第16話 脱出計画

 その日の夜中。チャールズが完全に寝入って起きてこないのを確認して、レイチェルはこっそりとベッドを抜け出した。なるべく音を立てずにガウンだけを羽織って、そっと部屋を抜け出す。


 そしてブラッドに教えられていた通りのルートを、やはりなるべく足音を立てないようにして小走りに進んでいく。


 途中で組織の警備員に見つからないか、そうでなくとも誰かと行き違ったりしないか気が気ではなかったが、幸いな事に誰とも会わなかった。ブラッドは入念に下調べを行っていたらしい。監視カメラの死角も調査済みだ。


 廊下はしんと静まり返っている。やがてレイチェルは目的の場所に到達した。


 コンッ コンッ


 ドアを静かにノックする。すぐに中からドアが開けられた。ブラッドが顔を覗かせる。


「……よし、入れ」


 周囲に誰もいない事を素早く確認して、ブラッドがレイチェルを自分の部屋に招き入れ、すぐにドアを閉めた。



 そう。密会場所はブラッドが与えられた私室であった。『参加選手』達の部屋には監視カメラが無いので、部屋の中に入ってさえしまえば密談は問題ない。しかしレイチェルの部屋にはチャールズがいるので、密談をするなら彼女がブラッドの部屋まで赴く必要があった。また『招待』の経緯からして反抗、逃走のリスクが高いレイチェルの部屋には、盗聴器が仕掛けられているかも知れないとの事。



「誰にも行き会わなかったか?」

「ええ、大丈夫よ。お陰様で」


 レイチェルが頷くとブラッドはようやく安心したようにソファに腰掛けた。レイチェルにも座るように勧める。


「さて、まずは無事の勝ち抜きを祝おう。グラップラー相手に見事だった」


 レイチェルが対面のソファに座ると、ブラッドがそんな風に切り出してきた。


「だが油断はするなよ? 近代のレスリングは相手のフォール技術に特化していて、そこまで危険な技は少ない。お前が重傷を負わずに済んだのはそういう側面もあるからな」


「それは……ええ、確かにそうね」


 レスリングは仰向けで両肩が地面に着いたら負けというルールがある。つまり相手を『フォール』出来れば勝ちなのだ。なのでトレーニングは必然、相手をいかにしてフォールするかという技術の特訓が中心となる。積極的な人体破壊術を習得している訳ではないのだ。


 勿論実戦に応用できる技術は数多くあるのだが、直接的か間接的かの違いは大きい。ブラッドはそれを警告しているのだ。



「よし、じゃあ前置きはここまでにして本題に入ろう。連中の警備が厚い、重要と思われる区画を発見した。俺の予想では、そこには外部との通信手段があるはずだ」


「……!」


「後もう一点。酒や食材、その他の消耗品を搬入しているらしきルートも当たりを付けた。どうも俺達や会員共がやってきたあのエレベーターとは別に『業務用』のエレベーターか何かがあるようだ。流石にその場所までは辿り着けなかったが、脱出に使うなら非常階段よりもそちらの方が良いだろうな」


「…………」


 警備の厚い場所に侵入するとなれば発見されるリスクも大きくなる。例え外部との通信に成功したとしてもそこで終わりではない。


 司法の手が伸びるとしても、当然すぐに駆け付けてくる訳では無く時間差がある。その間にこちらがやった事が発覚し、連中に捕まってしまったら元も子もない。


 そうなる前に逃げる為の、『脱出ルート』の確保は絶対条件だ。


 『パトリキの集い』はもし非常時となれば、あのエレベーターを封鎖してしまえばそれで済む。そして非常階段も当然監視されているはずなので、中の人間が勝手に抜け出す事はほぼ完全に防げる。それ以外の交通手段をこちらは知らされていなにのだからそれが普通だ。


 だが確かにこの『地下ホテル』には会員用のバーやレストランも沢山あり、その為の物資を搬入する場所は絶対に必要になる。そこは外部との接点だ。



「後は物資搬入のタイミングさえ掴めれば、それに合わせた『作戦』を立てられるんだがな……」


 ブラッドが難しい顔になる。


 そうした業務用の設備は稼働している時間帯以外は施錠されている場合もあり得る。いざ逃げてきたは良いが、肝心のエレベーターが動きませんでは目も当てられない。


 なので理想的にはその設備が稼働している時……つまりは実際に物資が搬入されているタイミングが最適だ。


 だが現実問題としてそのタイミングをどうやって調べるかだ。まさか組織の連中から直接聞き出す訳にも行かない。聞いた所で教えてくれるはずがないし、怪しまれるだけだ。


 かといって誰かを捕まえて強引に聞き出すのも不味い。当然聞き出した後はそいつの『口を封じ』なければならず、恐らく組織側はすぐに『欠員』に気付いて警戒レベルを上げてしまうはずだ。そもそも絶対に聞き出せるという保証もない。


 そうなると怪しまれない場所から地道に監視する以外になくなるが、それだけでは正確な時間帯を把握する事は困難だし、長引けば長引くほど怪しまれるリスクも大きくなる。


 何より悠長に時間を掛けると、その分だけレイチェルが『フェイタルコンバット』で勝利を重ねなくてはならないとい事になる。いつ最悪の事態になってもおかしくない綱渡りの試合など、少なければ少ないほど良い。


 ブラッドもすぐには妙案が浮かばないようだった。勿論レイチェルも同様だ。とりあえずその対策を考えるという事で、今晩は解散となろうとした所で……



 コンッ コンッ



 控えめなノックの音が聞こえた。


「……!」

 レイチェルとブラッドが身体を硬直させる。ブラッドが無言でレイチェルの方に視線を向ける。レイチェルは慌ててかぶりを振った。ここに来るまでに確かに誰にも見られなかったはずだ。


 ブラッドが逡巡した。居留守を使うべきか迷っているのだろう。だが再びノックの音が鳴った。


 本来なら寝静まっている時間帯にノックをしてくる事自体、ブラッドが『起きている』のを確信しているという事になる。


 彼は小さく舌打ちして立ち上がるとドアに歩み寄った。もし相手が解った上でノックしているとしたら、出ない方が不自然だ。


 念の為、ドアスコープを覗き込む。そして……


「……ッ!?」

 驚いたように目を瞠った。信じられない物を見るような目でレイチェルを振り返るが、勿論彼女には何が何だか解らない。


 戸惑っている内にブラッドがそっとドアを開けた。そこから静かに部屋に滑り込んできたのは……



「……ママ・・ッ!」

「エ……エイプリル……?」



 入ってきたのは紛れもなくレイチェルの愛娘であるエイプリルであった。レイチェルは混乱した。


(え……ど、どういう事? 何故この子がここに……?)


「ママ、ごめんなさい。こっそり付いてきてたの」


「……! な、何で……」


「……ママが抜け出すのに気付いて、すぐにおじさんと話しに行くんだって解ったの。私も一緒に行きたかったけど、言ったらママは絶対ダメって言うと思って……ごめんなさい」


「エ、エイプリル……」


 レイチェルは絶句していた。この状況は予測していなかった。すると再びドアを閉めたブラッドが戻ってきた。


「レイチェル。この子はお前……いや、俺達が思っているよりもずっとしっかりと状況を把握しているようだ。事はこの子の安全にも関わる話だ。一緒に聞いてもらってもいいんじゃないか?」


「ブラッド……」


「ママ、お願い! ママが戦ってるのって私のせいなんでしょ? なのに私だけ何もしないでいるなんて嫌! 私にも手伝わせて!」


「…………」


 エイプリルが普通の子より『マセて』いるのは知っていたが、それだけだと思っていた。ブラッドの言う通り、自分の娘でありながらこの子の事を何も解っていなかったと反省した。


 レイチェルは微笑んで娘の頭を撫でた。


「……解ったわ、私の可愛い天使。ママが悪かったわ。ええ、是非あなたも一緒に話を聞いて頂戴」


「……! ママ、ありがとう!」


 エイプリルが抱き着いてきた。


「凄い子だな。お前に似たのか? それともジュリアンか?」


「さあ……どちらでもいいわ。私の……私達の自慢の娘よ」


 レイチェルは誇らしい気持ちでそう言った。



 その後、エイプリルも交えてもう一度調査結果と問題点のおさらいをした。一から考え直せば何かいい案でも浮かんでくるかも知れない。そう思ってのおさらいだったが、『いい案』は意外な所から出てきた。


「ママ……それ、私がやってみる」

「え?」


 物資搬入のタイミングに話が及んだ時、エイプリルがそう言ってきたので驚いた。


「大人の人が聞いても怪しまれちゃうんでしょ? でも私にだったらお話してくれるかも」


「そ、そんな……危険よ」


 レイチェルが試合に負けたらエイプリルを殺すと脅してくるような連中だ。エイプリルが子供だからと言って容赦はしないだろう。だがブラッドが頷いた。


「……ふむ。案外上手く行くかも知れんな」

「ブラッド!?」


 レイチェルは驚愕して彼を仰ぎ見る。だがブラッドは真剣だ。


「何も荒事をしてもらう訳じゃない。俺達がそうだったように、パトリキの連中もきっとこの子の事を見誤っている。小さな子相手なら、と油断してうっかり口を滑らせるかも知れん。もしくは近くにいるのが子供だけならと、仲間同士で重要な話をするかも知れん。それを盗み聞きするだけでも価値がある」


「……!」

(確かに、それくらいなら……でも)


 レイチェルが逡巡していると、エイプリルが彼女の服の裾を引っ張った。


「ママ、お願い……私にやらせて。大丈夫。危ない事はしないから」


 その真剣な瞳に遂にレイチェルは折れた。


「……解ったわ。じゃああなたにお願いする。でも約束して? 絶対に危ない事はしないって」


「ママ……! うん! 約束する!」


 2人は再び抱擁し合った。その様子を対面からブラッドが微苦笑したような表情で眺めていた。


 こうして当面の計画が固まり、レイチェル達は僅かではあるが勝利と生還の可能性に希望が湧いてきた。だがそれを嘲笑うように、次なる悪意がレイチェルを脅かそうとしていた……

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