◇22.Help me ! & Want to help you.
◆◆◆
クラブハウスはどよめいた。脇目も振らず人と言う人を押しのけ突っ走る
出入口の扉を殴り開き、振り返らず、梨紗は走り続ける。運動は苦手なほうではないが、今日に限ってヒールだ。たった五センチでも、スニーカーに比べれば発揮出来る力は本来の半分にも満たなくなる。
ついてくる足音は、遠ざかるどころか、どんどん近づいてくる。
「くんな!」
覚悟を決め梨紗は後ろを振り向くと、飲食店の前に置いてあったゴミ箱を男に投げつけた。その中から飛び出した生ゴミが男の顔に纏わりつく。男が顔を拭っている間に、梨紗は細い路地に駆けこんだ。
巻きたい、ただその思いでいくつも角を曲がった。いき止まりを示しているフェンスさえも関係なくよじ登った。建物と建物の間に身を隠す。横腹を抑えて蹲った。痛みが吐き気を呼び起こす。
サングラスから覗いた男の目。見間違いでなければあれは――だけど、どうして。
考えても無駄だと首を横に振った。見間違いであったかもしれない。むしろ見間違いでなければ、単純にわけが分からなくなりすぎてしまう。
ずっとここにいるのは危険だ。周囲を警戒しながら梨紗は再び動き始めた。そろそろと足を進める。何も悪いことなんてしてないのにまるでコソ泥のようだ。
ふと、立ち止った。左腕の
ガサッと嫌な音、はっと呼気が上がる。蜘蛛はどこにでも現れる。暗闇の中に、にやりとほくそ笑んでいる男の口元が浮かんだ。
「ぎゃあ!」
手を伸ばしてきた男を、梨紗は反射的に蹴り飛ばした。どうして街の色は日常のままなんだ。フォロワー達が出現してくれたほうが遥かにましだ。そうすれば
走りながら背後を見て悲鳴を上げた。男の動きは速い。体力的に、もう梨紗が限界だった。
何に助けを求めているんだ――眼前に見えた大通りに向け、手を伸ばした梨紗の身体は宙に浮いた。残っている力の全てで抵抗する。しかし、口元にあてがわれた男の手でもよおした。生ゴミの臭いに混じった自分の吐瀉物の臭いを嗅いだ。冷静さを失うと本当にひとつもいいことは起こらない。全身から力は抜け落ちた。
男の口元が左耳に近づいてきた。しかし、男は変わらず声を発しない。ほんのわずかでも気を抜いたことを後悔した。次の瞬間、男の舌が耳穴にねじ込まれた。もう自分でも悲鳴を上げているのか上げていないのか分からなかった。男の生温かい息が吹きかけられ続ける。喉を通って込み上げてくるものは止めたくても止められない。身体を性欲処理のためだけに乱雑に扱われるのにはもう十分慣れたはずだったし、自らもそうされることを臨んでいた。けどこの男だけは無理だ。無声の恐怖に梨紗の心はえぐられた。
朦朧とする視界の中で、ひとつの車が目に留まった。黄色の車体だった。同じチームの二人を思い梨紗の意識はそこで途絶えた。
◆◆◆
「ここで止めてください!」
遂に黄色のタクシーは目的地に到着した。電子マネーで運賃を支払い、
梨紗と
「うわー人凄いんだけど。これいるかなー梨紗ちゃん」
「俺こっち探す!
「了解!」
戸惑っている時間はない。二手に分かれ梨紗の姿を探す。視線を転がしながら密集している人と人との間を掻き分ける。ぶつかる度に謝罪するが、誰も梨紗ではない。焦りは膨れる。
ふと、航は店内の奥まったところに位置しているバーカウンターを見つけた。慌てて近づき作業をしているスタッフに声をかけた。
「あの! すみません!」
悪い空気を吸い込みすぎたせいで、声が掠れている。スタッフはそんな航を悟ったのか、親切に顔をこちらに寄せ耳を傾けてくれた。
「ああ、その子」
航が伝えた梨紗の特徴に、スタッフはピンとくるものがあったようだ。
「見かけましたか!?」
「さっきまでここで飲んでた気がするけど」
「本当ですか!」
「うん。けど、急に血相変えてさ。男にナンパされてたっぽいから、それが嫌だったのかな」
一瞬、周囲の音は、航の中だけで消えた。
男、ナンパ、嫌がる、血相を変える、ポジティブなワードがひとつも見当たらない。
「それでその子は!?」
「走っていったから、もういないんじゃないかなこん中には」
「その男は!?」
「その子とほぼ同時に席から立ったけど」
頭を下げ、大声でスタッフに礼を言うと、航は出入口に引き返し始めた。人に揉みくちゃにされながらも、真也にCを飛ばす。クラブハウスから出たところで再び合流すると、航は即座に梨紗へCを飛ばした。繋がらない。ハスキーボイスは返ってこない。もうさっきからずっと返ってこない。
「どうするこみやん」
通信をキャンセルし、航は両手に拳を握った。ここから梨紗は逃げだした。しかし、その行方は分からない。胸に手をあてショートしそうな思考を突き動かす。
梨紗が参加していたのは結婚式の二次会だ。ある程度TPOを守った格好をしていたと考えられる。全身のスタイルまでは分からないが、多少ヒールのある靴を履いているのではないか。スタッフはついさっきまでここで飲んでいたと言っていた。想定した条件を足すと、走って逃げられる距離には限界があるだろう。
「まだ近くにいるかも。男に追われてるんだったら、振り切るためにどこかに身を隠してるかもしれない」
「そっか! じゃあ、また二手に分かれる?」
「そうしよう!」
別々の方角を向いた瞬間、航の左腕から上がった電子音。立ち上がったスクリーンに目を寄せる。映っているのは間違いなく“
「こみやん!」
航はスクリーンをタッチした。心配しすぎた感情から怒鳴りそうになるのを堪える。
「もしもし梨紗ちゃん」
しんと場が静まりかえる。真也の顔から折角浮かんだ笑顔は消失した。
「……梨紗ちゃん? もしもし?」
もう一度、航は声を吹き込む。おかしい。間違いなくスクリーンに触れたはずだ。けれど、聞こえてくるのは求めていた声ではなく雑音ばかり。
「もしも」
三度目の正直、航が梨紗の名を呼ぼうとした刹那。
「(ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああはははははははは)」
溢れ出した奇声に心臓は鷲掴みにされた。真也が瞳孔を開き、両手で口を抑える。奇声は止まらない。狂ったレコードのように高らかに笑い続ける。第二の物語での
「……っ、誰なの!?」
Cは確実に梨紗からきた。梨紗はきっと、この向こうにいる。
「梨紗ちゃん! そこにいるの!? 答えて! お願い!」
何度もそう繰り返し呼んだが、返ってくるのは奇声だけ。弱者の声を呑み込み続け、奇声の腹は満足に膨らんだようだ。遂に狂った声は止まった。
「こみやん!」
静かな深夜の街には戻らなかった。足元で聞き慣れた音がする。パリ、パリ。灰色は広がり、周囲の全てを染め上げた。念願叶ってBを纏い槍を手に構えたが、すぐに首を傾げた。
「何か、変じゃない?」
真也と全く同感だった。広がったのはただのフィールド。どこを見向いても黒色の兵は見当たらない。何もない無の空間。額から冷や汗を垂れ流したまま、航はACのメニューを確認した。Sがある。これで何もないわけがない。航は“
「ワタル!」
一番に応答してくれたのは
「一体、何があったの」
そう聞いてきた仁子の血相から、どれだけ今自分がひどい顔をしているのか想像がついた。さすがの真也も上手く言葉を紡げない様子だ。
「……多分、やられた。間に合わなかった。リーを……」
助けられなかった、と続けられなかった。心で渦巻くこの感情が何であるのかは、自分が一番、よく分かっている。
「役立たずで、弱くて、本当にごめん」
俯くと両肩がずしっと重たくなった。顔を上げると映ったのは優の顔。泣きそうになるのを我慢する。この熱い眼差しは、今までに何度も見てきた。
「バカ何謝ってんだ! ワタルは弱くなんかねぇだろ! 何でもっと自信もたねぇんだよ! 俺は何があっても航を信じる。それは今に始まったことじゃねぇ、昔っからずっとだ!」
その通りだ。変われる自信がずっとなかったから、弱いと発言して自分を守る癖がついた。そんな自分なのに、こうやって、ずっと信じてくれる人がいる。
航は優の目を見返した。少し視界が霞んでいる。目も充血しているかもしれない。それでも構うものか。仁子、誠也、そして真也が見守る中で、航は優の手を、両肩からゆっくり剥がした。
「ユウ、俺、さっき言いそびれたことがあるんだ」
「ああ。俺も、ちゃんと聞けなくて悪い」
「俺ね、きっともう分かってるんだ。リーの秘密」
ざわっと波打った空気の中、優だけは頷いてくれた。
「そうだろうと思った」
「もし俺が、分かったって思っているこの秘密が正解なんだとしたら……怖いよ。凄く怖い。けど、その正解を、俺は手に入れにいかなくちゃいけないんだ」
カッと一筋の光が空に向かった。発生源は誠也のAC。飛び出してきたブックは空中で開き、誠也の手に収まった。ページの上で立ち上がったフォールンの両方の赤い瞳が揺らめいた途端。
「あぶねっ!」
「きゃあ!」
灰色で塗り固められたアスファルトが地割れした。そのまま続く揺れに耐えれず、
「な、に……?」
上ずった航の声は、地を破って現れたものを差した。深く暗い闇色をした鏡。全長は軽く二メートルは超えていそうだ。黒で染め上げられているのは縁飾りだけではない。ミラーそのものまでもが黒に染まり、その中心では蜘蛛の足を生やしたような、いびつなかたちの黒色の渦がぐるぐると回っている。
『とうとうやって参りましたね。第三の物語のボス戦が……』
フォールンをよく見ると、コンディションがあまりよくなさそうだ。顔の青白さが際立っている。
「天使、お前大丈夫なのかよ。第二の物語んとき、尋常じゃねぇくらい震えてただろ」
『まだ何とか。
「アホか。心配なんてしてねぇし。社交辞令ってやつだよ。だからぜってぇよくないことなんてこれ以上起こらねぇし、起こさせねぇ」
『よい意気です。その通り、邪気が低い、すなわち、リー様はまだ、完全に
目の前にはだかる鏡の重苦しさに反し、場の空気は軽さを持つ。
「今ならまだKになるのを食い止められるかもしれないのね!?」
立ち上がるなり身を乗り出した仁子に、フォールンは口角を上げて頷いた。
『リー様をかけた戦いのステージは、この鏡の向こうです』
第一の物語も、第二の物語も、デッドのイタズラに翻弄され苦しんできた。第三の物語も同じように苦しんでいる。色濃い因果を絶ち切ることは到底できぬこと。だが、抗うことは出来る。足掻くことは出来る。逆らうことは出来る。諦めないことは出来る。
優が一歩を踏み出すより航のほうが早かった。誠也と仁子が顔を見合わせ微笑み頷く。真也が無言のまま優しい顔をして、ポンッと応援するように、航の背中に手を添えた。
黄色の槍を取り出し、航は右手でその柄を握った。鏡を睨んでから航が決意したように伸ばした左手は、その真ん中へ吸い寄せられているかのように近づいていった。
◇Next Start◇七章:秘密ト罠ト翻弄ト
〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜
◇Link◇
https://kakuyomu.jp/works/1177354054882320715
・EP2:◇30
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