第3話『「剣山」と老剣士』

「その昔、山を支配していた一匹の大きな熊がいたんじゃ。どんなものも敵わないほどにそいつは巨大でどこまでも腹ペコじゃった。山にいる動物をみんな食っても、そいつの腹は一向に満たされなかった。困り切った猟師が、徒党を組んで大勢で狩りに出たが、みんな返り討ちに合った。熊はその時、初めて人間の味を覚えた。それから熊は人食い熊となって村や町を襲っては人を喰った。女、子供、なんでも喰った。どんな屈強な男も奴には敵わなかった。遠くから幾ら矢を射ても何ら致命傷にはならなかった。幾人の男たちが、自分の命を懸けて一太刀を与え、剣や槍を突き刺しては命を落とした。熊には幾本もの剣が刺さり、次第に熊は『剣山』と呼ばれた。そのこの世のものとは思えない凄惨で恐ろしい姿に、この辺じゃ畏れ神として恐れられているよ」

 老人はそう言って火鉢の炭を弄った。パチッと火が爆ぜる音が小屋に響く。赫は黙ってそれを聞いていた。老人の目には長年蓄積した色濃い疲れがあった。それに老いも重なって、くっきりと死相を表していた。老人の瞳は、とうに昔から諦観しているような、どことなく仙人のような静謐とした色を湛えている。

「儂はもうくたびれた。あいつの最後の姿をこの目に焼き付けたかったが、それももう敵わん。こんなにシワシワになっては、他の連中と一緒に喰われて終わるのが末路じゃ」

 そうは言っても、老人の醸し出す雰囲気は、仇の熊と心中でもするような、決意に満ちていた。人を喰った熊の味には、それほど魅力を感じてはいなかった。しかし何十年と逞しく生き続けた熊の肉というものに、赫の食を探求するセンサーが際どく反応した。生きるために戦い続けた肉質は硬く噛み応えがあるのか、熟成し普通の熊より味は濃くなっているのか、血の色は、油の臭みは。興味が尽きない。

 なんといってもそれほど強い生き物に、何人もの男たちが挑んでは命を落としていったというのが、味の探求よりも男心をそそらせる。自分もそんな男たちと同じように、命を落とさないという保証はない。強敵には驕らず、冷静に力量を見極め、どんな卑怯な手を使ってでも、対象を仕留めるという強かさは、ハンターとしての最初の心構えだ。しかし、そんなものもかなぐり捨てて、一人でもう長いこと戦い続けるこの老人に、赫は強い敬意を抱いた。赫は老人に手を差し出した。老人は半分驚き、半分残念そうに赫の手を取った。二人は握手を交わすと、剣山狩りの約束を契った。


 剣山をおびき寄せるのは簡単なことらしい。人食い熊と言っても、人しか食べないわけではない。水は飲むし、何ら苦労なく仕留められる獲物がいたら、襲って喰らうことだってあると老人は言う。

 罠を仕掛ける。それは水飲み場に来た鹿を一頭捕まえて、それを餌におびき寄せるということだった。おびき寄せると言っても、狡猾で頭のいい剣山には、それだけでもう、老人が戦いを挑んでくることは、姿を見ずに察するはずだ。そもそもそういう前提の狩りだった。だから、餌の鹿の周りには、予め大量の剣を所々に配置する。人が仕掛けた罠であっても、剣山は臆することはない。常に好戦的で絶対の強者だった。戦いを挑んでくる者もまた、剣山の餌食となる。

 準備をしている時、老人から放たれる、尋常じゃない狩人のオーラに赫は驚いた。筋肉や骨格がどうのと言うものではない、老人はいたって普通の背格好で、どちらかと言えば痩躯とも呼べる体格をしていた。

 武器にいたっても、赫が普段使うような大振りなものではない。なまくらではないが名刀とは程遠い。ようは突き刺すことが出来ればいいというもので、思い入れもなく簡単に使い捨てられるもの。剣に対する敬意や誇りなんかは、まるでないが、それが剣山を倒すための老人の境地だった。

 時刻は昼過ぎ。今二人はただ身を潜めて剣山が現れるのを待っていた。足枷のついた鹿を見守りながら時を待った。革袋に入れた水を口に含むと、赫は老人に渡した。老人も軽く口を湿らせる程度に含んで、すぐに赫に革袋を返した。日か暮れかかっている。夜になったらこちらの分が悪くなる。熊は夜目が効かないとしても、鋭い嗅覚がある。気配を感じる五感も並外れていることだろう。日のあるうちが勝負だった。すると、突然鹿が嘶いた。

「奴じゃ」

 老人がさす指の先、恐れ戦く鹿の表情の先には、岩よりも大きく、無数に剣が生えた化け物が現れた。真っ赤に光る六つの目、大きく白く吐く息、長く伸びた鋭い牙と爪、黒々と硬そうな体毛。禍々しい気迫と共に、強烈な凶暴性、猟奇性が窺える。刺さっている剣からは出血がない。剣の錆具合から古いものも新しいものもあることがわかった。

 鹿に近づくものの警戒を解かない。コロロロロロと喉を鳴らす唸り声が谺する。剣山は潜んでいる二人の気配は察しているようだった。老人が茂みから歩み出る。戦闘状態に入っているのか、老人の眼光は鋭さを増していた。地面に刺さっている剣の一つを拾い上げると、掲げて突きの構えを取った。剣山は鹿を無視して老人に狙いを変えた。赫も茂みから出ようとしたが、老人がそれを制した。まずは見ていてくれと言うことか。

 剣山が前足を地面について、最大限の警戒を見せた。じりじりと両者の間合いが狭まる。五間ほどのところまで近づいて、そこで両者の動きがピタリと止まった。薄く白く吐く息で両者の呼吸のタイミングを領解する。一陣の風が吹いて、緊迫感がさらに高まった。風が二人の息を横に流す。最高潮に二人が緊張した時、醸し出す二人の気迫に鹿が身震いをして、戦いが始まった。

 剣山が地面についている前足を踏み込み、前のめりに老人に襲い掛かった。老人はそれを紙一重で躱し、すれ違いざまに剣を下から突き刺す。剣山の右の腕の付け根に深々と剣先が突き刺さった。重油のように黒々とした鮮血が飛び散る。剣山は態勢を変えて老人の脇腹を薙ぎ払おうと爪を振るったが、老人は羽毛のように軽やかに身を翻した。着地と同時に剣の一振りを掴み、剣山に投擲する。剣山はそれを爪で払うが、その時老人の手にはもう一本剣が握られていた。


 駆け、切り込む。足を止めて戦えば分は剣山にある。常に翻弄して緊張を途切れさせず間合いを測らなければならない。老人の疾風迅雷の攻撃に、剣山の四肢に剣が突き刺さった。血は滴っているが、剣山はもろともせずに猛然と老人に襲い掛かる。速さの老人と腕力の剣山。力量の均衡は保たれていたが、それが崩れ始めた。老人のスタミナが切れ始めた。剣山の繰り出す攻撃はだんだんと老人の皮を捉え、肉を裂き、血を噴出させた。一撃でも攻撃を被ることがあれば、老人は他の狩人と同様に、剣山の餌食になってしまうだろう。赫は茂みから飛び出した。

しかし、

「来るな!」

 老人はまたも赫を制した。この老人は死ぬ覚悟を決めて、剣山と対峙していた。端から老人は赫と共闘して剣山を倒そうとは考えていなかった。老人は剣山を人里を荒らすただの悪害と考えていない。自分が命を懸けるに値する最大の好敵手。そこに恨みや憎しみの類は介在しない。それでも老人の剣は、剣山の命を刈り取るには、老い過ぎていた。

 そして剣山は長らく相対していた老人との戦いで、知恵を巡らせていた。老人が最後の猛攻を見せ、何本もの剣を次々に突き刺していき、剣山がたじろいだ。老人はそれを好機と思い、一気に畳みかけた。しかし、それは剣山の身に着けた人間の技、演技だった。常に想像を超えたものが勝利を掴む。はたと気づいた時には、老人の踏み込みは止まらなかった。

 刹那、老人の腹から胸にかけてを剣山の爪が薙ぎ払った。深く食い込んだ爪は皮、肉、臓物を切り裂いて老人に致命傷を与えた。風に乗っていた剣山の血の匂いに老人の血の匂いが混じった。

 赫はそれが老人の最後だと思って茂みから勢いよく飛び出した。大剣を構えて振り下ろす。手傷を追わせるための一撃ではなかった。辛うじて息のある老人に、剣山の追撃が加わらないようにするためのものだった。剣山は重そうな巨体ながら、即座に赫を気配を察知して、それを躱した。

 赫は腰に提げていたポーション(薬湯)を老人の傷に向けて振りかけた。傷を塞ぐことは出来ないが、僅かにでも出血を抑えられる。まだ死ぬな。この熊の肉をお前は最期に喰らうんだ。そう赫は背中で伝えた。

 今度は赫と対峙することになった剣山は、獲物が増えたことで舌なめずりをしていた。しかし、剣山の爪もさることながら、赫の大剣も見劣りはしない。斬るというより叩き斬るという方が正しいか。遠心力と剣の重みを最大限に生かした一撃必殺の剣。

 担ぎ上げるように赫が剣を構えると、じりじりと両者の距離が縮まっていく。赫は剣山の呼吸のリズムを読んで半呼吸早く、初動を仕掛けた。それが剣山のストレスを蓄積させていく。間合いを詰めて、一撃を斬り込んだのは赫の方だった。地面が抉れるほどの一撃を繰り出すと、流石の剣山も大きく仰け反ってそれを躱さずにはいられなかった。しかし一撃を外したこと、それはこの幾人もの戦士を屠ってきた猛者に対して迂闊以外の何物でもなかった。もちろん赫もそれは分かっている。しかし牽制とて本意気を込めねばこの狡猾に人間と相対する化け物を相手には出来ない。剣山の後ろ足が地面を蹴り上げた。赫は大剣から手を放し、襲い来る剣山の爪を掻い潜り、すり抜け際に剣山の腕に刺さっていた剣を引き抜いた。武器だったらこの化け物に立ち向かった幾人もの戦士たちの足跡がある。だが運悪く剣は古い年代のもので錆び付いていた。受け太刀でもしたらポッキリと折れてしまうだろう。右の爪は躱した。案の定左の爪の連撃が来た。赫はそれを持ち前の人間離れしている動体視力で正確に見極め、剣を一直線に突き刺した。剣は赫の一撃にも何とか耐え、刃は根元まで飲み込まれた。

「ギュァァァァァァァァァ!!!」と苦しむ剣山の隙を見て、赫は再び自分の大剣を手に取った。振り上げる時、ゾクリとする嫌な感じが赫の背筋を走った。これだけ剣の突き刺さった剣山が、果たして人並みに痛みを感じるものか。そうまたも演技。強かに剣山の六つある赤い目が歪んだ気がした。赫の振り上げる剣の一コンマ早く剣山の爪が振り下ろされた。赫はそれを剣の軌道を腕の力で変えて、更に剣の重さを利用して飛び上がった。空中で更に剣山の爪を蹴り上げ、腰を捻ってそのまま回転した。剣は剣山の首を叩き斬り、直立した首のなくなった胴体から勢いよく血が噴き出した。断ち切られた首は老人の目の前に落ちて、見開かれた剣山の六つの朱い目に老人の顔が映り込んだ。力を失った剣山の体はドシャリと大きな音を立ててその場に倒れた。赫は大きく息をついて空を見上げた。

「見事じゃ」

 老人が赫の勝利を賛辞し、戦いに幕が降ろされた。

 赫はすぐさま剣山を肉にした。剣山の胸を開いて心臓を取り出す。それを薄く切り、持ってきていた獣の血と香辛料で作った特製のタレに着けた。この肉を一番先に食べる者は既に決まっている。赫は老人の口に剣山の心臓を含ませた。老人はゆっくりとそれを噛み締めている。老人の目から万感の思いで涙が流れる。

「なんて旨いタレじゃ」

 老人の幸せそうに笑む顔を見て赫は照れくさそうに笑った。

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グルメハンター赫 柳 真佐域 @yanagimasaiki

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