◇13.倒れたバケツ
今宵の月には怪しい黒い雲がかかっている。折角の満月なのに残念だ、と
あのデートの日以来、
今日はカクテルを頼んでみようか、と思いながら店の扉を潜った航に開口一番飛んできたのは、真也の迎える気持ちのない視線だった。機嫌が悪いのかと、しばし観察していたが、他の客にはいつもの営業スマイルを見せている。
カウンターに近寄り真也に声をかけようとしたその時、マスターに今いるこの場所で待つよう誘導された。Barの入っているビルの薄暗い三階の踊り場には、水の入ったバケツがひとつ。マスターと真也が休憩中に使うミニ喫煙所らしい。
退屈に月を見上げ続ける。確かに店内は普段より混み合っていると思った。だからと言って席はまだ空いていたし、どうしてここに通されたのかが分からない。心当たるとするなら以前トイレでもどしてしまったことだが、床に飛び散らかしたわけでもないし、入店禁止にされるほどの行為であったとは捉えにくい。逆に特別な客だと優遇されたのだろうか。「今日は混雑しているので特別です。ゆったりタバコを吸うならこちらでどうぞ」、天然風なあのマスターならありえる。それなら寒いし室内で吸わせてほしい。そもそもタバコは吸わないが。
左腕から上がった音に驚いた。立ち上がっているスクリーンを見てさらに驚いた。珍しい、
「はあい。もしもし」
「(もしもし、突然ごめんなさい)」
「ううん。平気。どうしたの?」
「(
「夜? なくはないけど、今、手帳が手元になくてぇ」」
「(そう。じゃあ改めて連絡もらってもいいかしら)」
「う、うん。分かった。今日はもう時間も遅いし、明日連絡するね」
仁子との通信を切ると同時、階段を上がってくる足音に気がついた。遠かったその音は、どんどん大きくなる。
「お待たせこみやんー」
現れた真也の態度は限りなく普通に近づいているが、機嫌の悪さは隠し切れていない。真也は階段に座るやいなや、ポケットからライターとタバコを取り出し、一本吹かし始めた。
「ごめんね、今日、忙しかったんだね」
「うん。珍しく混み混みでさー」
「言ってくれたら日を改めたのに」
「ううん、別にいーよ。店内だと話せないと思ったから、マスターに頼んでここにいてもらっちゃったけど」
「ってか、
航はダウンジャケットを脱いで渡そうとしたが、真也は首を横に振った。話を聞けば、タバコを吸うためだけの五分休憩が二回設けられているだけで、休憩らしい休憩と言うものは存在していないらしく、防寒せずにここでタバコを嗜むことには慣れっ子らしい。飲食店のブラック加減をさり気なく叩きつけられた気がしたが、航は静かにダウンジャケットを着直すと、真也の斜め上に腰を下ろした。
「で、話しって何?」
風に乗って流れてくるのは責めるような苦い煙。真也の座った視線を見ることが出来ない。
「って、言っても、
「えっ!」
「健全デート、失敗したんでしょ」
うんともすんとも返せないのはどうしてだろう。この期に及んで失敗を認めることを脳が嫌がっているのだろうか。愚かだ。
「俺が知ってるのは、
首を横に振ることが出来、航の口元は緩んだ。そこから真也に、蜘蛛に遭遇するまでのことを話した。待ち合わせのこと、ショッピングタウンを回ったこと、水族館に入ったこと、電波塔の上から景色をみたこと、手を繋いでいたこと。他人に話して気がつけることがある。どれもこれも楽しかったのだ、言い合いになってしまうそれまでは。自分が勝手にいじけて梨紗の感情を嘘だと指摘するまでは。
「自分が、悪かった」
こんな暗がりにも関わらず、真也の眉間に皺が寄ったと分かった。
「こみやんさ、結局梨紗ちゃんと、どうなりたいわけ」
以前公園で
「……それが、分かんなくて。分かんなく、なっちゃって」
「じゃあ初めはどうなりたかったの?」
答えが出ない。梨紗と出会って、因果の
「初めから、どうなりたいってわけじゃなかった、かも……」
真也が吸い殻をバケツに捨てた。すぐに二本目に火を点ける様子に苛立ちが滲んでいる。
「ただ男遊びは辞めさせたくて」
「それって好きだからでしょ」
「好きじゃない」
「え? じゃあ何で辞めさせたいの? それだったら梨紗ちゃん迷惑じゃない? あの子は好きで男と寝てて、それが生きがいなんだからさ。好きでもなんでもないのに梨紗ちゃんからこみやんがそれを奪う権利ないよ」
「そうなんだけど、因果上、気になってしまうのかなって言うか」
「ふーん。そうやって、上手くいかないからって
「逃げてるつもりなんか」
「逃げてるよ」
幼い頃から航は気の強いタイプではなかった。いじめられたことはなかったけれど、からかわれたり、いじられらやすい体質は今でも変わっていない。そんな自分の前にいつも立ってくれていたのは優だった。彼もまた、熱くて仲間思いな性格は昔から変わらない。そんな優を、ずっと尊敬してきた。人を庇える強さを手に入れたいと思ってきた。しかし現実は厳しい。変わりたいと思っても、変わろうと一歩を踏み出しても、簡単には変われない。だが水晶の因果は色濃い、それは事実だ。逃れたくても逃れられないこともある。逃げたくなくても、従うしかないことだってある。真也だって身をもってそれを知っているはずだ。ここまであからさまに不快感を示されるのは、腑に落ちない。
「何なの真さん今日。確かにデートは上手く終えれなかったし、折角アドバイスくれてる真さんには申しわけないと思ってるよ! けど、こんな風に咎められるのは納得いかない!」
「そんなことで俺がイライラしてると思ってんの!? こみやんほんっとバカ! 鈍感! そんなんだから梨紗ちゃんとすれ違ってばっかになるんじゃない!」
感情的になってはいけない、それでこの前も真也と少し口論になったし、梨紗ともなった。変われない、本当に変われない。自分は自分に甘い。糸も簡単に同じ過ちを繰り返して、ずっとずっと抜け出せない。胸につかえる憎悪を帯びた熱の塊に航の口元は震える。出るな、出るな、と心の中で唱えたが、祈りは届かず、その塊は喉の奥から飛び出した。
「あーもう無理だよ! 梨紗ちゃんを普通に導くなんて! 俺には不可能だよ! そんなに言うなら真さんが梨紗ちゃんどうにかしたらいいじゃん! 俺に行動させてイライラするよりBarで何人ものお客さんの話し聞いてる真さんのほうが、梨紗ちゃんもちゃんと話し聞くんじゃない!?」
ガン! バシャッ!
ひくっと航の喉は鳴った。倒れたバケツ。踊り場に零れた水といくつもの吸い殻からヤニ臭さが漂ってくる。真也の手にもう二本目は握られていなかった。
航を見上げてくる真也の目の色は、航に対する憐れみと、悲しみと、虚しさが入り混じってぼんやりとくすんでいる。
「俺に……出来るわけないじゃん」
絞りだされた真也の声は、恐ろしいほどに冷静だった。
「梨紗ちゃんを助けられるのはこみやんしかいないじゃん。どうしてそれが分からないの」
「一体何が言いたいの?」
「助けてって」
「え?」
「第二の物語のボスステージで、梨紗ちゃんがそう言った。意識なんてないくせに、苦しそうな顔してそう言ったんだよ。“ワタル、助けて、もう”……」
――“殺して”って。
目の前が、闇に呑み込まれた気がした。見えているはずなのに、真也の顔が黒色に塗りつぶされている。
「それでなくても、航、航って、あんなに彼女なりのSOS出してるじゃない! デートの誘いに乗るのだって、こみやんに助けてほしい思いがあるからそれ以外にないじゃん! 俺のことはみんなが救ってくれた。けど、梨紗ちゃんを果てしない闇の中から救ってあげられるのは、こみやんしかいないんだよ!」
真也は短く音を立てて空気を吸うと、やり切れなくなったのか立ち上がった。
「こみやんのバーカッ! うじうじふにふに虫! そんなんだから童貞なんだよ! こみやんなんか妖精になってフォロワーに槍で刺されちゃえ!」
ガキんちょのようにベッと舌を出し、真也は階段を駆け下りていってしまった。暴言も甚だしかったが、それが暴言であると感じられないほどに、航は頭を膝に沈めて込み上げてくる胃液と因果の恐怖と戦っていた。
頭の中では、梨紗が口にした死を願う言葉が、無限にループし続けていた。
〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜
◇Link◇
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881417051
・EP1:◇29
・EP1:◇30
https://kakuyomu.jp/works/1177354054882320715
・EP2:※◇6
・EP2:※◇31
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