◇21.キミの顔がよぎる
仕事を終え特急列車に飛び乗り地元へ直帰した
三次会は開催されないとのことで、迎えを頼むべく実家に連絡をしようとしかけたところ、同級生の女子数人からクラブハウスに行こうと誘われた。オールナイトで遊ぶコースらしい。高校時代、そこまで仲がよかった子達ではなかったが、はしゃぎたい気分だったためその誘いを承諾した。
同級生達の高いテンションに合わせながらも、梨紗は小まめに背後を振り返った。
何となく、誰かにつけられているような感覚。
振り向いても振り向いても何もいないのに続いているこの嫌な感じ。
しかし目を凝らしても、人影もなければあの巨大蜘蛛の姿もない。
ここ最近、そんな感覚はずっとあった。
だが、今日の違和感は比べ物にならないくらいに強い。それなのに何度振り返っても、誰もいないし何もいない。何かあったらすぐに連絡してと
はしゃぎたい気分と言うのは立て前で、出来るだけひとりになりたくない、が本音だった。
クラブハウスに到着し扉を潜ると、空間がノリのよい爆音のトランスで満たされている。地元で一番人気のクラブハウスだけに、人がひしめきあっている。頭を振り回して激しく踊る輩や、しとやかに踊る者、わいわいと仲間同士で肩を組んで飛び跳ねている人々、様々だ。
同級生のひとりに引っ張られ、フロアの真ん中辺りで梨紗は踊り始めた。身体を揺らすと気分は解放的になり、不安も掻き消されたような気になれる。
踊り疲れると、梨紗は同級生とカウンターに座り酒を煽った。
二次会から始まり何杯飲んだか分からない。仕事の疲れもあり、酔いが激しく回り、笑いが止まらなくなってきた。何度か
これでいいのだ。自分がいていいのはこの世界なのだ。適当に酒を飲んで適当に近寄ってくる男を受け入れて考えたくないことは考えずに生きる。そうでないと自分を保てない。
隣に座っている男からもう一杯、酒をもらうと梨紗はグラスに口づけた。急に視界が霞む。酒に涙腺が刺激されるとはこのことか。今までどれほど飲もうが涙なんて浮かんだことはなかったのに、
トイレに駆け込もうと立ち上がった手は、隣に座っていた男に掴まれた。定番にチャラそうな風貌の若者だ。梨紗の目が潤んでいることに気がついたらしく、どうしたの、と顔を近づけてきた。咄嗟にキスされるのを拒んだ。どうしたのだと自分に問いたい。寂しさを紛らわせないと生きていられないくせに乱れた心に負かされている。
若者は梨紗が拒んだことで火がついたらしく無理矢理腕を強く掴んできた。このままではどこかへ連れていかれてしまう。しかし視界がぐにゃぐにゃに揺れ、身体が言うことを聞かない。
「離せっ……」
拒絶の言葉が喉を通って飛び出たことに一番驚いたのは梨紗自身だった。普段なら何の抵抗もせず、むしろ自ら抱かれにいくのに。なのにどうしても気持ちが向かない。航の顔が浮かんで止まない。助けて、そう思った刹那、若者の肩を掴んだのはひとりの男だった。高身長にスーツにサングラスと言う見てくれに、梨紗同様、クラブに雇われている警備員だと若者も思ったようだ。舌打ちをし男の手を払うと、若者はその場から立ち去っていった。
男は口を閉じたまま梨紗を座るよう促すと、自らもその隣に座り、心配そうに梨紗の腕を見つめてきた。暗がりとネオンのせいで正確な判断は出来ないが、もしかしたら少し痕がついているかもしれない。男が梨紗の腕にそっと手を触れてきた途端、ドクンッと心音は上がった。
これは、何だ。
触れられた部分から皮膚を破って体内に何かが侵入してきたような、気持ちの悪い感覚。
普通じゃない。
この男はクラブの警備員なんかじゃない。
男は口元を怪しく歪めて、サングラスをわざと少しずらした。
梨紗の脳内で弾けるような音が鳴った。分かった。男の手先を通じて侵入してきたのはあの黒い蜘蛛だ。八本の足で、皮膚の下で、舐めるように這い回っている。
テーブルで跳ね上がったグラスは地に落ちた。パリーンと割れる音に、梨紗の奇声は重なっていた。
◆◆◆
今日梨紗が出席している高校の時の友人の結婚式の二次会に、実は杏鈴も誘われていたのだと言う。二次会のあと、地元で一番大きいクラブに流れる可能性があると聞き、そう言ったお祭りごとが得意でない杏鈴は、悩んだ末やはり気乗りせず後日断りの連絡を入れたそうだ。梨紗が出席すると言うことはその際に友人づてに聞いたらしい。ふたりはあくまでも同士だが共通の友人はいたと言うことなのか――そこについて詰めようとした航だったが、その開催地が地元であると語られ、
航は梨紗にCを飛ばし続けたが、ハスキーボイスが響いてくることはなかった。走行し始めてから約一時間半、航が高速道路を北上する前に、一旦車を停止させたのは、都内のお洒落タウンの一角だった。
航はアポなしに
「……本当に、ありがとうね、
長らくの沈黙を航は破った。助手席に座っている仕事の制服を着たままの真也の背中からは不機嫌が漂っており、航のほうは見向いてこず、窓の外を並んで走る車両を眺めている。
「お礼を言うなら俺にじゃなくてマスターにでしょ。いくら土曜って言ってもお客さんいるし。普通にありえないし」
「そ、そうだね。その通りだよね。ごめん。お礼とお詫び、絶対いくから」
ウインカーを上げ高速道路へ続く道に下りる。
「……この前は、ごめんね。感情的になっちゃって」
真也の肩がぴく、と反応した。しかし、返答はない。
「真さんの言う通りだよ。ビビリで臆病で、情けないよね俺」
「……童貞が抜けてる」
「ごめん、一番重要なやつだねそれ」
カーナビを確認する。着実に目的地へと近づいている。ちらりと真也を窺うと、背中を向けているままだ。航はハンドルを握る手にさらにギュッと力を入れた。
「俺ね、好きになりたくても好きになれないんだ。梨紗ちゃんのこと」
「……え」
「俺にはね、ないんだ。好きになる資格が」
ようやく真也はこっちを見てくれた。自己開示は怖い。腕が、足が、小刻みに震える。
真也はどうしてとは問うてこなかった。代わりに聞こえたのは深い溜息。
「もう分かったよ。そんなの別にいいし。そんなのじゃなくて……こみやんって何でそんなお人よしなわけ?」
「今の何がお人よし?」
「言いたくないことまで晒そうとして。この前なんて俺が一方的に怒ったようなもんじゃん。何でこっちを責めないわけ。おせっかいしてきてうざいくらい言えばいいじゃん」
「そんなこと思ってないよ。あの時は、自分の不甲斐なさにむしゃくしゃして。少なからず真さんに八当たりした。だから、ちゃんと謝る必要がある。本当にごめん」
真也は航から視線を逸らすとACに触れた。
出発してきてからもうすぐ二時間半が経とうとしている。これだけ繋がらなければ祈るしかない。はしゃいでクラブで泥酔でもしている。ただそれだけであれと。
「俺のほうだよ。八当たったのは」
謝罪を特定する言葉はないが、真也の声にはその色が含まれていた。
「第三の物語に入って、こみやんと梨紗ちゃんの状況があからさまにきつくなってるのを見てて、何か手助けしたいって思った。同じチームの一員として力になりたいって。けど上手くいかなくて、勝手に自分は蚊帳の外だって拗ねてた。元々は
真也はようやく吊り上がっていた目尻を下げて笑んだ。
「こみやんに言えたもんじゃない。分かってるよ。甘ったれで何にも出来ない役立たず。もう変にでしゃばったりしないから、許して」
「俺は」
両手を合わせて悪ガキっぽく歯を見せてきた真也が言い終わらぬうちに、航は声を重ねた。
「甘ったれな真さんがいいし、変にでしゃばりな真さんがいい。そうじゃなきゃ真さんじゃない。俺は仮に今、優くんが一緒についてきてくれてたとしても真さんを呼んだ。真さんに一緒にきてほしい、一緒に梨紗ちゃんを助けてほしいって絶対に頼んだよ」
その理由は簡単だ。大事な
ドォンッ!
後背で、それも限りなく近い場所から爆発音がした。咄嗟に航はブレーキを踏む。キキッとタイヤがアスファルトに擦れ、車体は道路の端に寄るかたちで急停止した。
「真さんごめん! ケガない!?」
「う、うん、大丈夫。けど、今のな……」
首を後ろに捻った真也が目を丸くして息を強く呑んだ。振り向くよりも右目が捉えたサイドミラーのほうが早かった。
蠢く黒色の大群がより際立っておぞましく見えるのは手の数のせいだ。一体につき八本生えているそれはあの蜘蛛を彷彿させる。その全ての手に握られている黒色の槍を見て航は本能的に危機を察知し、アクセルを思い切り踏みハンドルを切った。
横断歩道を渡りかけたままの人、道にそのままの車、石化している以上、いく手を開けてくれることはない。障害を避けるには、スピードを落とさざるを得ない。思うように逃げられない。かと言って、焦って闇雲になってしまったら目的地からも遠ざかってしまいそうだ。
「こみやんやばい!」
ブレーキを踏む前に車体は止まった。ボディの両サイドが黒い兵の手によりへこんでいく激しい音がする。
「外に出よう!」
「だめ! 開かない!」
真也の言う通り、変形したドアはびくともしない。
「いった!」
真也が左腕を抑えた。思い切りへこんできた車体に攻撃されてしまったようだ。どうにかせねばとACのメニューを立ち上げスライドさせて息まで震えた。
遂に車体の上部もへこみ始めた。航と真也は後部座席に移動し身体を限りなく小さく丸めたが、ただの悪足掻きだ。梨紗の顔が過る。くしゃっとしたあの笑顔が。
こんなところで終わるしかないのか。
こんな末路を辿るしかないのか。
「……嫌だ」
自分はどうしたかったんだ。どうなりたかったんだ。臆病で弱虫でそれを変えたかったんじゃないのか。変わりたかったんじゃないのか。過去から抜け出したかったんじゃないのか。
「終わってっ……」
たまるか――航が叫んだ声は先程の爆音にも勝る音に掻き消された。へこんで出来た車体の隙間から嫌な臭いが漂う。血生臭さに鼻の奥が傷めつけられる。
臭いに気を取られていると、頭上すれすれを何かが通過していった。間もなく両目を上向けると、見慣れた緩い笑顔が映った。
「ハーロウ~ッ。無事脱出♪ ってところですかね~」
「
真也の表情が明るくなった。運転席に着地したさすらいの旅人の右手と左手には、三本ずつ黒い槍が握られている。残った二本を手にしたままでいるフォロワーが、ヒューヒューと息を漏らして賢成を狙っている。
賢成はその場からほとんど動かずに飛びかかってくるフォロワーを漏れなく返り討っていく。フォロワーの体内から噴水のように溢れ上がった黒い血液は、この独断場を演出しているかのようだ。
そもそもどうしてここに、と賢成に問いかける余裕は航に残っていなかった。賢成が今現れてくれなかったら確実に殺られていた。今は賢成が本当は何者であろうとどうだっていい。今の賢成は間違いなく助けにきてくれた仲間だ。
「真もこみやんもボーッとしてないで、早くいきな」
少し鋭くなった賢成の声に背筋は伸びた。
「いきなって、そしたら成くんひとりになっちゃうじゃん!」
「俺はこれさえあれば平気~。空間がグレーになっていない今ならまだここから脱出出来る」
食ってかかった真也にでなく、賢成は航の目を見てそう諭した。甘えるわけじゃない。変わるためにここから逃げる。
「真さん、一緒にいこう!」
「わっ、ちょ、こみやん!」
航は真也の腕を強く引き車の中から飛び出した。
「賢成くん、ありがとう!」
「任せなさい~」
賢成を気にし、後ろをちらちらと振り返る真也の手を引いたまま航は走った。大通りに出ると、奇跡的に空車の黄色のタクシーに巡り会えた。スマートフォンの地図アプリでクラブハウスの名前を検索し、早口で噛み噛みになりながら住所を伝える。こちらの事情なんて知るはずもない運転手は、至って安全運転だ。
真也が窓の外を気にしている。航も真也と反対の窓から目を凝らし、梨紗の姿を探す。
もしかしたらクラブハウスを出てその辺を歩いているかもしれない。そうならば絶対に見逃すわけにはいかない。もう少しだ。
航は膝の上で両手を組み、ぐっと握りしめた。
〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜
◇Link◇
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881417051
・EP1:七章全体
・EP1:◇29
・EP1:◇30
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