四章:分カリ合イタイ、分カリ合エナイ

◇12.好きと嫌いの真ん中


「結婚式?」

「そうそう、地元の。ま、人数の埋め合わせで、二次会に急に呼ばれちゃっただけなんだけどね」


 あれから数日後、仁子ひとこ梨紗りさの勤めるネイルサロンを訪れた。本日のお客様は仁子ただひとり。定休日である月曜日にサロンを借りて練習をするのは珍しいことではないのだと、梨紗から聞かされた。


 横長のテーブルを挟んだ正面で仁子の両手の爪を磨き上げ、甘皮処理まで完璧に済ませた梨紗は席を立った。口笛を吹きながら、仁子の爪を彩るためのカラーを選んでいる。


「呼ばれちゃったって、そんなに仲いい友達じゃないの?」

「いーや、高校の時つるんでた子だけど出来ちゃった婚でさ。相手の男ギャンブル癖ひどくて別れようと思ってたのに、妊娠が発覚したから成り行きで籍入れるしかなくなったみたいで。しかも親の金であげる式らしくてさ。それで元々呼んでた友達何人かから愛想尽かれたって。で、都会に出てるあたしにまで泣きすがってきたってわけ。急だしあたしも普通に仕事だから一回は断ったんだけど、二次会だけでもいいからお願いってさ」


 殺伐とした何とも言い難い話しをする傍ら、幸せを象徴するようなパステルカラーのジェルをいくつも持ってきた梨紗に対して、仁子は黙ってはいられなかった。


「それってどうなの。私だったら絶対籍なんて入れないわ。ひとりで育てる」

「それだよ。それってどうなの、って仁子みたいに思ったやつが何人もいたから、あたしは呼ばれることになったわけ」

如月きさらぎさんは思わないの?」

「思わなくはないけど、まあ、本人が決めたことだし。祝いごとは祝いごとだし」

「それって世間的な話でしょう。如月さんは心の底からその子のこと、祝えるの?」

「うーん、何とも言えないね」

「そうでしょう。簡単に否定しちゃいけないのは分かるけど、何かが違うわ、その結婚」


 梨紗は透明ジェルをブラシの先に絡めると、仁子の右手の爪に塗布し始めた。


「私は、絶対に好きな人と結婚したいわ」

「おーお、さすが仁子って感じの考え」

「ちょっと待って、まさか結婚相手まで誰でもいいって思ってるの?」

「そうじゃねーけど。つか、一応顔だけは選んでんだぜ? なんつーか、そもそもあんま結婚に興味がないんだよなー。でも、世の中はうるさいよな。未婚率が上がってるだの、少子化が止まらないだのさ。産め産めって言うわりに、保育園も保育士も足りてないから預けられないのに。共働き出来ないと生活が苦しくて仕方なくなるだけじゃん、特に都会は。お、そう思うと、その子のこと祝える気がしてきたな。日本社会に貢献してる、すげえすげえ」

「如月さん、まともなのか、そうじゃないのか、どっちかにキャラ統一したら?」

「何それ。あたし、まともじゃないでブレたことないけど」

「そう、でした……」


 促されるまま仁子が右手を紫外線ライトの中に入れると、梨紗は左手の爪にも処理を施していく。


「そーんな、まとも、いや、真面目な仁子さんが、ねえ?」


 ふいを突かれ、左手を動かしてしまった仁子には、梨紗からの叱責が飛んできた。梨紗の含みが何であるかはお察しだ。


 あの日の夜の出来事を胸に留めておけなかった仁子は、その翌日、自宅に着くなり梨紗にCコールを飛ばしたのだ。ちょうどその時、梨紗は出勤する直前で、十分に話すことが出来なかった。


 ネイルモデルと言うのは建前で、仁子の話しを聞くために、今日梨紗がこの場に招待してくれたと言っても過言ではない。本当はもっと早くにこの話題を切り出したかったのだが、羞恥が込み上げなかなか口にすることが出来なかった。


「結論さ、何? 大人の階段登っちゃった?」

「の、登ってないわよ!」

「あ、逆? 五十嵐いがらしに登らされたか」

「それも違う!」

「あん時仁子めっちゃテンパってたから聞き取れなくてさ、五十嵐に抱きついてそれで?」

「それ、だけ、です……」


 梨紗のブラシを動かす手が一瞬止まった。向けられた眼差しは恐ろしいほどヤンキー化していて仁子は深く俯いてしまった。追って聞こえてきたのはわざとらしい梨紗の溜息。


「まじで、そんだけであんなおかしいテンションになってたのかよ。初すぎてこっちが恥ずかしくなってくんだけど。いい加減にしてもらえるお嬢さん」

「ご、ごめんなさい。だって」

「五十嵐が可哀想だわ」

「な、何よそれっ。私じゃなくて?」

「何でその状況で仁子が可哀想になるんだよ。ありきたりな表現だけど、蛇の生殺しじゃん五十嵐。経験者なんだから」

「そっ、そうなの!?」

「多分。この前航がやつの元カノは普通の子って言ってたから。未経験ではないんじゃね? それにあの感じなら、航と違ってモテてた類だろうしな」


 梨紗の指示通り、仁子は紫外線ライトの中に入れる手を入れ替えた。


「け、けど、五十嵐くんは、そんな変なこと考えてないわよ」

「Why? 何故そう思う?」

「手、出さないから、入れって」

「仁子バカになったの? 手出すから入りなさいなんて言うやついるわけねぇだろ。あたしのセフレでさえそんなアホみたいな誘いかたしてくるやついねーよ」

「じゃあ、本当は、手を出したかったってことなの?」

「そう聞いてみたらどうでしょうかね、五十嵐に直接」


 茹でダコみたい、そうさらりと梨紗から指摘され、仁子は両目を瞑ってしまった。あの日の優の背中、声のトーン、思い出すだけで身体の内側が熱くなって、痒くなる。


「冷静にさ、手、出した側だからな仁子」

「わ、分かってるわよ! でも」


 顔は下のほうに向けたまま、仁子は両目を開けた。爪先に視線を寄せると、梨紗がパステルピンクの色味をのせ始めている。二度ほど深呼吸をしてから、仁子は背筋を伸ばした。


「あの日は、五十嵐くんに触れたくて、どうしようもなくなっちゃったのよ……」


 ゆうに触れたその先にあったのは、戸惑いや違和感などではなかった。温かくて、ドキドキして、幸せだとさえ思った。付き合っていない男と触れ合うことの意味なんて永遠に理解することはないと思っていたのに、あの途轍もない心地よさを手放すことは難しかった。


「本当に好きなんだな、五十嵐のこと」


 仁子は頷き返さなかったが、梨紗は全て悟ったような顔をしている。


「でもそれさ、五十嵐が堅くなかったら、あやうく仁子、こっち側に落ちちゃうところだったよ。次からは我慢しな。身体から入っちゃったらそこから恋人に上がれることはないって思っておいたほうがいい。仁子の五十嵐に抱いている気持ちが本当に純粋だからこその忠告ね」


 パステルイエロー・オレンジ、仁子の爪の上で色はぼかすように混ぜられていく。筆先の動きを見つめたまま、梨紗の言葉を思う。自身が心地よいと感じたのは、あくまでも優へ気持ちがあるからだと遠回しに言いたかったのだろう。そうすると、梨紗は何のために男を求めて夜を彷徨っているのだろうか。好きと言う感情がないと温もりを得ることが出来ないのなら、わざわざ寝る必要はない。好意がなければ満たされない。満たされていないからこそ、夜の街へまた出向いてしまうのか。


 考えを巡らせているうちに、仁子の脳裏には、先程梨紗の口から名が出た男の顔が浮かんだ。


「今度は私の番でいいかしら」

「ん? 何?」

「如月さん、小宮こみやくんとは、結局どうなってるの?」

「どうなってるって、あー、この前の戦い? 悪かったね。みっともないの見せちゃって」


 追加の道具を取るために席を離れた梨紗は背中で話してくる。触れられたくないのだろうか。だが、仁子は空気をあえて読もうとしなかった。


「あの日は、デート? してたのよね?」

「うん。まあそうだな」

「好き? なのよね? 小宮くんのこと」

「んー、嫌いじゃない」

「ってことは、好きなのよね?」

「んー、好きでもないかな」

「じゃあ、何?」

「……何なんだろ、ほんと、分かんねーんだよな」


 戻ってきた梨紗に、仁子は両手を見えやすいように広げた。


「航みてえなタイプの男、出会ったことなくてさ。あたしと真逆なわけじゃん?」

「そうね」

「否定しないね」

「否定できるポイントが皆無じゃない」

「その通り。だからさ、本質的に航とあたしは合ってないわけで、最近は何か話すとすぐケンカっぽくなっちゃうんだよなー。楽しく話してたはずなのに、いつの間にか嫌な方向にずれていっちゃう。いわゆるさ、Crystalクリスタルの因果のせいってやつも若干噛んでんのかねー」

「小宮くんとは、その、シないの?」

「何を?」

「えっ? その、それよ」

「シないけど」

「どうして?」

「どうしてって、別に、シないけど」

「如月さんは、好きな人とは逆にしようと思いません的な、新しいタイプの性癖の持ち主なの?」


 大真面目に聞いたつもりが、梨紗は身体を反らして思き切り笑い始めた。細いブラシの先で爪に描いていたシルバーラインは幸い乱れずに済んだようだが。


「仁子って、たまに変だよな」

「それ、五十嵐くんにも言われたことあるわ」

「五十嵐よく分かってんなー。あ、つまりは仁子のこと、あいつよく見てるってことだな。よかったじゃーん」


 一枚上手をいきたいのに、それを超えることを中々梨紗は許してくれない。冷めたはずの熱は簡単にぶり返してくる。ほんの小さなことでも嬉しくてたまらなくなる、恋とは一喜一憂するものだ。もしかすると、梨紗は本当の恋をした経験がないのかもしれない。仁子が追加で質問を投げかけようとした、その時だった。


 ガタン! コンコン!


 店の入口のほう。仁子より梨紗のほうが反応を示すのは早かった。空気に緊張が流れる。忍び足で梨紗がそちらへ近づき扉を開けたが何もそこにはいなかった。


「うーわー、やらしー、騙されたー、普通にびびったー。そう言えば仁子も気をつけろよ。蜘蛛、グレーのフィールド云々関係なしに出現できるみたいだから」

「そうなの?」

「この前それでW武器出せなくて結構きつかった」

「気をつけなくちゃいけないの、如月さんじゃない」

「あーらら、ばれたか」

「あれから特に変わったこと、大丈夫なのよね?」

「うん。蜘蛛は出てきてない。あ、でも、たまあに背後嫌な感じするときある、つけられてるみたいな」

「ちょっと! 全然うん、じゃないじゃない! 返答の選択間違えてるわよ!」


 仁子の必死さを余所に、梨紗はへらりとしている。肝が座っているのは悪いことではないが、座りすぎているのもいかがなものか。


「どうどう。でもさ、振り返ってもいねーんだよな、蜘蛛も、変質者っぽい人も」

「でも、違和感はあるのよね?」

「そ。不思議だよな」

「小宮くんにそれ話した?」

「話してないよ」

「言ったほうがいいんじゃない」

「言ってもしょうがないよ。いずれあたしがKに染まるのは決まってることなんだから、どうしようもできないだろうし」


 広げていなければいけない手を握りそうになった。叫びつけてやりそうにもなったが、仁子は堪えた。梨紗の全てを諦めていると言わんばかりのこの雰囲気が、まるで杏鈴あんずとそっくりだったからだ。あくまでも同士だと、どうして二人共が唄うのか、ようやく腑に落ちた気がする。どの箇所を抜きとっても、切り取っても、梨紗と杏鈴は本本当に似たもの同士なのだ。


 仁子の影響とは断言できないが、杏鈴が少し前向きな気持ちを持ち始めていると梨紗に伝えたかったが、何度も空気を呑み込んだ末、仁子が選んだのは最良の言葉だった。


「ねえ、絶対に、むちゃはやめてね。S応援要請飛ばさないとかなしよ。小宮くんとたとえケンカ中だったとしても、もちろん、私含めて他のMemberメンバー達のことも、頼らなきゃいけない場面では、絶対に頼る。分かった?」

「……分かった。折笠おりかさ大先生がそう言うなら、約束するよ」

「それでよしですって、わあっ! すごーい!」


 仁子の感嘆は、淀んだ空気を突き破った。自分の爪をみてこんなに胸が躍ったのは人生で初めてだ。十本の爪に施された上品なパールの飾り。梨紗が引いていたシルバーラインが、まさかこのデザインを造り出すのは予想外だった。


「これ、貝殻のデザインよね?」

「残念。おっしー。それね、人魚の鱗ネイルって言うの」


 貝殻でも十分にお洒落だと思ったのに、何て素敵な名前なのだろう。梨紗がしてくれた工程のひとつひとつを思い返しながら、仁子は人魚姫になったような気分で両手をじっくりと眺めた。


「うん、やっぱ仁子美人だなー。自分でやったのに、あたしもすげえ満足しちゃうわ。めちゃくちゃ似合ってて嬉しい。五十嵐にも見せにいったら間違いなく可愛いって言われるよ」

「そ、そうかしら」

「うん。こう言うのを口実に会いにいっちゃえばいいわけよ。てか、仁子がいつか結婚する時さ、ネイル頼んでもらえるくらい、もっと上手くなりたいなー」

「え! ぜひそうしたい! 私、如月さんに頼みたい! だから絶対如月さんのこと護るわ! 打倒デッドよ!」


 歯痒そうに笑う梨紗に、仁子はガッツポーズをしてみせた。他愛のない会話ほど明るい気分になれたりするものだ。


 次のネイルモデルとの約束があると梨紗が言ったため、仁子は店をあとにした。エレベーターが一階についた途端にスキップしたくなるほど軽やかな気分だった。


 だから仁子は考えもしなかったのだ。ひとりになった店内で、再び梨紗が、おかしな物音を耳にしていたなんて。




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