◇6.苦しみディフィニション
絵に描いたようだ。ボルドーと渋みのあるオレンジが混じり合っている夕空は。
その絶景を映す海面を眺めていた
もうすぐ十七時半。“
階段を上がると、テラス席のテーブルのバッシングをしている
「いらっしゃいま……えっ! 仁子ちゃんー!」
仁子が声をかけるより先に気がついた杏鈴は、嬉しそうにおさげヘアを揺らして駆け寄ってきた。
「ごめんなさい、急に」
「ううん。凄く嬉しい。どうぞどうぞ。あっ、寒いから、中がいいかな?」
テラス席、と言ってもここは一風変わっている。“温室”は名ばかりでなく、実際にテラス席全体がビニールハウスに包まれているユニークなコンセプトカフェ。そのおかげでさほど寒さは感じない。仁子は首を横に振ると、ホットのカフェラテを頼み、空いている四人がけの丸テーブルの椅子に座った。
五分もしないうちに杏鈴はトレイにマグカップを二つのせて戻ってきた。仁子が頼んだものと、チョコレートのいい香りがするカフェモカだ。
杏鈴は仁子の隣の席に腰かけると、おさげを結っていたゴムを外し、軽く頭を揺すった。
「よかったよー、今きてくれて。わたし、ちょうど上がりだったんだ」
「そうだと思って、この時間にきたの」
「え?」
「
第二の物語の真っ只中、
「謝らないで。仁子ちゃんは何も悪くないよ。それにわたし、全然気にしてないからさ。冷めちゃうから飲んで飲んで」
杏鈴に勧められるまま、仁子はまだ湯気が立ち昇っているカフェラテを、ちびりちびりと口内に流し込む。そうしながらも、窺ってしまうのは彼女の首元。
「その……ひどいこと、されたでしょう?」
ボス戦中、Dark Rに輝紀としての良心が残っていることを
先日、Dark Rと化している最中の記憶がほぼないことを打ち明けられたため、輝紀へ本件を問うことは断念していた。
「ひどいこと? Dark Rにわたしが殴られたりしたこと、かな?」
「ごめんなさい。遠回し、やめるわ。首の痕のことよ」
「あ、そっちか。あれは違うよ。
杏鈴があまりにもあっさり言及したため、仁子はぱっと言葉を返せなかった。彼女は天性の魔性気質だが、隠している風はない。それでも、負う必要のなかった痛みを彼女が味わったことに変わりはない。
けれど、じゃあ、あの痕は何?
悪魔のような顔をしたDark Rが晒し上げていたあの箇所が、幻覚だったとは思えない。
――そいつ、もう十分汚れてるんで。と言うか、腐ってるんで。
ふと浮かんだのは、
「私を、叱ってもらっても構わない」
仁子はそう前置きした。
「
杏鈴が向けてきた感情の色を持っていない潤んだ瞳に臆さず、仁子は
「さすが、梨紗ちゃんだね」
仁子の話を聞き終えた杏鈴の第一声は、非常に穏やかだった。口角も緩やかに上がっている。たった数秒前まで目の前いた無の彼女はどこへやら。仁子はポカンと開いてしまった口を慌てて閉じた。
「梨紗ちゃんが言った通りの人間だよわたしは。本当に女の人に好かれないんだよね。現に仁子ちゃんにだって誤解を与えて苦しい思いをさせちゃったし。それにね、寂しければ、その場ですがれる男の人にすがればいいって思ってる。ずっとね」
「それって、何か関係があるの? 如月さんが、笹原さんを友達じゃないって言う理由に。いや、違うわ。そもそも笹原さんは、如月さんのことをどう思ってるの?」
「……梨紗ちゃんの言う、“同士”が一番しっくりくる表現かな」
杏鈴は両手で握ったマグカップの縁に唇を寄せ、いつの間にか星の見えない夜空の色に染まった海面に視線を移した。
「なりそびれちゃったんだよね。わたし達は、友達に」
度肝を抜かれた。“友達になりそびれる”、そんな定義が存在するのか。どうしたらそこまで気難しい関係に陥るのだろう。あまりにもピンとこない。
「梨紗ちゃんは、わたしと出会いたくなかったって、そう思ってるよ」
「どうして?」
「仁子ちゃんは、自分を故意に傷つけた人間を許してあげられる? この先一ミリだって嫌悪を持たないし、永遠に根に持たないって誓える?」
杏鈴の瞳孔は開いている。仁子は首肯出来なかった。
「梨紗ちゃんが、わたしを許すことは一生ない。そう言うことなんだよ」
杏鈴の横顔が、核心に触れて欲しくないと訴えている。決定的な部分を追及したい気持ちは山々だが、これ以上はよすべきだと判断した仁子は、気持ちを落ち着かせるため、再びカフェラテを口に含んだ。
「わたしはね、仁子ちゃんのことが羨ましい」
「笹原さんが私を羨ましがる理由、全く見当がつかないわ」
「どうして?」
「どうしても何も、私があなたを羨ましいと思うからよ。真っ白で細くて、可愛くて、ふわふわしてて、私が欲しいと思うものを全部持ってる」
「仁子ちゃんに言われると不思議。嫌な気がしないな。けど、今言ってくれた全ては見せかけだよ。ただの上辺。中身は真っ黒で、どろっどろ。ここまで堕ちたらもう、戻れる場所なんて誰にも用意してもらえないよ」
ふう、とひとつ切な気に息を零すと、杏鈴はぐっと伸びをした。強めの潮風がビニールハウスの外側を忙しなく叩く音は、彼女の心の内側を表しているかのようだ。
「仁子ちゃんみたいに芯を持ってる、真っ直ぐで綺麗な人になりたかったな」
「私だってつくりものよ」
仁子の凛とした声は、杏鈴の潤んだ瞳を震えさせた。
「笹原さんだって、私の上辺しか見てないわよ。私は笹原さんが思っているような出来た人間じゃない。人からいくら褒められても、自信を持てたことなんてないし、意地っぱりで頑固なこの性格だって嫌いよ。勉強だって苦手だった。確かに変わりたいと思って努力した部分はいくらかある。それでも、今だって人のことばかり羨ましいと思うのよ。だから、笹原さんと同じよ。自分に余裕なんて一切ないわ」
互いに無言になり、マグカップに口をつけ続ける。しばしの静寂を破ったのは、仁子の左腕から鳴った応援要請を報せる音だった。要請者は
「私、嫌いじゃないわよ。笹原さんのこと」
仁子は早口にそう言うと、マグカップを空にした。淹れて頂いたものは出来るだけ残したくない主義だ。
「でも好きかって言われたら、ちょっと分からないわね」
「仁子ちゃん、やっぱり正直」
「けど、あの時言った通りよ」
流し目ながらに杏鈴と視線を合わせ、仁子は微笑んだ。
「大切な、
視線をすぐに外したのに、照れを隠しきれない。杏鈴の冷え切っていた表情は温まり、いつになく嬉しそうだ。
「バトルフィールドについたら……S、飛ばして」
杏鈴は自身の首元へと手を伸ばす。シャツの中からハートクォーツを模ったネックレストップを取り出すと、何かの証であるかのように見せつけてきた。仁子の心には喜びが広がる。逃げてほしくない、その気持ちが彼女にほんの少しでも響いていたことが、素直に嬉しかったのだ。
「もちろんよ。そうこなくっちゃね」
◇◇◇
午後十時を回った頃、
「もー、こみやんー、ほんとうっさい」
「ひどい! ってか、
真也と、
「おー! わったるんるんー! やっほっほーいー!」
恐ろしいほど上機嫌になっている梨紗に文句をつけるため、仁子からのSに応答したあとにも関わらず、わざわざここまでやってきたのだから。
「とりあえず何にする?」
「麦茶で!」
「はい邪道―」
「明日大学一限からなんですぅ! って、そんなのはどぉーでもよくて!」
航は梨紗の隣に座ると、カウンターテーブルを両手で小刻みに叩きまくった。
「誠也くんに変な誤解されてたじゃんか! 普通に軽蔑されたんだけど! 二人とも言葉のニュアンス気をつけてよね!」
「ごかい? あっぶねぇなー、わたるー。落ちてどっかーん爆発すんぞーっ」
「それ“五階”ね! 俺が言いたいのは“誤解”ね! 事実と違うことがそうだと認識されてしまっているほう! ちょっとこれ何、真さん一体何杯出したの!?」
人より酒に強い梨紗がここまで酔っている姿は、これまで一度も目にしたことがない。机に突っ伏し、顔だけをこちらに向けた彼女の顔つきは、とろんと柔らかい。
「えー、もう分かんないよ。基本は梨紗ちゃんが欲しいって言うだけ出してる。まあ確かに、いつもより大分飲んでる」
「止めてあげて!? 適度に!」
「店はもうかるからねー」
「ほんっとダーク! 鬼畜! 真さんもう砂抜けたでしょーに!」
「元々俺Sだけどー。その状態でも梨紗ちゃんふつーに意識あるから大丈夫。たったさっき、もう一杯頼んできたし、ただテンションがバグれてるだけだよー」
「とりあえず、そのもう一杯はお
酔っ払いを見慣れ過ぎるとこうも冷淡になるのか。平然と仕事をこなす真也の様子に、航の心にはもやが溜まっていく。間もなくソフトドリンクグラスに注がれた麦茶と、ワイングラスに入った水が差し出された。オーダーが変えられたことに梨紗は頓着ないようで、ワイングラスの縁にアプリコット色の唇をくっつけると、美味しそうに飲み始めた。
「んで、誤解って何?」
「そうそうそう! 俺と梨紗ちゃん付き合ってないからね!」
「知ってるけど。
「あの賢い誠也くんがそう簡単に間違った捉えかたしないでしょおよ」
「俺は事実を言ったまでだよ」
「何て?」
「“大丈夫だから、彼女はこみやんじゃない男のところにいった”って」
「いやいやいや! 何ひとつ大丈夫じゃないし! 真さん絶対今の言いかたまんまで言ったでしょ。そりゃ誠也くんなら正しく深読みするわ! 俺が放置してるから他の男のところにいってるみたいに聞こえるもん! 全然事実じゃないじゃん!」
真也からの返答は苛立ちののった鼻息。正当な文句を言っているのに、どうしてそんなに不機嫌な態度を取られないければならないのか全く理解が出来ない。事実と異なることがひとり歩きしていくのを避けたいのは、誰だって同じはずだ。
「ごめん、感情的になりすぎたね。聞きかたを変えるよ。どうして真さんは、そう言う言いかたをしたの?」
一呼吸も置かぬ間に、航は自身を省みた。感情同士をぶつけ続けていては、いつまで経っても話し合いは成立しない。ギュッと真ん中に寄っていた真也の顔は少し緩んだが、不機嫌度合いに著しい変化は見られない。
「こみやんには、分かんないよ」
「どういう意味?」
「オーダーだって、チェンジしちゃうからさ」
「へ? オーダー? 梨紗ちゃん何頼んで」
「べっつにさ、わったるんのせいじゃなくねっ?」
むっくりと身体を起こし、真也との会話に割って入ってきた梨紗。オーダーチェンジの判断は間違っていなかったと確信する。
「仮にあたしー、航と付き合ってたとしてもー、ヤるよっ? 他の男と」
このタイミングで麦茶を口に含んだことを航は心から後悔した。噴き零してしまった茶色い液体が白いシャツに滲みていく。梨紗のおかげで苛立ちの糸が切れたらしい真也は、大笑いをしながら新しいおしぼりを手渡してくれた。
「い、一応、き、聞こうかなぁ。どうして?」
問うこと自体に疑問は生まれて止まないが、流れ上無視するわけにもいかない。ごしごしと茶色い染みを拭きとりながら、航はちらりと梨紗を見やった。
「だってー、航とはー、もー出来ないからでーっす」
てへっ、とわざとらしく首を傾げ、人差し指をクロスさせてばってん印を作った梨紗。残念ながら彼女は現在進行形でどんどん酔っている。人間が本音を吐露しやすい最高の状態だ。
今まで梨紗には一方的に食われかけたり、やたらと身体の関係を迫られたりと散々に振り回されてきた。それなのにこの突然の感情変化。詮索するなと言ってくるわりに、詮索したくなってしまうような言動ばかりを投げかけられるこちらの身にもなってほしい。
「なんっか、それはそれで……いや、それでいいんだけど」
「えーっ、何―っ? ふまーんっ?」
「不満ではないけど、気分屋すぎるよぉ」
「それがあたしですけどー、何かっ? あ! そーいやさっ!
「へっ!?」
想定外の方向からパンチをくらった航は、ギョッと目を見開いてしまった。
「まさかそれが理由!? 梨紗ちゃん優くんに好意あるの!? 優くんに梨紗ちゃんとか絶対やなんだけど!」
「んー? そうじゃねえってー。なんだよう航―っ。ヤキモチ妬いてんのか~っ、可愛いやつめー」
「ち・が・い・ま・す! 何よりどう考えても優くん梨紗ちゃんタイプじゃないし」
「はあっ? じゃーどー言うのがタイプなんですかっ? 元カノとかはっ?」
「ん~、別に、普通の子だった。知りたいなら優くん本人に聞きなよ。そのほうが早い」
「ふぅーん。航はああっ、いなかったなー童貞くんだもんなー」
「絶対それ言いたかっただけでしょ! そのためだけにこの流れにしたでしょ!」
「じゃ、またなーんっ」
「ふえっ?」
唐突に梨紗は椅子から立ち上がった。航もつられるように立ち上り、ふらふらしているその身体を支える。彼女と話し込んでいるうちに真也が入口のほうへ移動していた。帰る客を通し終えたのにその扉を開けたままにし、何やら相槌をうっている。
「梨紗ちゃん、お迎えきたよ」
真也が開け切った扉の先を見て、ドクンと心臓が跳ねた。浮ついたやつだと見た目で判断出来てしまう見知らぬ男の顔がそこにあったから。
「ちーっす。待たせたな梨紗。あ、どもっす、すんませんこいつが迷惑かけて」
「い……いえ」
左手で車のキーをチャラチャラ言わせながら、男は航から奪うように梨紗の肩を抱いた。男に威圧されている。だが、それ以上に今おっかない顔をしているのは、きっと航のほうだ。
「確認なんっすけど、まさかー、こいつの本命じゃないっすよね?」
「はい、違います。ただの友人です」
心臓がバクバクと音をたてて止まない。震える右手に拳を握る。
「そーっすよね。あーよかったー。ちょっとびびったんっすよ。こんな真面目っぽい人とこいつがいるの見たことなかったんで」
「そうじゃない人とは、あるんですか?」
「そうなんっすよ。そん時まじやばくて。こいつん家で八合ってボコられるかと思ったんすけど、よく考えたら俺もお前もただのセフレじゃね? ってなって爆笑して、仲よくなっちまいました」
軽い調子で笑い上げる男の声が、航の意識を白く塗りつぶしていく。全てが白くなるのを阻止してくれたのは、震え続けている右腕にそっと手を添えてくれた真也だった。
「またなーっ、二人ともーっ」
男に引かれ、梨紗はよろよろと足元を動かし始めた。二人のために真也は再び入口の扉を開いた。
「はーいっ、今日もありがとうねっ」
いちゃいちゃと楽しそうな声は、どんどん遠ざかっていく。握り締めたままの拳に視線を落とし、航は茫然とする。虚無感は広がっていくばかりだ。
カタンとカウンターの中から音がして、航はそちらへ首を捻った。真也がグラスを拭いている。
「よく、普通に、してられるね」
「もう見慣れたからねー、あの光景。梨紗ちゃんがここにくる日は、夜の約束があるときだから。待ち合わせまでの時間をここで潰してるの。終電で彼女が目的地へ向かうときもあれば、今日みたいに迎えがくるときもあるよ」
ああ言う風貌の男と梨紗が一緒にいるであろうことは、前々から想像がついていた。しかし、実際にその姿を目の当たりにして、心に充満した嫌悪感は想像を遥かに超えていた。
ただただ彼女を引き止めたかった。しかし、航には止める理由もなければ権利もない。
そう言いわけして、ずっと過去を引きずって、同じ過ちを繰り返し続けるのか。
「こみやん、顔色やばい」
気がつけば口の中を生唾が満たしていた。真也が急いでグラスに水を注いでくれたが、トイレに駆け込んだ。喉の奥が焼ける。夕食を食べそびれたせいで、漏れだすのは胃液ばかり。手洗い場のところに置かれているマウスウォッシュで口内を濯いでから、表へ戻った。
「……大丈夫?」
「ごめん、今日は、帰るね」
「あ、待って! そだ!」
乱れたシャツの襟元を正し、足先を帰るほうへそそくさと向けた航だったが、真也のひらめいたと言わんばかりの声色に止められた。
「ねえ、こみやん。試しにさ、梨紗ちゃんに健全を体験させてみるって言うのはどうかなっ?」
「どういう意味?」
「もーっ、そのまんまの意味だよっ! 俺だって見慣れただけで、別にあれをいいって思ってるわけじゃないよ」
航の身体は真也のほうへ自然と向き直る。
「俺とこみやんで期間限定ユニット、“梨紗ちゃん更生させ隊っ”、結成しようよっ」
そして真也が両手で差し出してきた水の入ったグラスを、契約代わりに航は受け取った。
〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜
◇Link◇
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881417051
・EP1:※◇12
https://kakuyomu.jp/works/1177354054882320715
・EP2:◇15
・EP2:◇16
・EP2:◇18
・EP2:※◆24
・EP2:◇27
・EP2:◇32
・EP2:◇33
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