火でエンジンが1基停止したB-17を護衛した。編隊から落伍したそのB-17は、それ以上機体にトラブルが出ることはなく、ドイツ機の追撃も受けることなく西に飛び、イングランドの白い断崖を超えて基地に帰還した。

 小隊の4機は別れ際に列をなして翼を振り、自分たちの基地を目指した。B-17は片側の窓という窓に乗員がとりつき、感激をありありと浮かべた顔で手を振っていた。少尉は「ありがとう!」という彼らの声が、直接耳で聞こえたような気がした。


 3回目の出撃は、往路の護衛任務だった。

 ベルギーの上空でしばらく旋回していると英国を離陸したB-17の梯団が西の空に現れ、先に空中集合を済ませていた4個飛行隊のP-51と合流した。これを護衛してドイツに向かうのが任務だった。爆撃機は80機、戦闘機は60機ほどの規模だった。

 ホッパー少尉の飛行隊は別の基地のもう1個の飛行隊と、爆撃機の数km前方を飛び、迎撃に上がってきたドイツの戦闘機を追い払う役目を負っていた。

 こんどの任務はドイツ軍が待ち構える第三帝国に、爆弾を抱えた爆撃機とともに侵攻する。戦闘機と会敵する公算が高く、そうなれば自分も敵を撃墜するチャンスがあるかもしれない。そんな淡い期待を彼は抱いていた。もちろん、過去2回の実戦で得た、「リーダー機から離れてはいけない」という教訓の重要性も、彼は十分理解しているつもりでいた。

 敵と戦闘にならない場合は、爆撃機の往路を援護したP-51は自由に飛んで基地に戻ればよいとされた。「自由に」とは、敵地の目標を好きなように攻撃してよいという意味だ。基地の軍用機、軍事物資を運ぶ列車、軍用車両の車列、そういった目標を見つけ次第攻撃する。もちろん、戦闘機が迎撃してくれば交戦して撃墜する。

 いずれにしても、往路の護衛では敵と戦う機会が多いはずだ。20歳になったばかりの若き少尉は、胸弾む思いで操縦桿を握った。


 ホッパー少尉が4番機を務める飛行隊の第3番小隊、ホワイト、イエローに続くレッド小隊は、爆撃機より2,000mほど高い高度9,000mを東に進んだ。眼下には雲が広がり、地上は見えなかった。ふと、爆撃目標の上空の天候が気になった。今のところ、目標が見えないという情報は特にない。爆撃機隊より10分ほど先を飛ぶ気象観測隊の報告待ちだった。

 頭上には幾本もの飛行機雲が見えた。自分たちよりさらに1,000mほど上を行く他の小隊だった。

 ホッパー少尉も自分の小隊の後ろを確認した。4機が4本の飛行機雲を引いていた。

 彼はふと、右上の小隊が気になった。他の小隊と同じように、4本の飛行機雲を引いている。4機編隊はときにくさび形、ときにジグザグに、時々位置を変えて、周囲を警戒しているようだった。

 飛行機雲の先頭を行く4機の白い機影はまさに太陽の中に入ろうとしていた。彼は左手を右肩の上に掲げ、親指で太陽を隠した。太陽の方向から襲ってくる敵を見つけるにはこうするのだと先輩に教えられた。視界に入る陽光を遮ると、4機は先程と変わらず、自分たちと同様に、東への飛行を続けていた。

 それから、視線を前方や下方に移し、雲の隙間から、または上空を前方から、爆撃機を襲ってくる敵を警戒した。

 その後、再度太陽の方を見た。

 飛行機雲の航跡が途絶えていることに気づいた。

「太陽からドイツ機!」

 エレメントリーダーから同時に無線が入った。

 とっさに太陽から、自分が援護すべき、左前下方のリーダー機に目線を動かした。

 何かキラキラした光がリーダー機のそばに見えた。

 同時に、ガンガンと金属を叩く音が自機の右の翼から聞こえた。慌てて右方向を見ると、素速い光の筋が後方から斜め下へ流れていった。

「ホッパー、右ロール!」

 無線の指示通りに操縦桿を思いっきり右に倒した。数発さらにガンガンと被弾した後、彼の機は曳光弾の流れを横切り、射撃の脅威から抜けた。

「タンクを落とせ!」

 操縦桿を左に倒し、左のリーダー機を探そうと姿勢を戻したときにそう聞こえた。

 同時に、1機の黒い影が彼の左横をすり抜けて、雲に向け降下していった。

「小隊長のエレメントがやられた! 追うぞ!」

 エレメントリーダーは既に燃料タンクを投棄し、左に翼を振ると下方に逃げる敵に向け降下を始めた。

 ホッパー少尉は操縦桿のボタンを押して燃料タンクを投棄した。重荷を落とした翼は軽々と左に翻り、続いて機首を下に向けた。雲海が白い壁となって目の前に立ちはだかった。

 ふと上を見返すと、タンクを抱いたままあらぬ方向に降下していく機体と、白い煙を引くもう1機のP-51が見えた。

 小隊長がやられた! そのウイングマンも。

 自分の機が被弾した感覚もありありと覚えていた。

 ホッパー少尉は頭に血が昇り、怒りに燃えて、前方の敵を追った。

 しかし敵はもう見えなかった。

「今から雲に入る。俺が見えるか?」

「見えます!」

 右やや上に小さいP-51の後ろ姿を認めた彼はそう答えた。

「できるだけ近づけ、計器から目を離すなよ!」 

 その通信の後にエレメントリーダー機は雲に消え、直後にホッパー少尉も雲に突入した。


 雲の中では一瞬で視界が真っ白になった。そしてすぐ暗くなり、灰色の世界になった。

 敵の姿はもちろん、エレメントリーダーの機体も見えなくなった。

 ホッパー少尉は会敵に備えて照準器を点灯させ、操縦桿の機関銃発射トリガーに指を添えた。

 灰色の世界で彼はひたすら降下を続けた。機体は雲の中の乱気流で激しく揺すぶられた。気圧は徐々に高くなり、何度もつばを飲んで鼓膜の圧迫を解除した。

 速度は750km/hほどになっていた。敵も同様の速度に違いない。雲を出たらすぐ近くに敵がいるはずだ。もしかしたら、雲の中で敵に追いつくかもしれない。

 彼はそう考えつつ、雲の中で降下を続けた。


 雲を抜けるのに、意外に時間がかかることに彼は気づいた。もう何分も雲の中を降下している気がした。時刻が気になり、彼は腕時計をちらっと見た。そこで、秒針が意外なほどゆっくり動いていることに気がついた。しかし、雲に突入した時刻を確認していないため、どれだけ雲の中にいたのか、結局は分からなかった。

 もちろん、敵の姿は全く見えない。

 彼はリーダー機も探した。しかし、周囲はただ灰色一色であり、やはり自分の機体以外は何も見えなかった。

 そんな世界が急に明るさを増し、ほどなく彼の機体は雲を抜けた。

 しかし、それは不思議な体験だった。雲の中を降下したのに、雲の上に飛び出してしまったのだ。

 ねずみ色の平らな雲の上に飛び出した彼は、その頭の上に、秋の枯葉の色合いに染まった、森が広がる大地が覆いかぶさっていることを知った。

 雲の上に抜けたら、空の上に大地がある。なんという奇妙な光景だろう。雲を通って、別世界に来てしまったのか? 彼はきわめて強い違和感を覚えた。


 ホッパー少尉はほどなく、自分の感覚が間違っていることに気づいた。空の上に大地があるのではない。自分がいつの間にか背面となり、そして雲の下に飛び出したのだ。

 しかし、その状況を正しく知り、機体の姿勢を立て直すには、彼の機は速すぎた。

 背面飛行を改めようと操縦桿に力を込めたまさにその時、彼の機は「空の上の」大地に激突した。

 秋の色づいた森に衝撃が走り、やがて一筋の黒煙が昇った。

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